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2022.11.11

「光線画」を知っていますか?明治の人々が見た闇と光。

ガス灯によって照らされた夜の街や、月明かりに染まる川辺の夜景…。今から150年前の明治時代初期、西洋からもたらされた油彩画や石版画、写真などの表現を、木版画である浮世絵に取り込むことによって、新たに変わりゆく東京の風景を捉えた浮世絵師たちがいました。

小林清親『隅田川夜』 明治14年(1881)太田記念美術館蔵

それが小林清親(こばやし きよちか)、井上安治(いのうえ やすじ)、小倉柳村(おぐら りゅうそん)の3人です。光と闇を強調して描いた作品は光線画と呼ばれて一世を風靡します。そうした光線画の魅力を紹介する展覧会が、東京・神宮前の太田記念美術館にて開催されています。

まず知りたい!小林清親の手がけた光線画の特徴とは?

小林清親『東京銀座街日報社』 明治9年(1876)8月31日 個人蔵

小林清親が光線画を手がけはじめたのは1876(明治9)年のこと。まだ江戸時代に由来する伝統的な浮世絵が多かった中、西洋の絵画に近い表現を木版画でも行おうとして描きます。輪郭線を省略、もしくは排除し、色の面で人物を捉え、ぼかしや網目、短い横線によって陰影をつけるのが特徴です。

小林清親『高輪牛町朧月景』 明治12年(1879) 個人蔵

当時は新橋と横浜の間に鉄道が開通したり、煉瓦街となった銀座にガス灯が設置されたりと、いわゆる文明開化によって街が日々変化していました。

小林清親『柳原夜雨』 明治14年(1881)太田記念美術館蔵

最初に展示された5点の清親の作品には、いずれも東京の夜景が描かれています。まだ夜が暗かった時代でありながら、ガス灯が登場することで、江戸時代の夜とは違った風景が現れます。

小林清親『御茶水蛍』 明治12年(1879)頃 太田記念美術館蔵

かなり暗い画面ですが、闇に目が慣れるようにして少しずつモチーフが浮かび上がるのではないでしょうか。当時の人々が見たであろう夜の闇と光の情景が、清親の光線画には表れているのです。

かつて暮らしていた江戸の町を思い出す。清親が光線画に描いたノスタルジア

小林清親『御城内釣橋之図』 明治12〜14年(1879〜81)頃 個人蔵

それでは清親は文明開化に共感を抱いて描いていたのでしょうか。実は必ずしもそうではありませんでした。元々、御家人であり、幕臣として上野戦争にも参加した清親は、明治時代に入ると一時、徳川慶喜と一緒に静岡へと移ります。そして1874(明治7)年、仕事を探すために東京へ戻ると、木の橋が石の橋に作り替えられるなど、江戸から変わりゆく東京のすがたを目の当たりにしました。

小林清親『浅草田甫太郎稲荷』 明治13年(1880)頃 太田記念美術館蔵

『浅草田甫太郎稲荷』に注目してください。吉原遊廓の南西にあった裏寂れた神社を舞台としていますが、幕末には大勢の参拝客が訪れていた名所でした。しかし明治に入ると廃れてしまい、人の気配がありません。よって清親はかつて名所だった賑わいを思い出しながら描いたと言われています。

小林清親『海運橋 第一銀行雪中』 明治9年(1876)頃 個人蔵

代表作の『海運橋 第一銀行雪中』とは、1875(明治8)年に石造アーチ橋に改架された海運橋から、和洋折衷の疑洋風建築物である第一国立銀行を眺めた作品です。多くの浮世絵師たちが文明開化の象徴としてこぞって華やかに描いたのに対し、清親はどんよりとした空に雪を被せ、極めて落ち着いた光景にまとめています。

小林清親『本所御蔵橋』 明治13年(1880)頃 太田記念美術館蔵

このように清親は必ずしも文明開化をすべて良しとせず、少し距離を置いて、かつて暮らしていた江戸の町に郷愁を寄せるようにして光線画を制作していたのです。


清親の弟子・井上安治から謎の絵師・小倉柳村まで

井上安治『新吉原の景/神田ヨリ出火久松町焼失の図/ゆ嶋天神/両国大火浜町川岸ニテ写ス』 明治14〜22年(1881〜89)個人蔵

清親の弟子である井上安治も光線画を手がけた浮世絵師でした。『浅草橋夕景』でデビューした井上は、1881(明治14)年より四つ切判のシリーズの『東京真画名所図解』を出版。幕末生まれの井上は江戸の記憶もほとんどなく、慣れ親しんでいる明治の東京の街をありのままに描いていきます。しかし井上は1889(明治22)年、26歳の若さで亡くなってしまいました。

もうひとりの小倉柳村も清親に倣って光線画を制作しましたが、生没年はもとより、経歴も全くわかっていない謎の絵師です。残された作品もわずか9点に過ぎません。

小倉柳村『湯嶋之景』 明治13年(1880)11月5日 太田記念美術館蔵

小倉の『湯嶋之景』も見逃せない1枚です。待合茶屋の並ぶ湯島天神の男坂の上に立つ2人の男性が、満月に照らされた東京の街を見下ろしています。左側は人力車の車夫、そして右側の男性は客と推測されますが、2人の距離感は絶妙で、言葉を交わしているのか、そうでないのかはよく分かりません。両者の関係は一体? 色々と詮索したくなるようなミステリアスな雰囲気が漂っています。

新版画の先駆けとしての光線画。短い間で終焉を迎えた理由

小林清親『今戸橋茶亭の月夜』 明治10年(1877)頃 太田記念美術館蔵

木版画の新たな可能性を切り開いた光線画は、のちに人気を博した大正から昭和の新版画の先駆けとも言われますが、意外にも清親の光線画はわずか6年ほどの短い期間にて終焉を迎えます。

小林清親『本町通夜雪』 明治13年(1880)個人蔵

何故なのでしょうか? まず清親自身が新聞にて社会や政治を風刺した挿絵を描くなど、次のステップに移ったことが理由の1つとして挙げられます。そして光線画を終えると、広重風の江戸懐古的とも言える浮世絵を制作しました。

小林清親『東京橋場渡黄昏景』 明治9年(1876)8月31日 太田記念美術館蔵

また光線画そのものも人気を博したのは事実ですが、爆発的なヒットまでには至らず、従来の浮世絵をはじめ、赤を中心とする鮮やかな色彩にて文明開化を描いた開化絵の方がはるかに売れていました。またアルファベットを書き加えた作品もあり、輸出を意識した形跡も見られますが、海外で大きく流行った記録もありません。

小林清親『浅草田甫太郎稲荷』 明治13年(1880)頃 個人蔵 ※ニス引きの作品

今回の展示では、清親110点をはじめ、安治76点、また柳村14点など、200点もの光線画を公開(摺り違いを含む。前後期で全点入れ替え)。中には画面全体に樹脂液を塗り、西洋の油絵のように見える「ニス引き」といった珍しい作品もあります。

小林清親『今戸夏月』 明治14年(1881) 太田記念美術館蔵

実に当時制作された光線画の9割を網羅した、光線画の決定版と言うべき充実した展覧会です。明治の人々が感じたであろう闇と光を太田記念美術館にて味わってみてください。

展覧会情報

『闇と光―清親・安治・柳村』 太田記念美術館
開催期間:2022年11月1日(火)~12月18日(日)
 ※前期:11月1日(火)~11月23日(水・祝)、後期:11月26日(土)~12月18日(日)前期と後期で全点入れ替え。
所在地:東京都渋谷区神宮前1-10-10
アクセス:JR線原宿駅表参道口より徒歩5分。東京メトロ千代田線・副都心線明治神宮前駅5番出口より徒歩3分
開館時間: 10:30~17:30
 ※入館は17:00まで
休館日:月曜日。および11月24日(木)、25日(金)
観覧料:一般1000円、大高生700円、中学生以下無料
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp

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千葉県在住。美術ブログ「はろるど」管理人。主に都内の美術館や博物館に出かけては、日々、展覧会の感想をブログに書いています。過去に「いまトピ」や「楽活」などへ寄稿。雑誌「pen」オンラインのアートニュースの一部を担当しています。

千葉県在住。美術ブログ「はろるど」管理人。主に都内の美術館や博物館に出かけては、日々、展覧会の感想をブログに書いています。過去に「いまトピ」や「楽活」などへ寄稿。雑誌「pen」オンラインのアートニュースの一部を担当しています。

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