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2025.3.10
【前編】抽象絵画といえば、ピエト・モンドリアン。「原色」「格子」「パズル」の画風は、最初からできたわけではなかった~ピエト・モンドリアンのスタイルの変遷~
赤・青・黄の原色を配置した、パズルのような『コンポジション』という作品で有名なピエト・モンドリアン(ピート・モンドリアンと表記する場合も。1872-1944)は、オランダ出身でパリとニューヨークで活躍した画家です。
抽象画の極限ともいえる『コンポジション』は、現代アートやデザイン、ファッションに大きな影響を与えました。ピエト・モンドリアンは「抽象絵画の創始者」と位置づけられています。
目次
ピエト・モンドリアンの肖像Piet Mondriaan, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピエト・モンドリアンは、最初から『コンポジション』のような抽象画を描いていたかというと、そうではありません(『コンポジション』は、1930年作。58歳の時の作品です)。
世の中でよく知られている「あのピエト・モンドリアン」イメージはいつ確立されたのか? それまではどんな作風だったのか? 気になりますよね。
この記事ではピエト・モンドリアンの生涯と、画風の変化をまとめました。
前編では、幼少時から代表作『コンポジション』が生まれた時期までを取り上げます。
ピエト・モンドリアンの作風は、次の5つに分類されています。
(1) 自然主義時代 1890 - 1907
(2) 表現主義時代 1907 - 1911
(3) キュビスム時代 1911-1914
(4) 新造形主義 1914-1917
(5) 抽象期間 1917-1944
ピエト・モンドリアンはどんな人? どんな一生だった?
ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian 1872-1944)は、19世紀末から20世紀半ばにかけて活躍したオランダ出身の画家で、抽象画の黎明期における代表的な存在です。
ピエト・モンドリアンは、アムステルダム国立美術アカデミーで伝統的な美術教育を受けました。初期は写実主義的な風景画を描いていましたが、パリでキュビズムの影響を受けて抽象美術へと移行していきました。
ピエト・モンドリアンの初期の作品『積み草 (Haystacks)』(1908年作)Piet Mondriaan - Hooischelf - Haystack - 1897 - 1898 - Gemeentemuseum Den Haag, Public domain, via Wikimedia Commons.
1920年頃には「デ・ステイル」という芸術雑誌を創刊し、そこで提唱した独自の芸術理論「新造形主義(ネオ・プラスチシズム)」は、水平線や垂直線を多用し、原色と無彩色を組み合わせることで、あらゆる抽象表現を幾何学的に実現しようとするものでした。
その後ニューヨークに移り、この理論に基づいて直線と3原色で構成された「コンポジション」シリーズや『ブロードウェイ・ブギウギ』などの革新的な作品を生み出し、アートマーケットで人気を博しました。
ピエト・モンドリアンの作品はアート界はもちろん、タイポグラフィーや建築、工業デザインなど幅広い分野に大きな影響を与えました。
1944年、ニューヨークにて71歳で亡くなるまで、ピエト・モンドリアンは芸術の革新者として活躍しました。
初期の作品は「よくある写実的な作品」
父と叔父が画家、芸術家系で育った
子供の頃、ピエト・モンドリアンはどのような環境で育ったのでしょうか?
ピエト・モンドリアンの父は小学校の教師でアマチュアの画家、叔父はハーグ派の画家でした。「芸術家の家系」といって良いでしょう。2人の指導のもと、ピエト・モンドリアンは近所の川沿いでスケッチをしながら育ちました。
やがて小学校の教師になりましたが、絵は描きつづけていました。故郷の田園風景や風車などを自然主義的な手法で描いていた作品が残っています。
オーソドックスな美術教育を受け、写実主義の絵を描いていた
ピエト・モンドリアンは最初から『コンポジション』のような抽象的な作品を作っていたわけではありません。
アムステルダム国立美術アカデミーに1892年~1895年の3年間通いましたが、そのときは伝統的な美術教育を受けたといわれています。
アカデミー在学中は写実主義の作風で、後年のオリジナリティあふれる作品と比べると「よくある絵」のように感じます。
美術アカデミー卒業後、少し方向転換。「自分の絵」を模索?
キュビズム時代の作品『ジンジャーポットと静物Ⅱ (Still Life with Gingerpot II)』(1911-1912年作)Mondrian, Still Life with Gingerpot II, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピエト・モンドリアンは美術アカデミーを卒業したあとは、印象派やポスト印象派から影響を受けた絵を描くように変わっていきました。
初期の作品である「赤い水車」や「月の出と木」などは自然主義的な要素が多いですが、この頃からすでに線描よりも色彩を重視する傾向がみられます。(赤、青、黄の原色を強調するあたりは、後年の『コンポジション』につながりますね)
1907年~1911年頃の作品からは神智学や印象派、フォーヴィズムなどの様々なアートの影響が感じられます。この時期、ピエト・モンドリアンは自身のスタイルを模索していたのでは? と予想できます。
キュビズムに出会い、「これだ!」と確信。パリに移住
キュビズムに出会い、ピンと来た
ピエト・モンドリアンは1911年にアムステルダムで開かれた美術展「モダン・クンストリング」で、キュビズム作品に衝撃を受けました。39歳のときでした。
参考:キュビズムとは?
キュビズム(仏: cubisme、立体派)は、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。多様な角度から見た物の形を一つの画面に収めるなど、様々な視覚的実験を推し進めた。
(出典:Wikpedia)
パリに移住。「ピカソに追いつけ、追い越せ」と作品を制作
ピエト・モンドリアン独自のアート『コンポジション』(1920年作)Composition A by Piet Mondrian Galleria Nazionale d'Arte Moderna e Contemporanea, Public domain, via Wikimedia Commons.
1911年当時のピエト・モンドリアンは「これこそ私が求めていたものだ!」と思ったのでしょう。同年、パリに引越してパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックが提唱する「キュビズム」のスタイルを取り入れて作品をつくりました。
パリに移住したとき、ピエト・モンドリアンは名字の綴りをオランダ語の「Mondriaan(aが2つ)」から、フランス語風に「Mondrian」と変えました。このあたりに、「パリの芸術シーンに溶け込もう」とする姿勢や、「オランダ時代に別れを告げる」意思を感じます。
キュビズムの影響による抽象化・単純化は『灰色の樹』『ジンジャーポットのある静物Ⅱ』などの作品にみることができます。
しかし、ピエト・モンドリアンはそれだけでは終わりませんでした。それまでのキュビズムと比べ、ものの形をさらに抽象化するなど、さらにその先を目指していた様子が伺えます。
事情によりオランダに帰国。いよいよ「ピエト・モンドリアン独自のアート」誕生へ
1914年、父の病気の知らせを受けてオランダへ帰国したピエト・モンドリアンは、第一次世界大戦の勃発により1918年までパリへ戻れず、オランダに留まることになりました。
この期間中、ベルト・ファン・デ・レックやテオ・ファン・ドースブルクといった画家たちとの出会いがありました。
冷静になり、パリでのキュビズム時代を振り返った
ピエト・モンドリアンはこの時期、特にベルト・ファン・デ・レックの原色使いに強い影響を受けました。
「僕の描き方は大なり小なりキュビズム的だった。だから多少風景的な絵だったんだ。しかし、彼の精確な手法に大きな影響を受けた」と後に語っています。
この時期、ピエト・モンドリアンはキュビズムから抽象的な表現へと関心を移していきました。
1917年、ついにあの『コンポジション』が誕生
1916年には神智学の影響を感じる『プラスとマイナスのための習作』を、1917年には色を平面的に塗った『カラーボックス付きコンポジションNo.3』を制作しています。
いよいよ「ピエト・モンドリアン独自のアート」が誕生したわけです。
新造形主義を提唱
ピエト・モンドリアンの自画像 (1922年頃作)Piet Mondrian 2, Public domain, via Wikimedia Commons.
同年、ファン・ドースブルクと共に芸術雑誌「デ・ステイル(De Stijl)」を創刊しました。そこでは「新造形主義(ネオ・プラスチシズム)」という美術理論を提唱して、抽象的なアートの必要性を説きました。
新造形主義のポイントは、ピエト・モンドリアンが友人の画家に宛てた手紙に詳しく書かれています。
「私は、線と色彩のコンビネーションを平らな表面に構築する。それは最大の集中力で普遍的な美を表現するためだ。自然(もしくは、私が見るもの)は、私に霊感を与え、何かを創作する衝動を引き起こす。…その線が強度を持ち、神聖性を持つのは、それが芸術だということである。」
極限までの幾何学化と単純化を目指したモンドリアンは、水平・垂直の直線と三原色から成る代表的な作風を『コンポジション』シリーズとして継続して描いていきます。
前編まとめ - 偶然だったが、第一次世界大戦が『コンポジション』を生み出した!?
ピエト・モンドリアンは徹底した抽象的な作風が有名ですが、最初からそうだったわけではありません。
39歳のときにキュビズムと出会いパリに移住したことが大きな影響を与えましたが、1914年にオランダに戻り、第一次世界大戦の影響でしばらくそのままオランダに留まったことが『コンポジション』誕生の最も大きな原因となりました。
第一次世界大戦が起きていなければ、ピエト・モンドリアンは1914年にオランダに一時帰国してすぐにパリに戻っていたと考えられるわけで、『コンポジション』は生まれなかったかもしれません。(歴史の偶然を感じます)
後編では『コンポジション』誕生後の活躍や、ピエト・モンドリアンの代表作の解説、国内で見ることができる美術館の情報をお届けします。
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セールスライター。マーケティングの観点から「アーティストが多くの人に知られるようになった背景には、何があるか?」を探るのが大好きです。わかりやすい文章を心がけ、アート初心者の方がアートにもっとハマる話題をお届けしたいと思います。SNS やブログでは「人を動かす伝え方」「資料作りのコツ」を発信。
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