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2025.10.10
印象派の父、カミーユ・ピサロ。印象派を旗揚げするまでの人生とは【アート初心者】
芸術様式には、流行があります。たくさんの流行のなかでも、とくに印象派がのちの芸術界に残した影響ははかり知れません。印象派が100年以上の時間がたった現代においてもっとも人気のある芸術潮流であることは、行われる特設展の数を見れば歴然です。
芸術様式の流れが常に変化しつづけてきたように、同じ印象派芸術画家でも、個々の画家の生涯を通じて見ると作風が変化している様子がわかります。何となく「素敵だな~」という気持ちで出会った絵や画家も、その背景を知るとより深く味わえるかも。
この記事ではゴッホやセザンヌたちと一緒に活動していた画家、カミーユ・ピサロが印象派を旗揚げするまでを解説しています。
目次
カミーユ・ピサロの自画像, Public domain, via Wikimedia Commons.
カミーユ・ピサロ ~印象派の父。ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどのグループを先導~
ピサロは19世紀にフランスで活躍した印象派画家です。豊かで鮮やかな色彩と、光と影が繊細なタッチで表現された作品は「印象派」と呼ばれています。
印象派とは
19世紀後半のフランスに発した、絵画を中心とした芸術運動。1870年代から1880年代に突出した存在になった。鮮やかな色彩が特徴で、線や輪郭を描くのでなく、絵筆で自由に絵の具をのせて絵を描いている点が今までの絵画と異なる。新印象派、ポスト印象派、フォービズム、キュビズムなどが生まれるきっかけとなったとして重要な立ち位置を占めている。
参考・出典:Wikipedia
Paysage au champ inondé (1873年), Public domain, via Wikimedia Commons.
ピサロの人生 ~幼少期からパリ上京まで~
カミーユ・ピサロの正式な名前はジャコブ・アブラハム・カミーユ・ピサロといいます。カリブ海に浮かぶ島々の1つ、セント・トーマス島で1830年7月10日に生まれました。
両親はフランス人。家業を継ぐ予定だった
セント・トーマス島はデンマークの植民地でしたが、ピサロの両親はフランス人でした。正確には、父親はポルトガル系のユダヤ人で国籍がフランス、母親はフランス系ユダヤ人でセント・トーマス島生まれ。
ピサロの父はフランス本土から金物をセント・トーマス島に運ぶ商人でした。ピサロには家業を継いで欲しかったらしく、ピサロが12歳から17歳の間フランス本土の学校で学んだあとは、島に呼び戻して家業を手伝わせていたそうです。
芸術への情熱は消えず。ベネズエラを経て再びフランス本土へ
ピサロが絵画の手ほどきを受けたのは、パリ近郊のパッシーにあるサバリー・アカデミーに在学していたときでした。サバリー自身がピサロにデッサンや絵画の基礎訓練を行ったといわれています。
セント・トーマス島に17歳で戻り、家業を手伝っていた時代もピサロはデッサンの練習を続けていました。
ピサロが21歳のとき、フリッツ・メルビューがセント・トーマス島へ移住してきたことが大きな転機となります。ピサロはメルビューの助手としてフルタイムで働くと決意し、絵画を学ぶようになりました。芸術への情熱は消えていなかったんですね。
最終的にピサロはメルビューとともに1852年にベネズエラに移りました。22歳のときです。ベネズエラに滞在した2年間は自然や村の風景を描き、膨大な数のスケッチを描きました。1855年、24歳のときにパリへ移住し、フリッツ・メルビューの兄アントン・メルビューの助手として働くようになります。
この時代の代表作
セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女
セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女, 1856年制作, 所蔵: ロンドン・ナショナル・ギャラリー, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピサロの故郷であるカリブ海のセント・トーマス島を描いた、彼の初期の風景画。海岸で談笑する二人の女性という何気ない日常の一場面を主題としている。
画面を斜めに横切る道の構図が空間に動きと奥行きを与え、カリブの明るい光を温かな色調で捉えた筆づかいに、自然を細やかに観察する画家の眼差しが表れている。
パリ時代 ~屋外で絵を描くことにハマった~
ピサロはパリで画家アントン・メルビューに絵画を教わりつつ、同時並行して美術学校でエコール・デ・ボザールやアカデミー・シュイスなどの巨匠から絵を教わりました。
絵のスキルはどんどん上達し、1859年には『モンモランシーの風景』がパリ・サロンの審査に合格して展示されました。
学校で学ぶ技術は「息苦しい」。屋外で絵を描くことへ
学校で絵画の技術を教わることを、ピサロはどう思っていたか。
美術史家のジョンリウォルドに話した記録では、「学校で学ぶ技術は息苦しい」と思っていたようです。自然豊かなセント・トーマス島で育ったピサロにとって、上京生活そのものが窮屈に感じられたのかもしれませんね。
しばらくして、ピサロは屋外で絵を描くことにはまりました。ピサロはこれを「プレーン・エアー絵画」と呼んでいました。同時期に出会った画家であるカミーユ・コローも同じ傾向があり、二人は意気投合しました。
田園風景を描くことに
パリで絵画を学んだピサロですが、1年ほどパリに滞在したあと田園の風景を描くようになります。
ピサロはフランスの田園地帯に対して「絵画的な美しさ」を感じ、それを絵で表現することに楽しみを覚えたためです。
屋外制作について、ピサロは後進の画家たちにこう語りました。
空、水、枝、大地を同時に描き、すべてのものを対等に扱い、自分が納得するまで何度も修正すること。最初に感じた「印象」を失わないことが重要なため、おおらかにまた躊躇なく描くこと。
コローとは意見が不一致
屋外で絵を描くことについてカミーユ・コローと意気投合したピサロですが、仕上げに関しては違う考えを持っていました。
コローは自分の先入観を修正するため、最後はアトリエで修正しました。一方、ピサロは「ありのまま、見たまま」を重視し、屋外で完成させるスタイルを好みました。最終的にコローとは、意見の不一致が原因で別行動をとるようになります。
この時代の代表作
モンモランシーの風景
モンモランシーの風景, 1859年制作 , 所蔵: オルセー美術館 (フランス), Public domain, via Wikimedia Commons.
29歳のピサロがサロン初入選を果たした風景画。モンモランシーの静かな田園を題材に、コローに学んだ古典的な技法で制作された。
柔らかな筆致と落ち着いた色彩で自然の美しさを表現し、当時のアカデミックな様式に沿いながらも、戸外制作への関心が芽生え始めた時期の作品。
モネやセザンヌなど印象派グループと出会い、開眼
1959年、ピサロは美術学校アカデミー・シュイスに通っていました。29歳のときです。
ここで自分と同じように写実的な絵を描く画家と知りあいました。その中には、モネやセザンヌなどの印象派の重要なメンバーも含まれています。
低評価だったが、流れが変わった
当時、パリのサロンにおいては写実的な絵は低く評価されていました。サロンでの展覧会に応募しても、写実的な絵を描く画家は審査基準に合格しなかったのです。
1863年(ピサロが33歳)、ピサロや仲間の絵はサロンの審査に落選。
しかし、1868年に美術評論家のエミール・ゾラが「カミーユ・ピサロは今日、3〜4人ぐらいしかいない真の画家の1人です。私はめったにこのような確かな技術に遭遇することはない」と述べ、評価が高まります。
エミール・ゾラがピサロを高く評価したとき、ピサロは38歳でした。若くして注目される画家と比べたら、成功が遅かったかもしれません。
ピサロが41歳の1871年、母のメイドでブドウ栽培農家の娘だったジュリー・ヴァレイと結婚。2人はパリ郊外や農村地域に住み、村人の生活風景、川、森林などから刺激を受けました。
29歳のときは低評価、38歳からは高評価と、ピサロの人生は約10年間で大きく変わりました。
この時代の代表作
マルヌ川のほとり、冬
マルヌ川のほとり、冬, 1866年制作, 所蔵: オルセー美術館 (フランス), Public domain, via Wikiart.
1866年のサロン入選作。マルヌ川沿いの冬景色を主題とし、落ち着いた色調で静謐な季節感を表現しています。
写実的な描写でありながら、冬の冷たい空気や光の質感を丁寧に捉えていて、コローから学んだ伝統的技法を基盤としつつ、自然への観察眼が深まった時期の作品です。
ブージヴァルのセーヌ河
1871年制作
所蔵: アーティゾン美術館 (東京都)
ブージヴァルのセーヌ河 (カミーユ・ピサロ) https://t.co/nLTs8qIDCW pic.twitter.com/KDikTVhSgY
— 世界の名画 (@zen_meiga) December 10, 2021
ロンドン時代は再び低評価
1870年~1871年に起きた普仏戦争(フランスとドイツの戦争)ではデンマーク国籍だったピサロは兵役につけず肩身が狭い立場でした。それが影響してか、ピサロは家族とともにロンドン郊外の村ノーウッドへ移住しました。
しかし、当時のロンドンではピサロの写実的な絵は受け入れられませんでした。ロンドンの人々の感覚では「前衛的すぎた」ようです。ピサロは友人への手紙で「私の絵画はまったく関心を持たれていない」と書いています。
この時期、ピサロは美術学校アカデミー・シュイス時代に出会ったモネとロンドンで再会します(同時期にモネもロンドンに滞在していました)。
モネとピサロは「屋外制作は、屋内のアトリエで描く絵では表現できない光や雰囲気を描写できる」という信念を再確認し、自分たちのスタイルが間違っていないことを確かめあいました。
The Crystal Palace, London, Public domain, via Wikiart Commons.
まとめ
カミーユ・ピサロは「印象派の創設者」「印象派の父」と呼ばれていますが、そのスタイルは今までの蓄積の中から自然と生み出されました。
後半の記事『「印象派」と「新印象派」ってどう違うの? ~カミーユ・ピサロの変遷から、印象派について学ぶ~』では、ピサロが印象派を旗揚げしたあと、新印象派に移り、新印象派からも卒業する様子を解説します。

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