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STUDY

2022.6.30

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~

日本史上、もっともエネルギーにあふれていた、16世紀、桃山時代。
この桃山時代の美術をリードした存在が、狩野永徳(かのう えいとく、 1543~1590)です。
昨年(2021年)、国宝に指定された『唐獅子図屏風』は、彼の代表作であり、桃山という時代の空気を映し出した作品でもあります。

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~(国宝)狩野永徳、『唐獅子図屏 風』、16世紀、宮内庁三の丸尚蔵館(出典:Wikimedia Commons

信長、秀吉と、二人の天下人に仕え、「天下一の絵師」の座を手にした彼の人生は、華やかな「サクセスストーリー」そのものと言えます。
が、その内実は、どうだったのでしょう?

今回は、絵筆を武器に、乱世を生き抜いた絵師・狩野永徳47年の軌跡をご紹介しましょう。

①狩野派の若き総領

1543年、狩野永徳は京都で生まれました。
狩野家は、15世紀後半に、室町幕府に御用絵師として仕えた狩野正信に始まる絵師の家系で、絵師集団「狩野派」の主軸をなす存在でもありました。この初代・正信の曾孫、つまり四代目にあたるのが永徳です。
血筋のみならず、才能にも恵まれた彼は、将来を担う「ホープ」として、祖父である二代目・元信に特に目をかけられ、英才教育を受けて育ちます。

9歳の時には、祖父に連れられて将軍・足利義輝に拝謁しています。
少年だった永徳にとって、晴れがましい瞬間だったでしょう。
将来は自分も、曽祖父・正信のように、将軍の「御用」を務める絵師になりたい。そう心に思ったとしても、不思議はありません。

チャンスは、12年後の1564年に訪れます。
将軍・義輝から、越後の上杉謙信へと贈る屏風『洛中洛外図屏風』の制作依頼を受けたのです。

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~(国宝)狩野永徳、『上杉本 洛中洛外図屏風』(右隻)、1565年、上杉博物館(出典:Wikimedia Commons

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~(国宝)狩野永徳、『上杉本 洛中洛外図屏 風』(左隻)、1565年、上杉博物館(出典:Wikimedia Commons

「洛中洛外図」とは、京の名所や人々の生活風俗を描いた絵画のこと。
21歳の永徳にとって、この仕事は、狩野派四代目総領としての腕の見せ所です。
制作チームのリーダーとして、彼は全体のバランスを踏まえながら、一つ一つのモチーフと、その配置を決定。門人たちを指揮して作業に当たらせます。

細部を拡大して見ると、名所だけではなく、祇園祭の山鉾(やまぼこ)や、闘鶏に興じる人々など、京の人々の生活が生き生きと描かれています。

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~祇園会の様子(『洛中洛外図屏 風』(右隻)部分拡大)(出典:Wikimedia Commons

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~闘鶏に興じる人々(『洛中洛外図屏 風』(右隻)部分拡大)(出典:Wikimedia Commons

画中に描かれた人物たちは、身分も性別も様々で、その総数はなんと約2500人にもなります。
これら全てを一人で描くとなると、日が暮れてしまいます。
集団(チーム)で分担する体制をとっていたからこそ実現できた、と言えましょう。

しかし、注文主である義輝は、完成した屏風を見ることができませんでした。
1565年、対立していた三好氏の軍勢に御所を襲撃され、壮絶な討死を遂げるのです。
事件は、京の人々――― 天皇や公家、庶民にいたるまで衝撃を与えました。

永徳も例外ではなかったでしょう。
彼は〈洛中洛外図屏風〉の制作を続け、完成させます。
事件から、約3ヶ月後のことです。
それは、絵師である彼ならではの、義輝への手向けだったのかもしれません。

②殻を破る~織田信長との出会いと、「大画様式」誕生~

完成はしたものの、受け取り手はいないまま、〈洛中洛外図屏風〉は、永徳のもとに留まり続けます。
そして、1574年、織田信長の手によって引き出され、上杉謙信へと贈られるのです。

織田信長と、永徳。
二人の出会いが、いつ、どのようなものだったのかは、わかっていません。が、それは永徳にとって、大きな転換点となりました。
尾張の弱小大名として生まれ、内外の敵との戦いを制しながら力をつけ、今や天下に王手をかけようとしている信長は、これまでに会ったことのないタイプの人間だったでしょう。

そして、そんな信長の存在に触発されるようにして、永徳は、新たなスタイル「大画様式」を編み出すのです。
それまでは、〈洛中洛外図屏風〉のように、細部を繊細かつ緻密に描きこんでいく「細画様式」が主流でした。
この「細画」とは真逆の手法を用いるのが、「大画様式」です。

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~(国宝)狩野永徳、『唐獅子図屏 風』、16世紀、宮内庁三の丸尚蔵館(出典:Wikimedia Commons

こちらでは、唐獅子や大樹などのモチーフを、画面いっぱいに大きく描き出し、残りは余白として残すか、この〈唐獅子図屏風〉のように、ほぼ金無地にしてしまいます。
こうすることで、メインモチーフの存在感がより際立ち、画面から飛び出 してくるかのような迫力と力強さが生まれます。
シンプルで力強く、豪快なこの「大画様式」こそは、自らの力と才能を信じ、突き進んできた織田信長と、彼が作る「新しい時代」を体現するもの、と言って良いでしょう。

この「大画様式」を引っ提げ、1576年、永徳は近江国・安土に移り住みます。
御用絵師として、新たに建てる安土城を飾る障壁画100枚を手掛けるためです。
この仕事は、絵筆を介した、信長との真剣勝負でもありました。
万が一、彼の機嫌を損ねることがあれば、文字通り首が飛ぶこともありうる、まさに命がけの仕事です。

しかし、並々ならぬプレッシャーの中にいながらも、永徳は、「何としても成し遂げたい」、とより強く思いを燃やしていたのではないでしょうか。
彼は、自分の持てる全てを絵筆に託し、ぶつけていきます。
完成したのは、それから約3年後です。
仕事の出来には、信長も大いに満足し、永徳は、彼から小袖を拝領しています。

しかし、1582年、またしても事件が起こります。
本能寺の変です。
信長は自害し、さらに安土城も炎上します。永徳の手掛けた作品群も、この時に全て灰になってしまいました。

③「天下一の絵師」

永徳にとって、信長はただのパトロンではありませんでした。
「伝統」という殻を破り、自分の可能性をより広げていくきっかけをもたらしてくれた、「恩人」とも言える存在でした。
そして、彼のもとで生み出した作品群には、特に強い思い入れがあったでしょう。
それらを立て続けに失い、永徳がどれほど衝撃を受けたかは、想像するにあまりあります。

しかし、どんなに打ちのめされたとしても、永徳には、立ち止まることは許されていませんでした。
狩野派の総領として、新たなパトロンを見つけなければなりません。
早速、彼は、信長の後継者となった秀吉に接近、その御用絵師の座を得ます。
そして、大坂城や聚楽第など、彼の築く御殿の装飾に腕をふるいます。

さらに、秀吉のみならず、他の大名たちからの注文も受けるようになり、永徳は、名実ともに「天下一の絵師」となっていきます。

(国宝)狩野永徳、<檜図屏 風>、1590年、東京国立博物館(出典:Wikimedia Commons

しかし、それは必ずしも彼に栄光だけをもたらしませんでした。
捌ききれない大量の仕事を抱えこむことにもつながったのです。
「昼も夜もなく描く」日々(現代のブラック企業をイメージしてみてください)に、永徳の心身は消耗していきます。

同じ頃、京では、永徳を脅かす新たな勢力が台頭しつつありました。
長谷川等伯(はせがわ とうはく、1539~1610)率いる長谷川派です。

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~(石川県指定有形文化財) 長谷川等伯、『善女龍王像』、1564年、石川県七尾美術館(出典:Wikimedia Commons

狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~(重要文化財)長谷川等伯、『花鳥図屏 風』、1570年、妙覚寺(出典:Wikimedia Commons

等伯は、北陸生まれで、地元では主に、上に見るような仏画を手掛け評判を得ていましたが、30代で京に上ってきます。
やはり、やるなら上を、「天下一」を目指したい。
その目標を実現するため、彼は約20年の時間をかけて、準備を重ねます。中国絵画や狩野派の「大画様式」などを研究しながら、独自の画風を作り上げ、狩野派同様に門人を育成、さらに千利休ら有力者たちとのコネクションをも形成していきます。

そして、1590年、ついに等伯は、「打倒・狩野派」に向けて一歩を踏み出しました。
狩野派に一任されるはずだった仙洞御所の内部装飾の仕事に、割り込もうとしたのです。

永徳は、青ざめます。
あの男はきっと、今回の件を足掛かりにして、他の仕事にも食いこみ、ついには永徳、いや狩野派そのものを蹴落としにかかるでしょう。
このままでは、自分がこれまで人生をかけて築き上げてきた全てが奪われます。
それは、一人の絵師としても、狩野派の総領としても、許しがたいことです。
「何としても、奴を止めなければ……!」
永徳は、ツテをたどって奔走し、どうにか阻止に成功します。
しかし、彼の踏ん張りも、そこまででした。
事件から1ヶ月後、永徳は仕事中に倒れ、ほどなくして亡くなります。
享年47歳。過労死だったと言われています。

永徳が生涯に手掛けた作品は、大部分が建物と共に失われ、現代まで残っているのは、20 点にも満ちません。
また、自分の才を評価し、引き立ててくれた権力者たちが下克上で倒れていく様を間近で見つめ、自身も、晩年には長谷川派から下克上の刃を突きつけられました。

一方、彼が四代目総領として、最後まで守ろうとした狩野派は、江戸幕府の御用絵師として存続、明治初期まで、画壇の中心にあり続けます。

展覧会などで、永徳の作品を見ることがあったら、是非思い起こしてください。
絵筆を武器に、乱世を生き抜いた、一人の「英雄」の生涯を。

ヴェルデ

ヴェルデ

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アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。

アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。