STUDY
2023.3.27
アンリ・マティスとは? 生涯と絵画作品から「彼は何がすごいのか?」を紐解く
現代の美術を指して良く用いられる言葉が「カオス」。これはもうたぶんどの美術本でもそう書かれているのではないでしょうか。
かつては時代・年代によって、なんとなく「潮流」というものがありました。でも、今はもうそんなメインストリームもサブカルチャーもアンダーグラウンドもあったもんじゃないですよね。超多様化していて、広い目で見るとごっちゃごちゃです。誰もが好きな表現を極め、共感した人が集って市場を形成している。まさに「混沌ここに極まれり」なわけです。
さて、この「美術様式の多様化」が本格的に始まったのは20世紀からです。産業・テクノロジーの発達による生活スタイルの変化、アーティストの意識の変化などを背景に、キュビスム、青騎士、アール・デコ、ポスター美術、ダダ・シュルレアリスム、コンテンポラリーアート、素朴派、未来派などなど、多種多様な様式が生まれました。「いやもう批評家が無理やり様式を作って分けていたんやろ」ってくらい作品が多様化した時代です。
そんな20世紀の多様化した美術を総称して「20世紀美術」と区切ったりします。ではそんな20世紀美術はどこから始まったのか。というと、よく「フォービスム(野獣派)からだ!」といわれます。
目次
Alvin Langdon Coburn, Public domain, via Wikimedia Commons
今回ご紹介したい人はそんな美術界に革命を起こした「フォービスム」のリーダーの一人、アンリ・マティスです。美術好きでは知らない人がいないほどのビッグネームですが、いったい何がすごいのか。彼の作品にはどんな特徴があるのか。生涯を通してみていこうじゃありませんか。
21歳、盲腸の療養で暇すぎたから絵を始める
アンリ・マティスは1869年の大晦日にフランスで誕生します。お父さんは裕福な穀物商人、お母さんはアマチュアの画家でした。ただ小っちゃいときにお母さんから「アンリちゃん、絵をやってみない?」と誘われたわけではありません。むしろ名家のボンボンあるあるの「お父さんの意向が教育にもろ反映される現象」で、弁護士事務所に就職し、法律を学ぶことになります。
「じゃあいつ絵に出会うのか」というと、21歳です。彼が虫垂炎(盲腸)の手術で療養しており「やっば、腹痛ったぁ……なんもできなくて暇ぁ」と困っていたとき、母親が「じゃあ絵でも描いてみたら?」となんとなく画材を渡したのがきっかけでした。
「嘘やん。そんなあっさりした動機でハマる?」と思いますよね。いやほんと、人生の転機は意外なところに落ちているものです。遺伝子的にハマったのかもしれないですし、幼い時から母親の作品を見ていた環境もあったでしょう。当時のことをマティスは後年「天国を見つけた気分だった」と回想していますが、それほど絵を描くことに快楽を見出したんですね。
ここで衝撃のジョブチェンジを果たすんです。ここまで名声を得た画家としてはかなりオールドルーキーですよ。例えば、ほぼ同世代の画家でいうとロートレックは10歳ごろには絵を描き始めていますし、ミュシャも中学校を中退してから絵を描き始めてます。ピカソなんて、10歳のころにはもう絵だけでなく彫刻を彫っている。
そんななかマティスは21歳で法律家から芸術家への転向をするわけです。当然、お父さんは「え? 画家? うそやん、どういうこと?」とめっちゃ失望したそうな。わかるぞ。気持ちはわかる。
モロー・ラッセルとの出会いによって「自由な画風」を手に入れる20代
参考:マティスの師匠、ギュスターヴ・モローの自画像
Gustave Moreau, Public domain, via Wikimedia Commons
その後、マティスは美術学校・ジュリアン・アカデミーに入学するものの、反りが合わず退学。その後、フランス美術学校の最高峰、エコール・デ・ボザールの入試を受けます。モネ、ドガ、ルノワール、ロダン、ダヴィッドなどが出身者として有名ですね。最近で言うとファッションブランドのジバンシィさんも、ここ出身です。
何が言いたいのかって、先ほど紹介した通り、エコール・デ・ボザールの出身者は、ほぼほぼみんな幼少期から芸術に親しんでいる人なわけですね。そんななかマティスは21歳からほぼ独学で入学を目指しましたが、結局落ちちゃいます。
しかしすごいのは「この子、絵はあんま上手くないけど、絵画へのパッションがえげつないぞ」という理由で、エコール・デ・ボザールの先生だったギュスターヴ・モローから個人的に指導を受けるようになるんですね。
ギュスターヴ・モローは絵画の多様化の立役者の一人
ここでモローと出会ったのはマティスにとっては本当にラッキーだったんです。というのもエコール・デ・ボザールって公営の学校なので、かなりきちっとした教育方針なんですね。あの、たまに言われる「芸大出身の子が『自由に書け』と指示されたら困っちゃう」みたいな感じですよ。
とにかく「教科書に忠実に、厳格な絵を描きなさい!」みたいな教えだったわけです。ただそのなかにおいて、モローは「自由に描こうぜ」と、画家のオリジナリティを尊重する教育方針でした。彼の死後、彼の教え子たちは学校から追放されていますが、それくらいエコール・デ・ボザールでは異端の先生だったわけです。
そんななかマティスはモローから基礎を学びつつ、かなり自由に絵を描かせてもらっていたといいます。一説によると、この時期モローはマティスに「たぶん、ゆくゆくは単純化された画風になると思うよ。マティス君の絵は」と予言をしていたのだそうです。
その通り、マティスはこの後に抽象化されたシンプルな画風に変わっていきますが、この土台にはモロー先生のフラットな視点があったんですね。ここで「我を出す前にデッサンやれよデッサンを!」と怒る先生と知り合っちゃったら、マティスの進化はなかったでしょう。
ラッセルを通して、ゴッホ・セザンヌなどの絵画作品と出会う
さて、そんななか1896年、27歳でもう一つの重要な出会いがあります。オーストリアの印象派の画家、ジョン・ピーター・ラッセルと出会うんですね。
彼はマティスにゴッホの作品を紹介します。ちなみに今でこそ後期印象派のスターであるゴッホですが、彼の作品が評価されたのは1900年代に入ってからです。当時はまだまだ無名。ゴーギャンが「あいつマジでヤバいやつだった」と回顧録を書いたことで、ちょっと「ゴッホって何者だったんだ……」と世間的に注目され始めた、くらいの時期です。
そんなゴッホ作品の特徴といえば「色彩」です。彼は色覚異常だったこともあって、非常に独特な色合いで絵を描きます。影を緑や青で描いたり、目の覚めるようなオレンジをふんだんに使ったりした作品は覚えのある方も多いでしょう。
Vincent van Gogh, Public domain, via Wikimedia Commons
マティスはそんなゴッホの絵を見て「な、なんじゃこれは」と衝撃を受けて、がっつり影響されるんですね。マティスはのちに「ラッセルは色彩の先生だった」と回想していますが、それくらいこの時期から色使いが変わってきます。
その後、マティスは印象派の画家の作品を借金してまで集めるようになります。「借金してまで」ってのはスゴいっすよね。借金してまで何かを集めるのってAKB48の握手券以降聞いたことないかもしれない。それほどハマってたんですね。なかでもセザンヌの作品にハマりまくっていたそうで、部屋にたくさん置いていたそうです。
セザンヌ作品の特徴といえば「抽象化」にあります。彼の残した言葉で「木の幹は円柱、オレンジ・りんごは球、山は円錐なんやで~」という名言があります。その言葉通り、彼は対象を極端にデフォルメしたうえで作品をつくっていました。見たものを頭のなかで再構築して、あえて抽象化してパースなどを崩して描いていたんですね。
Paul Cézanne, Public domain, via Wikimedia Commons
そんなゴッホ・セザンヌの影響を受けたマティスの作品は、ここから超変化します。何が変わるかというと、それまでは比較的古典的な手法で写実的に描いていたんです。しかしここから対象が抽象的になり、色彩感覚もビビッドになっていきます。
“色彩”と“抽象化”によってインパクトをもたらす「フォービスム」に到達
そのような背景を踏まえて、マティスは1900年に入ってから、のちに「フォービスム(野獣派)」と呼ばれる作風で絵画作品を描き始めます。
作品にフォービスム的な雰囲気が表れた最初の作品は1904年の「豪奢、静寂、逸楽」という作品です。マティスが36歳で描きました。
【参照】Luxe, calme et volupté - Henri Matisse | Musée d'Orsay(オルセー美術館Webサイト)
https://www.musee-orsay.fr/fr/oeuvres/luxe-calme-et-volupte-9088
急に点描ですが、これは新印象派のポール・シニャックの影響です。「マティスって点描派だったの?」と思われるかもしれませんが違うんですよ。「このときたまたま点描にハマっていた」というだけで、この後も彼の作風はころころ変わっていきます。
下の作品はシニャックの作品ですが、同じ点描でもマティスのほうが抽象度が高いことが分かると思います。点描派は「最も写実的な絵を描くために極限まで筆触分割をした結果、点描にいきついた」という思想です。ハードとしては似ていますが、マティスとシニャックはまったく違うことを考えていました。
Paul Signac, Public domain, via Wikimedia Commons
「フォービスム(野獣派)」というネーミングがついたのは、1905年にパリで開催された第二回サロン・ドートンヌ展がきっかけでした。このときマティスやアンドレ・ドラン(フォービスムのもう一人のリーダー)などのグループの作品を見た、批評家・ルイ・ヴォークセルが「おいおいなんだこれ。野獣(フォーヴ)の檻にいるドナテッロのようだ」と言ったことで、名付けられたんですね。ドナテッロはルネサンス期のイタリアの彫刻家です。
これは嘲笑はしていないものの、決して褒め言葉ではなかった。「理性のない野獣のような派手さがあるが、よく理解できない作品」みたいなテイストのセリフでした。「印象派」も最初は「印象にしか残らないフワッとした作品」というディスから生まれた言葉でしたが、やはりこの時代はいろいろ革新する分、批評家としては「よく分からん作品」がたくさん出ていていたんですね。
この第二回サロン・ドートンヌ展でマティスが展示した絵が代表作の一つ「帽子の女性」です。
【参照】Henri Matisse, Femme au chapeau (Woman with a Hat), 1905 · SFMOMA(サンフランシスコ近代美術館Webサイト)
https://www.sfmoma.org/artwork/91.161/
これだけカオスが極まった今見ると、別に普通ですよね。この作品に対して「いや『帽子の女性』て。帽子の前に顔面の緑が多すぎるやろ」とツッコむ人はいないと思います。むしろあらあらしい筆致がエネルギッシュです。すごく感覚的で右脳フル回転で描いた感覚を覚えます。
この4年後、1909年にマティスは「ダンス(Ⅰ)」という作品を描いています。
【参照】 Henri Matisse. Dance (I). Paris, Boulevard des Invalides, early 1909 | MoMA(ニューヨーク近代美術館Webサイト)
https://www.moma.org/collection/works/79124
この作品は当時のマティスがやりたかったことがめっちゃ伝わる例だと思います。空、人体、丘という、極端にまでシンプルになった構図、抽象化された人体によって、インパクトを出しています。この時期、マティスはアルジェリアに旅行をしており、アフリカ美術特有の原始的(格好つけると「プリミティブ」)な表現となっています。
要するに精密で写実的な絵画も素晴らしいけど、具体にしてこねくり回すほど作品自体のインパクトはなくなる。その点、まるで保育園児が描いたかのように抽象化して原色を配置することで「感動」を掻き立てることができる。この感動は絵画でしか表現できない。と考えたんですね。
「ダンス(Ⅰ)」は長く覚えているでしょう。しかしまるで写真のような古典的な肖像画はたぶんすぐ忘れてしまうと思います。
のちにキュビスム、シュルレアリスムなどの名付け親になる、批評家のギヨーム・アポリネールは「めっちゃ合理的で素敵やん」と批評しています。
しかしこのフォービスムは当時まったくヒットしなかったんですね。マティスの評価が高まることもありませんでした。ちなみにこの翌年にマティスは「ダンス」という作品を描いています。ちょっとディテールを加えて、画面を暗くしました。
この後、1910年代にマティスの作品はシンプルなものから、古典主義的なスタイルに移り変わっていきますが、「ダンス」はその過渡期として分かりやすい作品です。
1910年代からは第一次世界大戦の影響もあり「秩序ある作風」に
この「フォービスム」は今でも評価が高いくらいセンセーショナルな運動だったため、今でも「マティスといえばフォービスム」という方は多いことでしょう。しかし彼が実際にフォービスム的な作品を作っていた期間は1905年からの3年間くらいです。
1910年代からはむしろ大人しめで理知的な作品をつくるようになります。
【参照】Henri Matisse, Goldfish. 1912・(プーシキン美術館Webサイト)
https://pushkinmuseum.art/data/fonds/europe_and_america/j/2001_3000/zh_3299/index.php?lang=en
例えば1912年にモロッコを訪れたあとに描かれた「金魚」という作品はこんな感じです。当時のモロッコ人は何時間も金魚を見つめて「ふふふ、かわいい~」と楽しんでいたといいます(やばい)。
その光景を見たマティスは「いや、穏やか過ぎてヤバい。これもう悟り開いてる。これが理想やな」と衝撃を受け、こうした穏やかな絵画にシフトしました。瞑想的な部分に切り替わっていくんですね。
色彩に注目するとおもしろいです。金魚の赤みがかったオレンジと、植物の青みがかった緑が「補色」の関係になっています。またお花の赤紫と周りの黄緑も補色関係です。下の「色相環(カラーホイール)」の反対の位置にある色を補色関係といい、並べることで互いに鮮やかに見せる効果があるとされています。
a href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rygcbm.png">Юра101, CC0, via Wikimedia Commons
作風が変化しても、こうした色彩への意識の高さが一貫して変わらないのがマティスの特徴といえるでしょう。
1914年の第一次世界大戦で多くの芸術家は「秩序」を取り戻す
そんななかヨーロッパで勃発するのが「第一次世界大戦」です。1914年から1918年まで続きました。この時代、芸術家たちは「秩序への回帰」と呼ばれる動きを見せます。
それまで前衛的な作品を作っていたものの、戦争という混沌を見て「安定した昔ながらの作品を作らなきゃ」と思ったわけですね。キュビスムをしていたピカソですら、第一次世界大戦を踏まえて新古典主義に移行しました。
マティスも同じように古典回帰をはかり、前衛的な表現から遠ざかっていきます。この1917年~1930年ごろまでの時代を、拠点の場所にちなんで「ニースの時代」と呼びます。
100年前の児島くん、精力的に作品を収集しています。
— 大原美術館 (@OharaMuseum) November 25, 2020
マティスから購入したのは《マティス嬢の肖像》。マティスの愛娘マルグリットの部屋に飾られていたそう。手放すのを嫌がる彼女をマティスが説得し、譲ってくれたと伝えられています。
マルケから購入したのは《マルセイユの港》。美しい作品です。 https://t.co/TtnEHIJme7
例えば、1918年に24歳の娘・マルグリットを描いた「マティス嬢の肖像」は非常に静かな色彩であり、フォービスム時代の野生的な雰囲気はありません。この時代の有名作品には『模様のある背景の装飾的人体(1925年)』『トルコ椅子にもたれるオダリスク(1927年)』などがありますが、フォービスムの時代に比べると、作品は若干写実的になっています。フォービスム時代の抽象さ、シンプルさはないんですね。
この傾向は1930年まで続きますが、その後はまたフォービスム的表現に戻っていきます。その代表的な作品が『ルーマニアのブラウス』『眠る女と静物』『夢』といった作品を描きますが、どれも非常に抽象度の高い作品ですが、フォービスム的な激しい色合いではありません。落ち着いた色彩で可愛らしさすら漂います。
個人的にはこの時期のマティス作品はすごく好きですね。少し日本のマンガチックな雰囲気すら漂うチャーミングさがあります。そのなかで補色に気を使っているのも分かる。若いころはあんなに激しい色合いだったのが、柔らかい色合いに変わっているのは画家の精神性も感じられておもしろいです。
また1940年当時、ドイツを中心にヨーロッパ圏ではこうした前衛的な作品は、指導者・ヒトラーによって「退廃芸術」と呼ばれ、超嫌われていたんですね。マティスがいたフランスではそこまで規制はなかったようですが、世間的にはデッサンに重きを置いた古典的な写実的表現が好かれていたんです。しかし、そんな逆風のなかでも、めっちゃ飄々(ひょうひょう)と軽やかに「自身がやりたい色彩表現」をしていたように見えます。
切り絵に移行した晩年期
Carl Van Vechten, Public domain, via Wikimedia Commons
1941年、72歳のマティスは腹部のがんの手術をおこない、その後からは車いすとベッドでの生活となります。体力の低下もあり、マティスは絵画から切り絵へと表現技法をシフトするんですね。よく「色彩表現を極めた結果、切り絵に至った」とも描かれますが、個人的にはあまり腑に落ちてないです。というよりは「体力がなくなったこと」、また「輪郭線に邪魔されずに絵画作品をつくること」を目指して切り絵に至ったのでしょう。
マティス自身が「線を引かなくても、いきなり色彩で描けるのがメリット」と公言しているとおり、切り絵によって、黒い線を引く必要がなくなりました。これにより、もっと色彩にフォーカスできるようになった部分はあると思います。
そんなマティスの切り絵の代表作が「かたつむり」です。彼が亡くなる1年前に完成しました。緑の隣には赤が、黄色の隣には青が配置されています。これは補色ですね。そして左上にはマゼンタ~紫系の類似色相が並べられています。こうした原色の切り絵作品が彼の晩年期の作品群となっています。
【参照】‘The Snail‘, Henri Matisse, 1953 | Tate(テート・ギャラリーWebサイト)
https://www.tate.org.uk/art/artworks/matisse-the-snail-t00540
最期まで、彼は色の関係を追求し続け、1954年に84歳で亡くなります。そのため、彼は死後も「色彩の魔術師」として世間的に広く知られるようになりました。
2023年4月27日より東京都美術館でマティス展が開催
さて、今回はアンリ・マティスという人物について紹介しました。まとめると、彼はやはり最期まで色彩を追い続けた人だったんでしょう。
「線」と「色彩」はぶつかり合うものです。「理性の線」vs「感性としての色彩」は、実はマティスが生まれる50年前から存在している、ものすごく深いテーマなんですね。そんな命題に果敢に挑んだマティスはかっこいいですし、最後に切り絵にたどり着くのも、やはりすごく面白いです。
さて、そんなマティスの大回顧展が約20年ぶりに日本で開催されます。この記事でも紹介した、フォービスム最初の作品「豪奢、静寂、逸楽」が日本初公開される予定です。
ここでは紹介しきれなかった、第一次世界大戦期のマティスの思想が詰まった作品や、彫刻作品なども展示される予定となっています。この記事で、彼の作品が気になった方は、足を運んでみてはいかがでしょうか。
・マティス展 Henri Matisse: The Path to Color 公式Webサイト
https://matisse2023.exhibit.jp/
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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