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2025.1.23
ピエト・モンドリアンとは? 作品の特徴、黄、青、赤のコンポジションなどの代表作など
ピエト・モンドリアンは、抽象絵画の最初期を支えた画家だ。しかし、彼が抽象絵画に到達するまでには、長い葛藤と探求があった。
そもそも抽象絵画という芸術ジャンルとはなにか?現在ではほとんど目にする機会がなく、絶滅危惧種のような存在かもしれない。
その理由の一つは「現代ではより分かりやすい作品が求められるから」だろう。SNSの流行など、芸術家もいつしか「クリエイター」と呼ばれ、”バズる”作品が求められ始めた。
いっぽうで抽象絵画は「何を描こうとしているのか」が非常に分かりにくい。これは断言できることだ。
しかし、キャッチーさを欠く一方で、観る人の内面に問いかける力を持ったジャンルだともいえる。抽象的であればあるほど、鑑賞者には考える余地が生まれるわけだ。
例えば、「犬」というタイトルで犬を描いた場合、観る人は「なるほど、犬だね」と認識するだけだろう。これはわかりやすいキャッチーな作品だ。
しかし、白紙に横線を一本引いて「犬」とタイトルをつけたとしたら、「どうして?どこが犬?」と疑問を抱かざるを得ない。それこそが抽象絵画の持つ魅力である。
今回は、そんな抽象絵画というジャンルを発展させたピエト・モンドリアンについて紹介したい。誰もが一度は目にしたことがあるであろう、赤・青・黄の配色の作品が有名な画家だ。
目次
激動の西洋美術の最中に過ごした10代のピエト・モンドリアン
ピエト・モンドリアンは1872年、オランダのアメルスフォールトに生まれた。父親はデッサンの教師、叔父はハーグ派に属する画家というサラブレッド家系だ。特に叔父に連れられて郊外の田舎町で風景画を描く経験は、モンドリアンにとって重要なものになる。
一見すると恵まれた少年時代のように思えるが、家庭環境は超複雑。母親は病弱で、父親は熱心なキリスト教徒だったため、家事は8歳の長女が一手に引き受けていたという。そうした家庭の中で、モンドリアンは絵画とともに10代を過ごした。
そんななか彼は10代から20代のころ、風景画や動物の絵を描いていた。
ピエト・モンドリアン『撃たれたウサギ』, Dead Hare label, Public domain, via Wikimedia Commons.
モンドリアンが10代を過ごした1880年代は、西洋美術が大きく変革の時期を迎えていた。それまで数百年にわたり美術界を支配していたのは「アカデミー」であり、ルネサンス期以来の写実主義がその基盤であった。
しかし、1800年代に入るとその伝統が見直され、アングルとドラクロワに代表されるライバル関係を通じて新しい表現が生まれ始めた。
しかしながら、アカデミー主宰の展示会「サロン」が画家の評価を左右する状況は依然として続いていた。この状況に対抗し、印象派の画家たちは1874年に独自の「印象派展」を開催するに至ったわけだ。
この動きにより、印象派の画家たちは徐々に評価を得るようになり、1880年代後半にはセザンヌやゴーギャンといった後期印象派がその表現をさらに進化させていった。そんな面白い時期にモンドリアンは青年期を過ごしていたのである。
ハーグ派の影響
ピエト・モンドリアン『干しぶどうのある農家』, Farmhouse with Haystack label, Public domain, via Wikimedia Commons.
さらに、モンドリアンはオランダの「ハーグ派」からも大きな影響を受けた。ハーグ派は風景画を中心とした派閥であり、鮮やかな色彩ではなく、くすんだ色調を用いることで街の雰囲気や自然を描写するスタイルが特徴である。
フィンセント・ファン・ゴッホも一時期このグループに属しており、彼の初期作品からもその影響が感じられる。
モンドリアンの初期の風景画にもこのハーグ派の特徴が色濃く現れている。くすんだ色彩と郷愁を誘うような作風が、彼の画家としての基盤を築き、後の抽象絵画へとつながる重要な要素となった。
「自分だけの表現」を模索するピエト・モンドリアンの20年間
モンドリアンは20歳の1892年、アムステルダム美術学校に入学する。この学校で彼はハーグ派に加え、印象派や後期印象派の技法も学び、画家としての基礎を固めていった。また、大学では教員免許も取得しており、意外と堅実な一面も見せている。
ピエト・モンドリアン『洗濯物が並ぶ農家』, A farm with laundry ropes label, Public domain, via Wikimedia Commons.
特に彼に大きな影響を与えたのは先述した通り、ゴッホやスーラといった後期印象派の画家たちである。モンドリアンは彼らの特徴を取り入れつつ、自身の独創性を磨いていった。
ハーグ派の技法を土台としながら、ゴッホからは鮮烈な色彩、ゴーギャンからはフォービズム、スーラからは点描、セザンヌからは幾何学的な表現技法を吸収していった。
この時期、モンドリアンはまさに自分だけの表現を模索していた。彼の目標は決して「大衆に受けること」ではなく、「自分の内面をどのように作品へと反映させるか」であったわけだ。
ピエト・モンドリアン『ヘイン川沿いのブロークサイド風車のトリミングされた眺め』, Truncated View of the Broekzijdse Molen on the Gein label, Public domain, via Wikimedia Commons.
1906年、モンドリアンは風景画でウィリンク・ファン・コレン賞を受賞し、オランダ国内で風景画家としての地位を確立する。しかし、彼にとってこれは単なる通過点であった。
自身の内面を表現するという目標にはまだ到達していなかったため、1907年頃から画風を大きく変化させる。
例えば以下は同年に描かれた作品だ。前者は印象派的な光の使われ方が特徴の作品になっている。
一方で後者は抽象度が一気に高まり、後の彼の代名詞ともいえる赤・青・黄の原色が使われ始める。
ピエト・モンドリアン『夜のウースツィース工場』, The Oostzijdse Molen by night label, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピエト・モンドリアン『赤い木』, The Red Tree label , Public domain, via Wikimedia Commons.
この時期、母の死という大きな衝撃を受けた彼は「神智学」というスピリチュアルな思想に傾倒していった。
神智学とは「自分の内面と向き合うことで、自然界を超えた大きな影響を得る」という考え方であり、モンドリアンにとって新たな表現の方向性を与えた。
これにより、彼は自然を写実的に描くことをやめ、内面をキャンバスに反映することに集中するようになる。大きな賞を受賞し名声を得たにもかかわらず、それらを捨て、新しい表現を追求し始めたのである。
キュビスムへの傾倒と、抽象絵画の芽生え
こうしてモンドリアンは、前衛的な表現の第一歩を踏み出した後、当時前衛画家が集まっていたパリに移住する。彼が39歳の時のことだ。
そのころ、パリではピカソが創始し、ブラックが発展させた「キュビスム」が流行していた。このキュビスムはセザンヌの発想を起源としており、「一つの対象を幾何学的にさまざまな角度から描いたらどうなるか」という思索がその核にある。
セザンヌ『牛乳缶とリンゴ』, Paul Cézanne - Boîte à lait et pommes, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピカソがこれをさらに発展させ、当時のパリではブラックによって引き継がれていた。モンドリアンはキュビスムの手法に強い衝撃を受ける。「パリの芸術はやはりすごい」と感銘を受けたわけだ。
対象を単純化し幾何学的に再構成することで感性に訴えかけるこの表現方法に魅了された。そして、1911年ごろから彼の作品も次第に変化を見せる。
ピエト・モンドリアン『灰色の木』, Gray Tree label, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピエト・モンドリアン『炊飯器と静物Ⅱ』Still Life with Gingerpot II label , Public domain, via Wikimedia Commons.
ピエト・モンドリアン『花咲くリンゴの木』, Blossoming Apple Tree label, Public domain, via Wikimedia Commons.
1年で完全に抽象絵画へと移行したことが作品からも明らかである。これほどまでに強い影響を受けたことがわかる点は興味深い。その後、1914年にオランダへ戻り、母国で抽象絵画に取り組む仲間と交流を深める。その中で彼は一つの重要な問いにたどり着く。
「描く対象の形を変えるのではなく、対象そのものをなくしてしまったらどうなるのか?」
こうしてモンドリアンは完全に図形のみを描く表現へと進化する。このアプローチは当時としてはあまりにも革新的であり、それまでの絵画が「描く対象」を前提としていた常識を覆すものだった。
ピエト・モンドリアン『構成 4番』, Composition IV label, Public domain, via Wikimedia Commons.
1917年、モンドリアンは「デ・ステイル」という前衛的な芸術雑誌で作品を発表する。この雑誌を通じて、彼は「新造形主義」という名称で自身の作品の方向性を小冊子にまとめ、次のような要素を新造形主義の基本として定義した。
・垂直線と水平線によって図柄をデッサンするもの
・線によってかたちづくられるグリッドがあるもの
・赤、青、黄の三色を基本に、白、黒、および灰色を補助的に使うもの
・神智学にもとづいて写実的でなく自己の内面性を見出すためのもの
・合理性の高い、秩序と調和の取れた表現を目指したもの
この新造形主義により、1917年以降、モンドリアンが目指す抽象絵画の世界観が確立される。この「赤・青・黄」の表現は、彼が歩んできた芸術の変遷を物語るものである。
初期の「印象派風の風景画」から始まり、「抽象化された風景画」、そして「キュビスム」を経て、最終的には「対象物を排除した図形の連続」へと進化した。これらは、モンドリアンが人間の内面を描き出すために長年葛藤し、到達した境地であった。
モンドリアンのこの方向性は、絵画を究極まで抽象化し、さらに使用する色彩を制限することで、余計な“示唆”や不要な要素を徹底的に排除するというものであった。
ただし、最初から原色を大胆に使ったわけではない。最初は淡い色彩を使って作品を仕上げていたのである。
ピエト・モンドリアン『色面構成』, Composition with Color Fields label, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピエト・モンドリアンの代表的な「赤・青・黄」の作風確立
1920年、現在私たちが「モンドリアンといえばこれ」と認識する作風が確立される。このスタイルは、平行線と垂直線で構成された格子状の構造に、一部の区画が赤・青・黄といった原色で塗られているのが特徴である。
ピエト・モンドリアン『構成 A』Composition, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピエト・モンドリアン『第一図』Tableau I label, Public domain, via Wikimedia Commons.
このスタイルはモンドリアン自身が宣言して確立したものだが、「デ・ステイル」という前衛的な芸術グループに所属する他のメンバーたちも同様のスタイルを取り入れていた点が興味深い。
以下は「デ・ステイル」の創始者の一人であるデオ・ヴァン・ドゥースブルフの作品だ。
デオ・ヴァン・ドゥースブルフ『構成 X』, Composition X, Public domain, via Wikimedia Commons.
しかし、「デ・ステイル」の創始者の一人であるドゥースブルフの作品には、平行線や垂直線だけでなく対角線が用いられる場合があり、この点でモンドリアンとは意見が分かれていた。
モンドリアンはあくまでも合理性を重視し、余計な要素を排除したスタイルを追求していたため、この違いが後に両者の決別を招くこととなったのだ。
モンドリアンにとって、合理性と純粋さを極限まで追求したスタイルこそが、彼の目指す芸術のゴールであった。対角線の追加や複雑な構造は、彼の求める秩序と調和にそぐわなかったのである。
最後までコンポジションを貫いたピエト・モンドリアンの晩年期
モンドリアンの新造形主義が興味深いのは、同じフォーマットを維持しながらも、少しずつ改良を加えていった点である。
「着色するスペースを減らす」「線の間隔を短くして立体感を出す」「キャンバスをひし形にする」「黒線に色をつける」など、微細な変化を重ねることで、新たな表現を模索していった。そして、それらの変化には彼の内面が確実に反映されている。
ピエト・モンドリアン『灰色の線の構成』, Lozenge with Grey Lines label, Public domain, via Wikimedia Commons.
ピエト・モンドリアン『構成 C』, Composition C, Public domain, via Wikimedia Commons.
1938年、第二次世界大戦が勃発すると、モンドリアンはパリからニューヨークへ移住する。そして、亡くなる1944年までその地で過ごした。晩年期、彼はニューヨークの華やかな都市文化に大いに影響を受けた。
その影響は遺作となった「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」に顕著に表れている。
ピエト・モンドリアン『ビクトリー・ブギウギ(未完成)』, Victory Boogie Woogie, Public domain, via Wikimedia Commons.
この作品は、従来のモンドリアン作品には見られないほど鮮やかな色彩を使用しており、彼の創作の集大成ともいえるものである。また、この作品は後にデザイン学校の教材としても多く使用され、現代にもその影響を残した。
まとめ
ピエト・モンドリアンは、絵画の世界において「抽象」を極限まで追求し、新しい表現の可能性を切り開いた画家である。彼の芸術は、印象派やキュビスムといった既存のスタイルを吸収しつつ、最終的に「新造形主義」という独自の世界観を確立した。
この過程で、対象そのものを排除し、平行線や垂直線、赤・青・黄の原色を基調とする図形だけで構成された作品を生み出した。
モンドリアンの作品は、鑑賞者に「これは何か?」と問うものではない。むしろ「どう受け取ってもいいんだよ」と投げかけている。絵画を単なる視覚的な美にとどめず、鑑賞者の内面と対話するものへと昇華させたと言えるだろう。
そもそも抽象絵画を描く理由とは、鑑賞者に自由な捉え方を提示し、人間の心の内面を表現することにある。
モンドリアンはその目的を追求し続けた結果、合理性と純粋性に満ちたスタイルを築き上げた。その結果、彼の作品は、現代においてもその意義を失わず、多くの人々に新たな視点をもたらし続けている。
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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