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2022.10.26
『フランダースの犬』の主人公・ネロが見たかった絵って?巨匠ルーベンスの作品を解説
イギリスの児童文学を原作に、これまで何度もアニメ化や実写映画化が繰り返されてきた名作『フランダースの犬』。
画家になりたいと思っていた主人公・ネロは、ルーベンスの名画『聖母マリア被昇天』、『キリスト昇架』と『キリスト降架』を観たいと夢見て生活をしていました。
このルーベンスの名画は、当時お金を払った人にしか公開されてしなかったため、貧乏なネロは観ることができなかったのです。
『キリスト昇架』の展示風景, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
この記事では、『フランダースの犬』に登場する巨匠ルーベンスの作品について、歴史背景などを踏まえて解説していきます。
ネロが憧れたルーベンスはどんな人物?
ルーベンスの自画像, Public domain, via Wikimedia Commons
ピーテル・パウル・ルーベンスはヨーロッパ貴族を中心に大きな評価を得たバロック期を代表するフランドルの画家です。16世紀末から17世紀中旬までに活躍し、7か国語を操り外交官としても実績を残しました。
カルヴァン派(プロテスタント)の父を持ちながら、自身はアントウェルペンでカトリックの教育を受けて育ったため、対抗宗教改革の影響を受けた作品も多く残しています。
対抗宗教改革とは、プロテスタントの宗教改革に対抗してカトリック内で起こった改革運動を指します。
ルーベンスは美術を学ぶために17世紀の初めをイタリアで過ごしたという経歴があり、ローマでは古代ローマ・ギリシャの偉大な作品を模写する機会を得ました。
イタリアで古代芸術やティツィアーノ、カラヴァッジョの影響を受けたルーベンスは、その後アントウェルペンに戻ってからすぐに『キリスト昇架』と『キリスト降架』にとりかかりました。
ネロが見たかった絵①『聖母マリア被昇天』
Rubens, Mariä Himmelfahrt (Antwerpen), Public domain, via Wikimedia Commons.
ネロが観たかった作品の1つはルーベンスの『聖母マリア被昇天』です。聖母マリアはイエスの母であり、彼女が地上での人生を終えたのち、天上世界で引き上げられるシーンが主題になっています。
通常キリスト教徒は亡くなると、最後の審判を待ち、その後天上世界(もしくは地獄…)に行きます。しかし聖母マリアは神イエスを産んだ特別な存在なので、死後すぐに天上に昇りました。
「昇天」ではなく「”被”昇天」という訳が日本語で伝統的に使われているのは、聖母マリアが神によって「引き上げられた」というニュアンスを含むためです。
ルーベンスは1611年から本作の制作を開始し、作品が完成したのは1626年でした。つまり、15年の時間が費やされています。(ずっとこの作品だけを制作していたわけではないかもしれませんが…(笑))
ルーベンスの『聖母マリア被昇天』では、天使の聖歌隊が聖母を囲みながら天上に連れていく様子が描かれています。神聖な光に包まれ、聖母マリアはまるで歌っているかのように軽やかな表情です。
聖母の下にあるのは、彼女の墓で、周りには11人の使徒が描かれています。本来12人のところ11人しかいないのは、この場面に使徒トマスが不在だったという伝説に由来するそうです。
11人の使徒以外には、マグダラのマリアと聖母マリアの2人の姉妹と考えられる女性も描かれています。
地上に描かれた人々は大きく手を広げたり、棺のなかをのぞきこんだり、聖母マリアを見上げたり、それぞれの感情を表しています。
穏やかな色合いではあるものの、バロックらしい躍動感は確実に表現されており、ドラマチックな作品です。
画家を志していたネロは、ルーベンスのこの作品を見ることを夢見ていたのですね…。
ネロが見たかった絵②『キリスト昇架』
ルーベンス『キリスト昇架』, Public domain, via Wikimedia Commons
ネロが観たいと思っていた『キリスト昇架』と『キリスト降架』は、いずれもアントウェルペンの聖母大聖堂に飾られている作品です。
ルーベンスは北方バロック芸術家の代表的な芸術家です。
この作品がきっかけとなり、当時イタリアを中心ですでに花開いていた絵画のバロック様式がネーデルラントに広まることになりました。
バロック様式とは、16世紀末から18世紀の間にヨーロッパで広まった芸術様式の1つ。少し前の時代に興ったルネッサンス様式に比べると、秩序をあえて崩し強烈な明暗を表現することで、劇的な印象を与える点が特徴。
『キリスト昇架』では、イエスが十字架にかけられるシーンを描いています。
作品は3枚のパネルから構成されており、描かれている内容は次の通りです。
中央 | まさに十字架に架けられているイエス |
左 | 悲嘆に暮れる聖母やマグダラのマリアなど |
右 | イエスとともに磔刑に処される2人の罪人 |
強烈な明暗と劇的な場面構成は、バロック期の特徴をよく表しています。
「キリスト昇架」という主題は、アルプス以南(つまりイタリア)ではあまり描かれませんでしたが、ネーデルラントやフランドルではしばしば目にする主題です。
人類の罪を背負い、十字架にかけられるイエス。
中央では、イエスとそれを担ぐ人々によって、作品が左上から右下にかけて大きく斜めに分断されていることがわかります。大胆な構図は、バロック作品によく見られる特徴の1つです。
描かれた一人ひとりに注目すると、今まさに重い十字架が持ちあげられようとする瞬間の躍動感が伝わりますね。力を込めて十字架を押している(または引いている)男性陣とは対照的に、イエスの身体はだらりと弛緩している対比が印象的です。
バロック様式の要素以外にも、ルーベンスがイタリア留学を通して見たものがこの『キリスト昇架』には取り入れられました。
それは、16世紀にローマで発掘された古代の彫刻『ラオコーン』です。
参考:『ラオコーン』 Vatican Museums, Public domain, via Wikimedia Commons
ルーベンスは『ラオコーン』の筋肉質で美しい身体から影響を受け、キリストの身体を描いたと言われています。
ネロが見たかった絵③『キリスト降架』
ルーベンス『キリスト降架』, Public domain, via Wikimedia Commons
『キリスト降架』は『キリスト昇架』とは反対に、イエスが十字架から降ろされるシーンを描いた作品です。
ルーベンスはまず『キリスト昇架』を1611年に完成させ、その後すぐに『キリスト降架』の制作に取り掛かりました。
こちらも3枚のパネルで構成されており、内容は以下の通りです。
中央 | 十字架から降ろされるイエス |
左 | イエスを身ごもる聖母マリア |
右 | 抱神者シメオンがまだ生まれたばかりのイエスを抱いたシーン |
先ほど見た『キリスト昇架』とは反対に、今度は右上から左下に斜めに構成されています。『キリスト昇架』の荒々しく十字架を打ち立てるシーンに比べるとイエスを囲む人々は穏やかに彼の身体を包んでいます。
イエスを十字架にかけた人々の野蛮さとイエスを十字架から降ろす人々の穏やかさ。この2つの作品は単に美しいだけではなく、対比することでイエス殉教の物語を感覚的に伝える役割があります。
『キリスト降架』も『ラオコーン』の影響を受けていると言われ、精気を失った人間の身体のずっしりとした重さが、周囲の人に支えられている様子が伝わりますね。
参考:ルーベンス『キリスト降架』中央パネル, Public domain, via Wikimedia Commons
実際、『ラオコーン』は左から「まだ生きている人」「生死の境にいる人」「ほとんど息絶えている人」という生から死への移行を表現していると言われます。
イエスの十字架刑においては、精気のある状態で張り付けられた『キリスト昇架』と、息を引き取った状態で降ろされた『キリスト降架』の肉体表現の違いを感じることができます。
まとめ
『フランダースの犬』では、ネロはこの作品を観るという夢をかなえて天国にのぼっていきます。
絵を描くのが好きだった彼にとっては、巨匠ルーベンスのこの2つの作品は非常に重要な意味があったのでしょう。
『キリスト昇架』と『キリスト降架』には、ルーベンスのイタリア留学における経験が反映されています。
芸術家の経歴を知ると、作品の背景を詳しく知ることができておもしろいですね。
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イタリア・ローマの大学の美術史修士課程に在籍中。3年半勤めた日系メーカーを退職後、2019年から2年半のスペイン生活を経てフリーライター、日英・日西翻訳として活動するかたわら、スペイン語話者を対象に日本語を教えています。趣味は読書、一人旅、美術館・教会巡り、料理。
イタリア・ローマの大学の美術史修士課程に在籍中。3年半勤めた日系メーカーを退職後、2019年から2年半のスペイン生活を経てフリーライター、日英・日西翻訳として活動するかたわら、スペイン語話者を対象に日本語を教えています。趣味は読書、一人旅、美術館・教会巡り、料理。
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