STUDY
2025.11.7
日本のアートの始まりは?縄文土器・土偶に見る美の原点
「なんだ、これは!」
東京国立博物館で、パリから帰国した岡本太郎が初めて縄文土器を目にした時にこう声をあげたといいます。彼が見たのは炎を連想させる「火焔型土器」でした。
その時の驚きは、後の1952年、美術専門誌『みづゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」として発表されました。それまでの縄文観を一新したもので、縄文土器が美術として初めて言及された画期的な出来事でした。
東京国立博物館,Tokyo National Museum『火焰型土器』「ColBase」収録
それから70年以上たち、近年、これまで考古資料として扱われてきた縄文土器や先史時代の銅鏡やハニワなどが、日本美術として紹介されることが増えてきました。
美術館や資料館などでは、年代や型式といった考古的な知識に焦点をあてるばかりではなく、形や文様の美しさ、そこに秘められた創造性といったことに目を向ける展示も多くなっているようです。
また縄文土器や土偶などからインスピレーションを得て創作活動をおこなうアーティストも多く、絵画や造形物、インスタレーション、イラストなど、様々な分野に広がっています。
このように今やアートとしての認識もされるようになった「縄文」ですが、その始まりはいったいどのようなものであったのでしょうか。
旧石器時代‐創造のはじまり
先ずは縄文時代より前の、旧石器時代の造形物から見てみましょう。
日本列島に人間が暮らし始めたのは、今から約4万年前の旧石器時代です。その頃の気候は寒冷で、約2万年前には年平均気温が現在より8度前後も低く、大地は針葉樹を中心とした森林で覆われていました。
人々は一か所に定住せずに、洞窟や岩陰、または細い木を互いにもたせかけた軽易な住まいなどを点々と移動しながら暮らしていました。
彼らは石器(石を素材とした道具)や骨角器(動物の骨や角を素材とした道具)を使って、主に狩猟や木の実などを採集し生活の糧としていました。生活のなかで徐々に石器を作る技術が向上していき、道具としての形を確立していきます。
中でも、木の棒に括り付けて槍として使ったと考えられる尖頭器(せんとうき)や、手でナイフのように扱ったナイフ形石器は、射止めた獣を解体するのに最適な道具として全国各地で同様のものが作られました。
石の素材は現地で調達できるものが中心でしたが、わざわざ遠隔地から運ばれてくる石もありました。
特に加工しやすく、鋭い刃先を作ることができる「黒曜石」は日本初のブランドとも言われ、例えば産地の1つである長野県の和田峠産の黒曜石は関東各地に広く運ばれ、次の時代の縄文時代に入る頃には既に取りつくされてしまったと言われています。
今、私たちがその黒曜石の尖頭器(せんとうき)を見ると、黒く透明な光りは微細な加工技術との相乗効果で、まるで宝石のように美しく感じられます。
道なき道を人が行き交うことは、とても困難な時代であったことでしょう。それでも特定の石が広範囲に渡って運ばれたということは、当時の人々が黒曜石に素材の特性以外の魅力を見出していた可能性があるのかもしれません。
松平義人氏寄贈,Gift of Mr. Matsudaira Yoshito,東京国立博物館,Tokyo National Museum『尖頭器』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録
また平たい小さな石に、女性の髪の様な表現が彫られている「線刻礫(せんこくれき)」が、四国の岩陰から発見されています。
「線刻礫」の模様がが本当に女性の髪を表わしているかは定かではありませんが、旧石器時代の人が石に何かを表現したということは確かなようです。
縄文時代の一大発明・ 縄文土器
旧石器時代が終わり、約16000年前から縄文時代が始まります。日本列島はそれまでの寒冷な気候から温暖化に転じ、それにより植生が針葉樹から落葉広葉樹へと変化し、森にはドングリやクリ、クルミなどの木の実が豊富に実ります。
人々は木の実から多くのカロリーがとれるようになり、獣の肉などは補助的な食料へと変わり、常に獣を追いかけて移動する生活をする必要が無くなります。住まいは土を掘り込み、太い木を柱にした竪穴住居へと変わり、安定した生活が送れる様になります。
それと前後して生み出されたのが「縄文土器」でした。
土を捏ね焼き上げることで、水が漏れず火にかけられる、それまでにはない画期的な器が誕生したのです。煮炊きの出来る縄文土器は、それまでに食べることのできなかった堅い肉を軟らかくしたり、木の実の強い灰汁を取り除いたりと、縄文人の食生活を大きく向上させるものでした。
最初の土器は「無文(むもん)土器」と呼ばれるもので、土器の表面に模様はありませんでした。その形は、それまでもあったとされる木の枝などを使った編み籠や、獣の皮の容器などから発想を得たのではないかと考えられています。
「JOMON ARCHIVES ― 北海道・北東北の縄文遺跡群デジタルアーカイブ ―」収録
それから約2000年後、ついに土器に文様が付けられます。土器の表面に細い粘土紐を張り付けたもので、「隆線文(りゅうせんもん)土器」と呼ばれます。
それまでの道具としてだけの土器ではなく、装飾を施した初めての土器は、創造性豊かと言われる縄文土器の始まりと言えるようです。繊細な手仕事で作り上げられた文様は、土器を美しく装飾するという意志が伝わってくるような出来栄えです。
均整のとれた形もあいまって、今見ても美しく感じられる縄文土器ではないでしょうか。
「JOMON ARCHIVES ― 北海道・北東北の縄文遺跡群デジタルアーカイブ ―」収録
さらにその約1000年後、土器の表面に人の爪や竹などの筒状の道具等で文様をつけた土器が出現します。こうした流れを見ると、この頃には土器に表現することは、もはや特別な事ではなかったのかもしれません。
縄文土器の代名詞 縄文の登場
それから約1000年後、いよいよ「縄文」が出現します。読んで字のごとく縄で作られた文様で、縄は植物から繊維を取り出し、それを撚って作られました。
縄を押し付けたり、転がしたり、また木の棒などに巻き付け引いたりと、様々な方法で土器の表面を飾りました。「多縄文(たじょうもん)土器」と呼ばれ、縄を自由自在に扱うことで表現の幅がより広がったと考えられるようです。
「JOMON ARCHIVES ― 北海道・北東北の縄文遺跡群デジタルアーカイブ ―」収録
さて、既に「縄文」がない縄文土器があるということにお気づきかと思いますが、なぜ「縄文土器」や「縄文時代」などと呼ばれるようになったのでしょうか。
縄文土器の名称は明治の初期、アメリカ人の学者エドワード・S・モースが東京・大森貝塚を発見&発掘した時に、”cord marked pottery”と叫んだことから名付けられたと言われています。
彼がその時見たのは、今から約3000~4000年前の縄文時代の終わり頃の「縄文」が施された土器でした。言うなれば、モース博士が偶然「縄文」のある土器を発見したことから、それがそのまま縄文土器となり時代の名称となったのです。
縄文土器の全体を見渡すと「縄文」がない土器は多く存在し、特に西日本では「縄文」を用いない装飾の土器が多く作られています。
土偶の出現と祈りの形
縄文時代の土偶の始まりは、約12000年前に滋賀県と三重県で作られた2体であると言われています。
そのうち滋賀県の土偶は、まるでトルソーのような女性の美しい曲線をかたどった造形です。高さは僅か3.1㎝、支えが無くても自立でき、表面は滑らかで、粒子の細かい土を用いて丁寧に作られています。
女性を思わせる造形には、安産や子孫繫栄といった祈りがこめられていると考えられています。
相谷熊原遺跡出土品(滋賀県指定文化財)より、土偶(滋賀県所蔵), Public domain, via Wikimedia Commons.
この土偶が作られたのは、縄文土器の誕生から約4000年後です。
当時は狩猟に弓矢が使われ、食料を確保する時間がより短縮され、縄文人たちの余暇の時間が増えていきました。そうした中で生まれたのが、様々な趣向を凝らした土器や石器、編み籠、装飾品などの手仕事の文化です。この土偶は、その一つでした。
その背景には、竪穴住居を構え一か所に定住することで生まれた、新たな「人間社会」にも要因があったと考えられるようです。竪穴住居を作るには、石の道具で木を切り倒し、土を掘り込み、その後も多くの人の手と時間を必要とします。
また縄文土器を作るにも、粘土に適する土を探したり成形する手間暇の他にも、焼き上げるまでには何十時間もの時間がかかり、その燃料となる木材も相当なものであったと思われます。
定住生活は、コミュニティなしでは成り立たないものでした。そしてそこでは当然のように、子供の誕生や人の死、災害など、生活の様々な問題がおこります。そういった社会を治めるにはリーダーが必要となりますが、ところが縄文時代にはそうした権力を持つ人はいませんでした。
そこで皆が平和に過ごすためには、心を一つにする「ナニカ」が必要となります。 それが「祈り」であったようです。
自然と共に生きる時代、すべては祈るしかありませんでした。その「祈り」の道具として作られたのが精緻に作られた土偶であり、後に奇想天外とも言える創造性豊かな文様や形態を持つ土器や石器などであったのです。
各々のムラで自分たちのアイコンとなる土偶や土器などを創り、祭祀などでそれを使うことで、精神的な結びつきを築いていたと考えられています。
まとめ
私たちの祖先は、既に1万年以上も前から縄文土器や土偶に表現することを始めていました。
明日も知れない生活の中で、生活に不可欠とは言えない文様や装飾を施した土器や土偶は、彼らのアイデンティティーであり、生きる支えであったのかもしれません。
またそれ以前の旧石器時代から「美」や「表現」の種が生まれていた気配も感じられるようです。遥か太古の人たちも、私たちと同じように様々に感じ、表現することを求めていたのかもしれませんね。
画像ギャラリー

縄文ライター。10数年前に偶然出会った縄文土器の美しさに魅了され、以来全国の博物館や遺跡を廻っています。堅苦しく思われがちな縄文時代の土器や土偶、装飾品などを、ちょっと斜めから、アートの1つとして楽しんでいただけるように紹介していきます。
縄文ライター。10数年前に偶然出会った縄文土器の美しさに魅了され、以来全国の博物館や遺跡を廻っています。堅苦しく思われがちな縄文時代の土器や土偶、装飾品などを、ちょっと斜めから、アートの1つとして楽しんでいただけるように紹介していきます。
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