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2026.5.15
取材レポート【森美術館「ロン・ミュエク」展】ロン・ミュエクの彫刻は、なぜ心をざわつかせるのか
森美術館で開催中の「ロン・ミュエク」展は、驚くほどリアルな人物彫刻を通して、人間の存在そのものを見つめ直す展覧会です。ロン・ミュエクは1958年オーストラリア生まれ、現在は英国を拠点に活動する現代美術作家。
革新的な素材や技法を用い、具象彫刻の可能性を押し広げてきた作家として知られています。日本での個展は、2008年の金沢21世紀美術館以来、2度目となります。
目次
本展では、初期の代表作から近作まで11点を展示。そのうち6点が日本初公開です。2023年にパリのカルティエ現代美術財団で始まった展覧会を起点に、ミラノ、ソウルを経て東京へ巡回してきました。東京では、同財団と森美術館との共催により開催されます。
会場には、巨大な身体、小さな身体、眠る身体、漂う身体、そして無数の頭蓋骨が並びます。けれども、そこで見えてくるのは「すごくリアルな彫刻」という驚きだけではありません。そこには、人間の孤独、弱さ、不安、老い、死、そして尊厳が静かに立ち上がっています。
巨大な女性像が変える、見る側の距離感
会場で強く印象に残る作品のひとつが、巨大なベッドの上に女性が横たわる《イン・ベッド》です。女性はぼんやりとどこかを見つめています。物思いにふけっているのか、悲しんでいるのか、ただ空を眺めているのか。その表情は、はっきりとした答えを与えてくれません。
ロン・ミュエク 《イン・ベッド》 2005年、所蔵:カルティエ現代美術財団
面白いのは、鑑賞者がこの女性と視線を合わせることが難しい点です。近づけば、肌や髪、しわの細部までじっくり見ることができます。けれども、もし相手が実際の人間であれば、そんなふうに見つめることは失礼にあたるでしょう。
作品であるからこそ、私たちは通常ではありえない距離で、他者の身体を観察してしまう。その不思議な関係性が、この作品の緊張感を生んでいます。
本物そっくりなのに、どこかおかしい
ミュエク作品の特徴は、単に写実的であることではありません。実際の人物よりもはるかに大きく、あるいは小さく作られることで、私たちの知覚そのものを揺さぶります。公式サイトでも、その彫刻は私たちの「知覚に対する先入観への挑戦」であり、リアリティに迫りながらも、鑑賞者の解釈や思索を促す曖昧さを残していると紹介されています。
たとえば、小さなスケールで表された10代のカップル。一見すると、どこにでもいそうな若い二人に見えます。しかし背後に回ると、男性が女性の手首をつかんでいることに気づきます。それは愛情なのか、冗談なのか、それとも支配なのか。答えは示されません。ただ、親密さの中に潜む不穏さだけが、こちらに残されます。
ロン・ミュエク 《若いカップル》 2013年、所蔵:ヤゲオ財団コレクション(台湾)
一方、水着姿の少女像は、通常の10代の女性より大きなスケールで表されています。彼女は鑑賞者と目を合わせず、横向きに立っています。成長する身体への戸惑い、見られることへの居心地の悪さ、自分自身を持て余すような感覚。そうした言葉にならない感情が、身体の姿勢そのものから伝わってきます。
ロン・ミュエク 《ゴースト》 1998/2014年、所蔵:ヤゲオ財団コレクション(台湾)
飛べない天使、漂う男
初期の代表作《エンジェル》も見逃せません。天使という題材でありながら、ここにいるのは神々しい存在というより、どこか不器用で、重たげな身体を持つ人物です。羽を持ちながら、飛び立てそうには見えない。理想化された天使ではなく、人間の弱さを背負ったような存在として立ち現れます。なお《エンジェル》は、本展の巡回のなかでも東京会場でのみ展示されている貴重な作品です。
《舟の中の男》では、大きなボートの中に裸の男性がぽつんと座っています。どこから来て、どこへ向かうのかはわかりません。絶望しているようにも、これから起きることを静かに待っているようにも見えます。船というモチーフは、旅、漂流、死後の世界など、さまざまな物語を呼び込みます。しかしミュエクは、その意味をひとつに決めません。鑑賞者それぞれの記憶や想像力が、作品の中へ流れ込んでいくのです。
100の頭蓋骨が問いかけるもの
本展の大きな見どころとなるのが、《マス》です。100点の巨大な頭蓋骨の彫刻で構成された作品で、森美術館の空間に合わせた展示構成になっています。頭蓋骨は、美術史や宗教、医学、発掘、ファッションなど、さまざまな文脈で用いられてきたモチーフです。しかし、それが圧倒的な量として目の前に現れると、象徴を超えて、ひとつの風景のように迫ってきます。
ロン・ミュエク 《マス》 2016-2017年、所蔵:ビクトリア国立美術館(メルボルン)、2018年フェルトン遺贈
そこから連想されるのは、戦争や災害、歴史の中で失われてきた無数の命かもしれません。あるいは、私たち自身もいつか同じ形へと還っていく存在であるという事実かもしれません。森美術館館長の片岡真実氏は、プレス説明会で、本展が人間に共通する本質や尊厳、ヒューマニティについて考える機会になると語っていました。《マス》の前に立つと、その言葉は抽象的な理念ではなく、身体に直接届く実感として迫ってきます。
最後の映像で見える、制作の執念
会場の最後には、ミュエクの制作過程を記録した2本の映像作品も用意されています。段状のベンチが設けられているため、腰を落ち着けて見やすい空間になっているのも嬉しいところです。時間に余裕があれば、ぜひここまでじっくり見ておきたい内容です。
ゴーティエ・ドゥブロンド 《チキン/マン》 2019-2025年 ハイビジョン・ビデオ
完成した作品だけを見ていると、あまりのリアリティに圧倒されますが、映像を見ることで、その裏側にある膨大な手仕事と時間が見えてきます。小さなスケッチから始まり、粘土や型取り、彩色、髪や肌の質感の調整まで、作品は一気に生まれるのではなく、少しずつ身体を与えられていきます。
とくに《チキン/マン》では、展示室で見た作品がどのように制作されていくのかを追うことができます。男性とニワトリが向かい合う、あの奇妙で緊張感のある場面が、どれほど細かな観察と手作業の積み重ねによって生まれているのかが伝わってきます。ミュエクは多くを語る作家ではありませんが、制作過程の映像を通して、彼が人間の身体や表情、そしてそこに宿る感情をどれほど慎重に形にしているのかが見えてきます。
ロン・ミュエク 《チキン/マン》 2019年、所蔵:クライストチャーチ・アートギャラリー/テ・プナ・オ・ワイウェトゥ(ニュージーランド)
人間を見ることは、自分を見ることでもある
ロン・ミュエクの彫刻は、人間を美化しません。しわも、たるみも、不安も、疲れも、孤独も、そのまま身体に刻み込みます。けれども、それは冷たい観察ではありません。むしろ、弱く、迷い、老い、死に向かう存在としての人間を、深く見つめるまなざしがあります。
会場を出るころ、私たちは作品を見ていたはずなのに、いつの間にか自分自身の身体や人生を見つめ返していることに気づきます。巨大な身体、小さな身体、眠る身体、漂う身体、そして頭蓋骨の群れ。そこにあるのは、特別な誰かではなく、私たち自身の姿です。
「ロン・ミュエク」展は、圧倒的な写実性で驚かせる展覧会でありながら、その本質はもっと静かなところにあります。人間とは何か。生きるとは何か。他者を見るとはどういうことか。森美術館の空間で、私たちは巨大な沈黙の前に立ち尽くすことになります。
開催概要
ロン・ミュエク
森美術館
開催期間:2026年4月29日(水・祝)~9月23日(水・祝)
所在地:東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー
アクセス:
東京メトロ日比谷線 「六本木駅」1C出口 徒歩3分(コンコースにて直結)
都営地下鉄大江戸線 「六本木駅」3出口 徒歩6分
都営地下鉄大江戸線 「麻布十番駅」7出口 徒歩9分
東京メトロ南北線 「麻布十番駅」4出口 徒歩12分
東京メトロ千代田線 「乃木坂駅」5出口 徒歩10分
開館時間:10:00~22:00
※火曜日のみ17:00まで
※ただし8.11(火・祝)、9.22(火・祝)は22:00まで
※最終入館は閉館時間の30分前まで
休館日:会期中無休
料金:
[平日]( )=オンラインチケットの料金
一般 2,300円(2,100円)
学生(高校・大学生)1,400円(1,300円)
中学生以下 無料
シニア(65歳以上)2,000円(1,800円)
[土・日・休日]
一般 2,500円(2,300円)
学生(高校・大学生)1,500円(1,400円)
中学生以下 無料
シニア(65歳以上)2,200円(2,000円)
公式サイト:ロン・ミュエク
ロン・ミュエク 森美術館
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東京美術館巡りというSNSアカウントの中の人をやっております。サラリーマンのかたわら、お休みの日には、美術館巡りにいそしんでおります。もともとミーハーなので、国内外の古典的なオールドマスターが好きでしたが、去年あたりから現代アートもたしなむようになり、今が割と雑食色が強いです。
東京美術館巡りというSNSアカウントの中の人をやっております。サラリーマンのかたわら、お休みの日には、美術館巡りにいそしんでおります。もともとミーハーなので、国内外の古典的なオールドマスターが好きでしたが、去年あたりから現代アートもたしなむようになり、今が割と雑食色が強いです。
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