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2025.1.14
ヒトラーの描いた絵を解説!美大に落ちた理由、退廃芸術の背景とは
アドルフ・ヒトラー。20世紀最大の独裁者として知られる彼ですが、政治家になる前は画家を志し、多くの作品を描いていたことをご存じでしょうか?
ウィーン美術アカデミーの試験に2度落ち、その夢を諦めざるを得なかったヒトラー。その挫折は後の政治家としての人生、そして世界史に大きな影響を与えたとも言われています。
今回は、ヒトラーが描いた絵画の特徴や評価、ナチス時代の美術政策、そして「もし彼が画家として成功していたら」という歴史的な仮定までを紐解き、彼の知られざる一面とそれがもたらした影響について解説します。
目次
画家を目指したヒトラーの年表
はじめにヒトラーが画家を目指していた時期について、少年時代から振り返って紹介します。
画家を志したヒトラーの少年時代
ヒトラー(最後列の中央)が10歳から11歳まで通った小学校の集合写真, Public domain, via Wikimedia Commons.
アドルフ・ヒトラーは、1889年にオーストリアで生まれました。彼の家庭環境は厳しく、特に父・アロイスの支配的な性格が少年ヒトラーの性格形成に大きな影響を与えたといわれています。
少年期の彼は、軍人や政治家よりもむしろ画家になる夢を抱いていました。風景画や建築物に強い興味を持ち、スケッチブックに描き続けたことが記録されています。
彼が画家を志した最大のきっかけは、美術と文化が花開いていたウィーンという都市そのものでした。歴史的な建築物に囲まれた環境の中で、美術の道を進むことを決意します。
ウィーン美術アカデミー受験で挫折、落ちた理由
1907年、ヒトラーはウィーン美術アカデミーの入学試験を受験しました。しかし、1次試験を通過したものの、2次試験で不合格となります。
その理由は、彼の提出した作品に「人物デッサン」が欠けていたことでした。当時の審査記録には、「頭部デッサンが少なく、全体的に課題が不十分」と記されており、試験官たちは彼の才能を認めつつも「建築の分野での才能がある」と評価しました。
ヒトラーは建築家になることを勧められましたが、中等教育を修了していないため建築学を学ぶ資格がなく、その選択肢は彼にとって現実的ではありませんでした。
翌1908年に再び受験しますが、今度は1次試験で不合格となり、画家への道を断たれる結果となりました。この経験は彼に深い屈辱感を与え、のちの政治活動や思想形成に影響を及ぼしたと言われています。
この時点でヒトラーは画家に対して、かなりのコンプレックスを抱くことになりました。
絵描きとしての生活
ウィーン美術アカデミー入学を諦めたヒトラーは、糊口をしのぐため、ポストカードや風景画を描き、それを観光客や地元の商人に売り歩きました。主な顧客はユダヤ人商人だったことが記録されています。
この時期、彼の作品には建築物や風景が多く描かれていましたが、情熱や独創性に欠けると評されることが多く、画家としての地位を築くことはできませんでした。
その後、1913年、徴兵忌避罪を逃れるためミュンヘンに移住したヒトラーは、翌年第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ陸軍に志願します。伝令兵として従軍し、戦地では勇敢さが評価されて勲章を授与されるなど、一定の名誉を手にしました。
この転機がもとになり、画家志望の青年から独裁者となっていったのです。
ヒトラーの絵画の特徴と評価
それではヒトラーの作品について、特徴や周りの評価といった視点から紹介します。
ヒトラー絵画の作風
ヒトラー『ウィーン国立歌劇場』(1912年), Public domain, via Wikimedia Commons.
ヒトラーの絵画は建築物の緻密な描写が際立っていますが、人物や自然描写への関心が欠けていることが特徴的です。建物のデッサンはハイレベルでしたが、それ以外への興味が薄かったといえます。
もしヒトラーが建築学科に進んでいたら、建築デザインの道で大成していたのかもしれません。しかしファインアートは向いていませんでした。
また彼は主に古典主義やルネサンス、新古典主義的なスタイルを好みました。簡単にいうと「バランスの取れた静的で荘厳な作品」です。
しかし世間は前衛的な美術が台頭していた時代でした。ヒトラーはこれらの作品に対して嫌悪感を抱いていたことも事実です。
評論家たちのヒトラー絵画への評価
ヒトラー『聖母マリアと聖なる子イエス・キリスト』(1913年), Public domain, via Wikimedia Commons.
多くの美術評論家は、ヒトラーの絵画を技術的には一定の水準に達しているとしながらも、感情や独創性が欠けていると評価しました。特に、匿名で行われた評価では「建築物の描写は素晴らしいが、絵に心が感じられない」と指摘されています。
よく言えば教科書的な絵です。しかし先述した通り、この時代では画家の個性も重要視されるようになっていました。この点で、ヒトラーは画家として大成できなかったのです。
ヒトラー作品のオークションと現在の価値
ヒトラー『ミュンヘンのアルター・ホーフ中庭』, Public domain, via Wikimedia Commons.
第二次世界大戦後、多くのヒトラー作品がアメリカ軍に接収されました。その一部は未だ公開されていませんが、個人所蔵品がオークションに出品され、高額で取引されています。
例えば、2014年11月に水彩画「ミュンヘンの戸籍役場」が13万ユーロ(当時約1900万円)で落札されました。
ヒトラーとナチスの美術政策
ヒトラーはナチスを率いていた時期に、美術に格差をつけました。彼が好む、格調高いルネサンス的な作品を高く評価し、一方で近代美術、抽象芸術を卑下したのです。
そんなナチス政権時代の美術政策について紹介します。
ナチス時代の美術観
退廃芸術家とされた作家の一人、フランツ・マルクの『鳥』(1914年), Public domain, via Wikimedia Commons.
ナチス政権の美術政策は、ヒトラー自身の美術観と深く結びついていました。青年期に画家を志しながらも挫折を経験したヒトラーにとって、美術は個人的な情熱であると同時に、自らの価値観や理想を表現する手段でもありました。
ナチスは、美術を国民統合のための重要なツールと位置付け、古典主義美術を強く推奨しました。古典主義は、調和、均整、健全さを重視するスタイルで、ナチスが目指す「強靭な民族」や「ドイツの伝統文化」を象徴するものとされました。
一方、ポスト印象派、キュビズム、ダダイズム、表現主義などの近代美術や抽象芸術は「退廃芸術(Entartete Kunst)」として排除の対象となりました。
ヒトラー自身は、これらの前衛的なスタイルを「無秩序で非道徳的」と断じ、「ドイツ民族の美意識を損なうもの」と見なして弾圧したのです。
その背景には、彼の作品が持つ古典的志向と、当時の美術界で台頭していた前衛芸術との乖離があったと考えられます。
退廃芸術展の開催
1938年2月27日の日曜の午後、「ドイツ芸術の家」で開催された退廃芸術展を観に訪れたゲッベルス宣伝相, Public domain, via Wikimedia Commons.
1937年、ナチス政権はミュンヘンで「退廃芸術展」を開催しました。この展覧会は、ナチスが近代美術を否定し、国民にそれを嘲弄させる目的で企画されたものです。展示された作品は1,000点以上に上り、ピカソ、シャガール、カンディンスキー、キルヒナーなど、当時の著名な画家たちの作品が含まれていました。
展示は意図的に劣悪な環境で行われ、壁には「病的」「退廃的」「ドイツ民族を侮辱する」といった侮辱的な言葉が書かれていました。
また、作品は歪んだ視点から展示され、来場者に嫌悪感を抱かせるよう工夫されていました。この展覧会は、ナチスのプロパガンダの典型例であり、1年間で約200万人が訪れたと言われています。
一方、退廃芸術として排除された芸術家たちは、ドイツ国内での活動を禁じられ、多くが亡命を余儀なくされました。中には逮捕や強制収容所送りとなった者もおり、芸術界への弾圧は甚大なものでした。
ヒトラーによる美術と政治のプロパガンダ
ナチス政権は、芸術をプロパガンダとして活用しました。特に「健全な肉体美」を象徴する彫刻や絵画、そして「農村共同体」を描いた作品は、ナチスが理想とする「強いドイツ民族」のイメージを形成するために用いられました。
これらの作品は、アーリア人の肉体美や古代ギリシャ・ローマの美学を模範としたもので、アルノ・ブレーカーやアドルフ・ツィーグラーなどの芸術家が制作を主導しました。
アルノ・ブレーカー作 『党』(Die Partei), Public domain, via Wikimedia Commons.
また、ナチスは建築を通じてその理念を具現化しようとしました。アルベルト・シュペーアによる「ゲルマニア計画」では、巨大な凱旋門やドームなどの建築物が設計され、これらはナチスの権力と威厳を象徴するものでした。
ナチス美術政策の影響
ナチスの美術政策は、単なる文化的統制に留まらず、プロパガンダ、社会統制、民族意識の強化を目的としたものでした。
この政策は、芸術の自由を奪い、多くの才能ある芸術家たちのキャリアを壊したといえるでしょう。一方で、ナチスの芸術観と政策が、独裁的な思想と結びつき、いかに芸術が政治の道具として利用され得るかを示した歴史的な例ともいえます。
まとめ
アドルフ・ヒトラーの絵画は、彼自身の未完の夢と挫折を映し出す鏡でした。彼が内に秘めた個人的なコンプレックスと心理が反映されている部分も大いにあるでしょう。
画家としての道を夢見た青年期のヒトラーは、ウィーン美術アカデミーでの入学失敗を通じて、絵画の才能を否定されました。この挫折は、彼のその後の人生を大きく変える転換点となり、彼の人格形成においても深い傷跡を残したと考えられます。
ただ今考えると「もしヒトラーが画家になっていたら」と思わざるを得ません。彼が美術に没頭していたならば、ナチス政権の台頭やホロコーストの悲劇は避けられていた可能性があります。
ナチスの政策は多様性とは真逆の思想で進められました。ある程度、多様性が進んだ現代だからこそ、ヒトラーの教科書的で整然とした作品を観ると、「他者を認めることの重要さ」を感じられます。
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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