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STUDY

2026.4.15

仏ルーブル美術館にイタリアの作品が多いのは〇〇が原因だった!略奪と美術館の成立を紐解く

フランス・パリの観光名所として名高いルーブル美術館。2026年から非ヨーロッパ人観光客の入館料を上げたことでも話題になりました。

広大な建物のなかでも、ルーブル美術館を訪れた人が必ず足を止めるのが、「グランド・ギャラリー」です。まさに美術館の心臓部にあたるスペースですが、こんな疑問を抱いたことはありませんか?

「あれ?フランスの美術館なのに、イタリアの芸術家の作品ばかりだな…」

そうなんです。現在のルーブル美術館を筆頭としたフランスの美術館には、イタリア作品が非常にたくさんあります(もちろん、エジプトやギリシャなどの作品も!)。実はこの背景には、誰もが知っている歴史上の人物の軍事作戦がありました。

この記事では、ローマ大学院で文化遺産保護を専攻している筆者が、イタリアからフランスに持ち去られた芸術作品とその背景について紹介します。

トーマス・アロム「グラン・ギャルリー, ルーヴル美術館」トーマス・アロム「グラン・ギャルリー, ルーヴル美術館」, Public domain, via Wikimedia Commons.

パリを「新しいローマ」に?ナポレオンとイタリア芸術の略奪

デヴィッド - アルプスを越えるナポレオンデヴィッド - アルプスを越えるナポレオン, Public domain, via Wikimedia Commons.

フランスがこれだけたくさんの芸術コレクションを抱えている理由一つには、ナポレオンの活躍があります。「活躍」というのは、もちろんフランス側の視点であり、略奪にあった国々にとっては現在に至るまで残る大きな損失です。

ナポレオンが領土拡大のために近隣国を次々に倒していったことは、歴史の教科書で習ったとおりです。しかし実は、ナポレオンによるイタリア侵攻は、単なる領土の拡大や政治的支配に留まらず、人類史上稀に見る規模の「芸術作品の組織的移動」を伴うものでした。

つまり、彼にとって芸術とは単なる鑑賞の対象ではなく、フランスの文化的優位性を世界に知らしめ、パリを「新しいローマ」へと作り替えるための強力な政治的装置だったのです。

美術史家が軍に帯同!?ナポレオン略奪の始まり

『1797年、イタリアのボナパルト』『1797年、イタリアのボナパルト』, Public domain, via Wikimedia Commons.

1796年に始まったイタリア戦役において、若き将軍ナポレオンは、これまでの戦争における場当たり的な略奪とは一線を画す、「計画的な収集作業」を開始しました。なんとナポレオンは、軍隊と共に美術史家、修復家、学者などを含む「芸術専門家委員会」を帯同させたのです。

この「芸術専門家委員会」の中核を担ったのが、後にルーブル美術館(当時はナポレオン美術館)の初代館長となるヴィヴァン・ドノンです。彼らは進軍する先々で、どの教会の祭壇画が重要か、どの宮殿に価値のある彫刻があるかを事前にリストアップ。ラファエロの『キリストの変容』などとくに重要な作品は、最優先で略奪するよう計画が練られました。

一般的な感覚を持つ人は、「そんな文化に対する一方的な武力行使が認められるのか!?」と、ギョッとするかもしれません。

しかしナポレオンには、彼なりの大義名分がありました。彼はこの略奪を正当化するために、「自由の国であるフランスこそが、天才たちの作品を保管し、正しく評価するにふさわしい唯一の場所である」という論理を掲げていたのです。

つまり「抑圧されたイタリアの地から芸術を『解放』し、公共のものとしてパリで展示することこそが、啓蒙主義の理想である!」と。イタリアで美術史を研究する我々にとっては、胸がキュっと痛くなるような傲慢で自己中心的な主張です。

条約による「合法化」という戦術

オーギュスト・ラフェ『イタリア、1796年、ナポレオン・ボナパルト』オーギュスト・ラフェ『イタリア、1796年、ナポレオン・ボナパルト』, Public domain, via Wikimedia Commons.

ナポレオンの略奪が特徴的だったのは、軍事力を背景にしながらも、それを戦後処理の「条約」の中に明文化した点にあります。

1797年2月19日、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス共和国軍と、時の教皇ピウス6世の間で締結されたのが、トレンティーノ条約です。この条約には、土地の割譲のほかに美術品や古文書の譲渡が明文化されており、実質的にバチカンは多くの傑作をフランスに差し出すことになりました。

そこに含まれていたのは、100点の絵画、胸像、花瓶、彫像、そして500点に及ぶ貴重な古写本。有名な作品としては、古代彫刻の最高傑作『ラオコーン像』やラファエロの『キリストの変容』が含まれています。

ナポレオンが非常に狡猾だったのは、この戦後処理にあります。これらは単なる「戦利品」ではなく、正式な「賠償品」としてリスト化され、ローマからパリへと運ばれました。武力で奪うだけでなく、法的な形式を整えることで、返還の要求を封じ込めようとしたのです…。

奪われた「サン・マルコの馬」。そしてヴェネツィアの崩壊…

サン・マルコ大聖堂の馬像サン・マルコ大聖堂の馬像, Public domain, via Wikimedia Commons.


ナポレオンによる略奪の象徴的な事件の一つが、千年の歴史を誇ったヴェネツィア共和国の終焉です。1797年、ナポレオンはヴェネツィアを占領し、その象徴であるサン・マルコ寺院の正面を飾っていた「黄金の四頭の馬(サン・マルコの馬)」を取り外させました。

ブロンズ像を盗まれただけでヴェネツィアは弱体してしまったのか?と疑問に思うかもしれませんが、この古代ブロンズ像は、かつて十字軍がコンスタンティノープルから持ち帰ったヴェネツィアの誇りだったのです。

ヴェネツィアヴェネツィア, Public domain, via Wikimedia Commons.


18世紀末のヴェネツィア共和国は、中世から近世にかけての勢いを失っており、軍事行動には消極的でした。「武装中立」して戦闘を避けていたにもかかわらず、ナポレオンはどうにか口実を見つけて宣戦。もちろんそれは、ヴェネツィアが抱える美術作品を奪うためでした。

ナポレオンはヴェネツィア人の栄光を長年見守ってきたブロンズ像「サン・マルコの馬」をパリへと運び、カルーゼル凱旋門の上に設置させました。この一連の略奪行為は、ヴェネツィアの魂を奪い、自らの帝国の軍事的・歴史的継承権を誇示するための、政治的な演出でした。

略奪品で築かれたナポレオン美術館の隆盛

近代のパリ。チュイルリー公園、ルーヴル美術館、そしてリヴォリ通り。チュイルリー公園から撮影した眺め近代のパリ。チュイルリー公園、ルーヴル美術館、そしてリヴォリ通り。チュイルリー公園から撮影した眺め, Public domain, via Wikimedia Commons.

トレンティーノ条約の翌年1798年、イタリアから運ばれた膨大な芸術品がパリに到着した際、街では熱狂的な「勝利のパレード」が開催されました。戦車に乗せられた古代の石像や、重厚な木枠に梱包されたルネサンスの絵画がシャンゼリゼ通りを練り歩く様は、市民にフランス帝国の威光を強く印象付けたことでしょう。

これらの作品は、ルーブル宮殿に開設された「ナポレオン美術館」に収蔵されました。ドノン館長の指揮のもと、美術館は世界最大の文化の殿堂へと変貌を遂げます。

カナの婚礼 - パオロ・ヴェロネーゼ - ルーヴル美術館カナの婚礼 - パオロ・ヴェロネーゼ - ルーヴル美術館 絵画 INV 142 ; MR 384, Public domain, via Wikimedia Commons.

イタリアから奪われた作品には、ローマ以外の都市の歴史的名作も含まれていました。パオロ・ヴェロネーゼの巨大な名画『カナの婚礼』(ヴェネツィア)やメディチ家の至宝であった古代彫刻『メディチのヴィーナス』(フィレンツェ)などです。

パリを訪れる知識人や芸術家たちは、かつてはイタリア各地を巡らなければ見ることができなかった傑作が、一箇所に集められていることに驚愕し、同時にその圧倒的な文化的独占に戦慄しました。

帝国の崩壊と芸術品のゆくえ

ワーテルローの戦い, 1815年ワーテルローの戦い, 1815年, Public domain, via Wikimedia Commons.

1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し、帝国が崩壊すると、奪われた芸術品の返還問題が国際的な焦点となりました。当然、イタリアの各諸国は、フランスに対して作品の返還を強く要求します。

ここで活躍したのが、彫刻家のアントニオ・カノーヴァです。彼は教皇の使節としてパリに乗り込み、執拗な交渉を行いました。しかし、フランス側も「これらはすでにフランスの財産であり、文化遺産である」として激しく抵抗しました。

『ラオコーン像』や『サン・マルコの馬』などは、紆余曲折を経てイタリアへと戻されました。他にも多くの作品が交渉の末に返還されています。しかし、移動の困難さやフランス側の政治的圧力により、多くの作品がパリに留っているのもまた事実です。

ヴェネツィアから持ち去られたヴェロネーゼの『カナの婚礼』は、大きすぎて輸送中に破損する恐れがあるという理由で、現在のルーブル美術館の顔となっています。実は本作はナポレオンがパリに持ち帰った際、大きすぎるがゆえに(縦約6.7m×横約9.9m)キャンバスを真っ二つに折ってしまったのです。

略奪が生んだ「近代美術館」

ルーブル美術館ルーブル美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

ナポレオンによる行為は、現代の価値観から見れば明白な「文化破壊」であり「略奪」です。しかし、皮肉にもこの大規模な移動が、近代的な美術館のあり方に多大な影響を与えました。

略奪した価値の高い作品を保存するため、フランスでは高度な修復技術が発展。さらに膨大な作品が一堂に会したことで、それらを年代順や地域別に分類・展示するという、現代の美術館の基礎となる「美術史学」が確立されたことも、また事実です。

ナポレオンが自身の功績を広く知らしめるために美術品を国民に公開したことは、近代的な美術館の仕組みの先駆けの一つでもあります。それまでは、高貴な作品は王侯貴族や教会の所有物として限定的に公開されることが一般的でした。

まとめ

ナポレオンの略奪は、イタリアにとって大きな衝撃であり、トラウマ的な出来事でした。現在でも、ルーブル美術館のメインスペース「グランド・ギャラリー」には、ナポレオンによって持ち去られたイタリアの名作が50点以上展示されています。

しかし、長い歴史を振り返ってみると、イタリアのケースは幸運だった方かもしれません。頻繁に議論されているように、ギリシャやエジプトなど、国家の最重要な作品すらも持ち去られ、いまだに返還されていない例はいくらでもあります。

美術館を訪れる際は「この作品はなぜここにあるのだろう?」と考えてみると、少し違った見方ができるかもしれませんね。以上、ルーブル美術館にイタリア作品が多い理由についてでした。

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はな

はな

イタリア・ローマ在住美術ライター。2024年にローマ第二大学で美術史の修士を取得し、2026年からは2つめの修士・文化遺産法学に挑戦。専攻は中世キリスト教美術。イタリアの前はスペインに住んでいました。趣味は旅行で、訪れた国は45カ国以上。世界中の行く先々で美術館や宗教建築を巡っています。

イタリア・ローマ在住美術ライター。2024年にローマ第二大学で美術史の修士を取得し、2026年からは2つめの修士・文化遺産法学に挑戦。専攻は中世キリスト教美術。イタリアの前はスペインに住んでいました。趣味は旅行で、訪れた国は45カ国以上。世界中の行く先々で美術館や宗教建築を巡っています。

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