STUDY
2026.1.14
肖像画で知るマリー・アントワネットの生涯。ファッション、スキャンダル、フランス革命まで。
マリー・アントワネット―――わずか14歳でウィーンからフランス宮廷に嫁ぎ、やがてフランス王妃となった女性。
当時危機的な財政難を抱えていたフランスにあって、たびたび浪費を繰り返したことにより、次第に国民から"赤字夫人"などと呼ばれるようになりました。そして1789年に勃発したフランス革命によって民衆に捕らえられ、わずか37歳でその生涯を終えたのです。
王妃の座から処刑台へ。この激動の人生により、アントワネットは日本国内でも多くの文学作品、ミュージカル、少女漫画の主人公として描かれています。
本記事では、アントワネットの生前に描かれた肖像画を中心に、彼女の生涯についてご紹介します。
目次
ウィーンの宮廷からフランスの王妃へ
ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーディエ・ダゴディ『オーストリアのマリー・アントワネットの肖像』, Public domain, via Wikimedia Commons.
マリー・アントワネットは、フランツ1世とマリア・テレジアの15番目の子どもとして、ウィーンの宮廷に生まれました。
アントワネットの母であるマリア・テレジアは、1740年にハプスブルク家の全領土を継承し、政権の座に就いた女性です。
夫のフランツ1世を皇帝にしたあとは、自らの産んだたくさんの子どもに政略結婚をさせることによって、ヨーロッパにおけるオーストリアの地位向上をはかっていました。
アントワネットもまた、他の兄弟や姉妹たちと同じように、政略結婚をする運命にありました。のちにフランス王となったルイ16世の妻となるため、わずか14歳で花嫁となったのです。
ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『麦わら帽子の自画像』, Public domain, via Wikimedia Commons.
1777年、マリア・テレジアは、アントワネットの肖像画を求めた手紙をフランスに送りました。
その依頼を受け、王妃の肖像画を描くという重要な任務に選ばれたのが、ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(1755–1842)でした。
ルブランはアントワネットの美しさに感激し、「お妃様に会ったことのない人に、優雅さと高貴さが完璧な調和をなしているその美しさを伝えることはむずかしい※」と語るほどでした。
ルブランの描いたアントワネットの肖像画は、マリア・テレジアからも好評だったといいます。彼女はこの後、長年にわたって王妃の肖像画を描き続けることになりました。
※石井美樹子・著『マリー・アントワネットの宮廷画家 ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの生涯』より引用
スキャンダルとなったシュミーズ姿の絵(1783年)
ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『シュミーズ・ドレスのマリー・アントワネット』, Public domain, via Wikimedia Commons.
マリー・アントワネットと言えば、派手好きで浪費家、国家のお金を湯水のように使っていた……という贅沢三昧なイメージがある方も多いのではないでしょうか。
しかし実際のアントワネットは、宮廷の派手で堅苦しい儀礼や衣裳があまり好きではなかったとされています。厳格な儀礼の場から離れる時には、親しい女性たちと一緒にくつろいだ格好をして過ごすことも少なくありませんでした。
そのくつろぎの場で身に着けていたのが、「ゴール(ガリア人という意味)」や「王妃のシュミーズ・ドレス」と呼ばれる衣裳でした。コルセットやパニエといった堅苦しい装具を身に着けない、非常にシンプルな服装です。
ところが、この格好をしたアントワネットを描いた『シュミーズ姿、あるいはゴール風のマリー・アントワネット』という肖像画が、大きな批判を呼ぶことになりました。
その理由として、アントワネットのまとうドレスがフランス製の絹ではなく、輸入された綿のムスリン製であったこと、公式の肖像画としてはあまりにもリラックスした格好であり、下着姿のような印象を与えてしまったことなどが挙げられています。
しかし、この絵がきっかけで、宮廷夫人や上流階級の女性たちが次々とシュミーズ・ドレスを着るようになりました。
マリー・アントワネットは、宮廷や上流階級におけるファッションリーダーでもあったのです。
"首飾り事件"と良き母親像のアピール
ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『マリー・アントワネットと子どもたち』, Public domain, via Wikimedia Commons.
1785年、アントワネットに深刻なスキャンダルが降りかかります。
それはのちに"首飾り事件"と呼ばれるもので、宮廷に出入りしていたラ・モット夫人が「王妃のため」と称して160万リーヴル(日本円だと数十億円とも言われている)の首飾りを購入しようとした事件でした。
アントワネットは無実だったものの、この事件は財政難に苦しむ国民たちにとって、大きな反発感情を巻き起こしました。王妃としてのアントワネットの国内での人気も、危険な下降線をたどったのです。
そこでルブランが描いたのは、低迷してしまった王妃の人気を回復させるための、これまでと違った肖像画でした。
1786年に制作された『マリー・アントワネットと子どもたち』という肖像画には、ふたりの息子とひとりの娘に囲まれた、母としてのアントワネットの姿が描かれています。
絵の奥には空のゆりかごが描かれていますが、これは絵を制作する数週間前に亡くなったもうひとりの子どもを暗示したものです。
ルブランは、古代ローマの政治家グラックス兄弟の母・コルネリアをアントワネットに重ねました。
コルネリアには「あなたの一番美しい宝石はどれですか」と人から尋ねられた際に、「それはふたりの息子です」と答えたという逸話があったからです。
良き母としてのアントワネットをアピールしたこの作品は、ルブランの傑作として知られています。
フランス革命により、王妃から囚人へ
作者不明『バスティーユ襲撃とМ・ド・ローネの逮捕』, Public domain, via Wikimedia Commons.
当時のフランスは、アンシャン=レジーム(旧体制)と言われる封建的な身分社会でした。身分階級は第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)に分かれていましたが、聖職者や貴族には非課税などの特権があり、第三身分の人々は無権利で不自由な状態におかれていました。
平民たちは、自分たちの納めた税金が聖職者や貴族階級のために使われることに対し、大きな不満を抱えていました。
そのような状態の中で、フランス王室は常に赤字状態となっていました。そこへ小麦の不作などが重なり、物価高などの影響で、民衆の怒りが高まっていったのです。
ところが、フランス王室は赤字を減らすため、民衆から税金をさらに取り立てました。
国民の負担は大きくなる一方でした。
そして1789年、ついに民衆たちはバスティーユ牢獄を襲撃しました。バスティーユ牢獄には大量の弾薬が備えられており、人々は武力を確保しようとしたからです。
これらの混乱の際、国王一家は、アントワネットの実家であるオーストリアへの亡命を試みました。しかしその計画は失敗し、アントワネットたちは幽閉されることになりました。
ジョゼフ・デュプレシ『ルイ16世の肖像画』, Public domain, via Wikimedia Commons.
幽閉された4ヶ月後には、ルイ16世がコンコルド広場で処刑されました。
夫が処刑されたことにより、アントワネットの最期の日々は非常に屈辱的なものになったといいます。
アントワネットは幼い息子(ルイ17世)と無理矢理引き離され、独房に入れられてしまいました。
その独房では、入場料を払えば誰でも彼女に面会できました。そのためアントワネットは、まるで見世物のような扱いを受けました。
心身ともに大きな苦痛を受けたアントワネットは、37歳という若さながら老女のような外見になってしまったと語られています。
ルイ16世の裁判は厳粛に行われたものの、アントワネットの裁判は、事実無根の罪も作り上げられるほど一方的なものでした。
しかし、アントワネットはそのような場面でも、最後まで気高い態度を保ち続けたのでした。
歴史画に描かれたアントワネットの最期
ジャック=オーギュスタン・パジュー『マリー・アントワネット、家族から引き離される』, Public domain, via Wikimedia Commons.
ジャック=オーギュスタン・パジューの『マリー・アントワネット、家族から引き離される』という歴史画では、アントワネットが娘のマリー・テレーズ、国王の妹エリザベート夫人と引き離され、移送される場面が描かれています。
アントワネットの侍女であったロザリーの回想録では、極刑が決まったあとのアントワネットは何も口にしなかったと言います。ルイ16世の処刑後は喪服を身にまとっていたアントワネットでしたが、自身の処刑執行の際にはその格好すら禁じられてしまったのです。
ちなみに、エリザベート夫人はアントワネットの死から7ヶ月後に処刑されています。マリー・テレーズの方は、フランス革命で唯一生き残った王族となりましたが、世界情勢に振り回され続け、亡命を繰り返す人生となりました。
著者不明『1793年、革命広場でのマリー・アントワネットの処刑』, Public domain, via Wikimedia Commons.
やがて1793年10月16日、アントワネットの処刑が実行されました。
死刑執行人によって後ろ手に縛られ、髪を切られたアントワネットは、王族を運ぶ馬車ではなく荷車に乗せられて処刑場に向かいました。処刑場となるコンコルド広場では、多くの民衆が彼女を罵倒したものの、アントワネットは背筋を伸ばしたまま毅然としていたといいます。
処刑台に上る際、アントワネットはうっかりして死刑執行人の足を踏んでしまいました。その際、即座に謝罪の言葉を口にした、という記録が残っています。
そしてそれは、彼女の最期の言葉となったのでした。
まとめ
華やかなフランスの宮廷から、ギロチン台へと送られたマリー・アントワネット。
その美しさで人々を魅了し、ファッションリーダーとしての顔を持っていた一方、常にスキャンダルの的となった彼女は、現代も私たちを強く惹きつけています。
わずか14歳で政略結婚という運命を背負い、母親になってからも世間の厳しい目にさらされ続けたアントワネットは、どれほど屈辱的な状況に置かれても、最期の瞬間まで気高さを失いませんでした。
ただ美しいだけではなく、悲劇的な運命の中でも気高く生きた彼女の姿に、今もなお多くの人が惹きつけられる理由があるのかもしれません。
参考書籍一覧:
・『王妃マリー・アントワネット』著:エヴリーヌ・ルヴェ、監修:塚本哲也、訳:遠藤ゆかり(創元社)
・『マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯』著:エレーヌ・ドラクレス、アレクサンドル・マラル、ニコラ・ミノヴァノヴィチ、訳:宮澤雅利(原書房)
・『マリー・アントワネットの宮廷画家 ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの生涯』著:石井美樹子(河出書房新社)
・『マリー・アントワネットの衣裳部屋』著:内山理奈(平凡社)
画像ギャラリー
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糸崎 舞
元舞台俳優。現役時代、さまざまな演劇作品に出演した経験を通じて、世界中の歴史や文化、芸能への深い理解を培いました。俳優としての経験を活かし、アートの中に息づく文化や歴史を解説します。 好きなアーティストは葛飾北斎とアルフォンス・ミュシャです。
元舞台俳優。現役時代、さまざまな演劇作品に出演した経験を通じて、世界中の歴史や文化、芸能への深い理解を培いました。俳優としての経験を活かし、アートの中に息づく文化や歴史を解説します。 好きなアーティストは葛飾北斎とアルフォンス・ミュシャです。
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