Facebook X Instagram Youtube

STUDY

2026.5.6

【名画の見方】ゴッホが描いたボロボロの靴は誰のもの?──小さな哲学論争

古びた靴が、ぽつんと一足。

ゴッホの《靴》を見て、「これ、誰の靴なんだろう」と思ったことはないでしょうか。革はよれて、紐はだらしなくほどけて、泥がこびりついています。きれいに飾られているわけでもなく、ただ誰かが脱ぎ捨てたようにそこにあります。

フィンセント・ファン・ゴッホ《靴》(1886年)フィンセント・ファン・ゴッホ《靴》(1886年)。何気ない一足の靴をめぐって、哲学者と美術史家がまったく異なる読みを示した。, Public domain, via Wikimedia Commons.

風景画でも肖像画でもなく、靴だけ。それなのに、なぜか目が止まります。

この「誰の靴か」をめぐって、過去に20世紀を代表する哲学者と、美術史家がまったく違う答えを出しています。

同じ絵を前にして、見えるものが180度変わる。その「振れ幅」こそが、この絵の面白いところなのかもしれません。

このボロボロの靴、誰のもの?

【拡大】フィンセント・ファン・ゴッホ《靴》(1886年)【拡大】フィンセント・ファン・ゴッホ《靴》(1886年)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

この絵が描かれたのは、ゴッホがパリで暮らしていた1886年のことです。現在はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館に収められています。

画面いっぱいに、革のショート・ブーツのような靴が一足。背景はほとんど何もなく、暗い色で塗りつぶされています。靴の口は黒く沈んで、中まで見通せません。光がどこから当たっているのかも、はっきりしません。

人物や風景など、物語を説明する小道具もありません。ただ靴が一足、置かれているだけです。それでも、しばらく見ていると不思議なことに、ボロボロの靴が誰かの一日を背負っているように見えてきます。

この靴を履いて歩いた人の重さ、疲れ、毎日の繰り返し。靴しか描かれていないのに、そこにいない人間の気配がします。

こうした「気配」に最初に言葉を与えたのが、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーです。

畑から帰ってきた靴──ハイデガーが見た「存在」

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーWilly Pragher / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0, ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー。ゴッホの靴に農婦の労働や大地との結びつきを読み取った。, Public domain, via Wikimedia Commons.

20世紀の哲学を語る上で、ハイデガーはどうしても外せない人物です。代表作『存在と時間』は「そもそも存在するとはどういうことか」という、途方もない問いに正面から取り組んだ本で、出版から100年近く経ちますが世界中で読まれ続けています。

ハイデガーには、ちょっと変わった着眼点がありました。「道具」への関心です。

たとえば、毎日使っているお気に入りのマグカップ。毎朝コーヒーを飲んでいるとき、私たちは「ただの便利な入れ物」としてしか見ていません。

しかし、ある日うっかり落として割ってしまったとき、私たちは突然「こんなに重みがあったのか」「この手触りが好きだったな」と、失ってしまったマグカップの確かな手応えや、共に過ごした静かな朝の記憶に気付かされます。

そこにあって当然だと思っていたものが「不在」になることで、初めてその確かな「存在」をひしひしと感じるのです。

「役に立つ」という機能が失われることで、その道具がもともと持っていた物としての生々しさや、持ち主と重ねてきた時間がむき出しになる。ハイデガーにとって「存在」とは、道具の奥に隠れていた背景や物語が、ふっと姿を見せることだったのです。

このような視点を持っている哲学者がゴッホの靴の絵を見たら、何が起きるでしょうか。

フィンセント・ファン・ゴッホ《靴》(1886年)フィンセント・ファン・ゴッホ《靴》(1886年)。何気ない一足の靴をめぐって、哲学者と美術史家がまったく異なる読みを示した。, Public domain, via Wikimedia Commons.

ハイデガーは1935年の講演「芸術作品の根源」のなかで、この絵を取り上げて、こんな意味のことを書いています。

履き古された靴の暗い口の奥から、働く人の歩みの辛さがじっとこちらを見つめている。靴の重さのなかには、冷たい風のなかを、畑の土を踏みしめて、のろのろと進んでいった足どりが込められている。革には大地の湿り気と豊かさがしみ込み、夕暮れの畑のさみしさが寄り添っている──。

ボロボロになった靴だからこそ、その靴が歩いてきた世界がにじみ出てくる。新品のピカピカな靴ではそうはいきません。ハイデガーの「道具」に対する考え方が、そのままゴッホの絵に重なっています。

ハイデガーはこの靴を「貧しい農婦の靴」だと解釈しました。彼の文章を読んだあとで絵を見ると、たしかに見え方が変わります。

畑、土、冷たい風、夕暮れ。一日の終わりに、泥のついた靴をようやく脱ぐ農婦のシーン。哲学者の目は、靴の「向こう側」に広がる世界を見ていたのです。

パリを歩いた靴──シャピロの反論

美術史家メイヤー・シャピロ美術史家メイヤー・シャピロ。ハイデガーの解釈に対し、絵が描かれた場所や靴の形から反論した。, Public domain, via Wikimedia Commons.

ところが、ハイデガーに真っ向から反論した人がいます。アメリカの美術史家、メイヤー・シャピロです。

20世紀のアメリカを代表する美術史家だったシャピロは、古代から現代まで驚くほど広い範囲の美術を論じましたが、何よりすごかったのは「見る力」です。

たとえば、一枚の古い人物写真を見たとします。その寂しげな表情を見て、私たちは「きっと過酷な人生を送ってきたに違いない」と、背後にあるドラマをつい想像したくなります。

しかしシャピロの場合、感情移入する前に「着ている服の仕立てはどうか」「背景の家具はどの時代のものか」といった、客観的な事実を拾い上げるところから始めるでしょう。

頭の中で物語を膨らませる前に、まず目の前の事実を正確に積み上げていく。それがシャピロ独自のアプローチであり、その冷静な観察眼がハイデガーの解釈を鮮やかにひっくり返すことになります。

1968年、シャピロは自らの論文で「ハイデガーの読みは間違いだ」とはっきり書きました。その根拠は3つあります。

ひとつは、絵が描かれた場所です。ゴッホがこの絵を描いたのは、オランダの農村ではなくパリでした。畑から帰ってきた靴ではなく、都会の街を歩いた誰かの靴であるはずだと指摘しました。

もうひとつは、靴の形です。当時のオランダで畑仕事をしていた女性たちは、革のブーツではなく木靴を履いていました。そのため、農婦の靴と考えるのはそもそも無理があります。

そしてもうひとつ、決定的な証言がありました。一時期ゴッホと暮らしていた画家ゴーギャンが、ゴッホがパリの街を毎日歩き回って、自分の靴をすっかり履き潰していた様子を回想しているのです。

あの分厚くて不格好な靴は、ゴッホ自身のものだった。シャピロはそう結論付けました。

靴の「向こう側」に農婦の世界を見たハイデガーに対して、シャピロは靴「そのもの」を丹念に見ることで、まったく違う持ち主にたどり着いています。哲学者の想像力と、美術史家の観察眼。同じ一足の靴が、まるで別の靴に変わってしまったのです。

あなたには誰の靴に見えるか

結局のところ、靴は誰のものだったのでしょうか。今でも美術史の世界では決着がついていません。

ハイデガーの文章を読んだあとには畑の泥が目の前に広がり、シャピロの論証を読むと場所が一変して、パリの石畳を歩く音が聞こえてきます。

絵画の見方にはひとつの正解だけがあるわけではありません。見る人の数だけ、靴の向こう側に別の景色が立ち上がってくるのです。

もし美術館でくたびれた靴の絵に出会ったら、少しだけ足を止めてみてください。あなたには、誰の靴に見えるでしょうか。

【写真5枚】【名画の見方】ゴッホが描いたボロボロの靴は誰のもの?──小さな哲学論争 を詳しく見る イロハニアートSTORE 50種類以上のマットプリント入荷! 詳しく見る
Sea The Stars

Sea The Stars

  • homepage

大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。西洋哲学史の書籍『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』(ナツメ社)の執筆も担当した。立場や考え方の違いを越えて、芸術には人と人をつなぐ力があると信じている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。

大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。西洋哲学史の書籍『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』(ナツメ社)の執筆も担当した。立場や考え方の違いを越えて、芸術には人と人をつなぐ力があると信じている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。

Sea The Starsさんの記事一覧はこちら