STUDY
2023.9.12
永遠の都ローマ展:【中世ローマ】を理解する 3 つのポイントを在住者が解説!
2023年9月16日(土)から12月10日(日)にかけて東京都美術館で開催される「永遠の都ローマ展」。展覧会では芸術をとおして、古代から近代にかけてローマが歩んできた偉大な歴史を感じることができます。
この記事は、「永遠の都ローマ展」の開催にあわせ、唯一無二の都ローマを時代ごとに解説するシリーズ記事の第ニ弾です。中世ローマを理解するための3つのキーワードについて、現地ローマの大学院で美術史を専攻する筆者が詳しく解説します。
「永遠の都ローマ展」の詳細を知りたい方は、「【永遠の都ローマ展】カピトリーノ美術館から数々の名作が来日!」をどうぞ。
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永遠の都ローマ展【中世①】:なぜローマは首都でなくなったのか?
紀元後117年ごろのローマ帝国地図, Public domain, via Wikimedia Commons
ローマは長い歴史の中で「永遠の都」と呼ばれ続けてきましたが、「首都」であり続けたわけではありません。4世紀、強大な力を誇っていた古代ローマ帝国は、異民族の侵入により徐々に崩壊の道を進みます。国内外の情勢の情勢の変化により、ローマも少しずつ変化していったのです。
「異民族の侵入」というと、あたかも北部のゲルマン民族が武器を持って攻め入ってきたように感じるかもしれません。しかし実情は、ゲルマン人がローマ社会に適応し、軍人として成功を収めて地位を獲得するなかで、徐々にもとのローマ帝国の形が失われた側面もあります。
ローマの重要性は、急激に失われたわけではなく、数世紀かけてゆるやかに進みました。ゲルマン人侵入以外の大きな要因の1つは、286年にディオクレティアヌス帝が帝国の4分割統治(テトラルキ)を開始したことで、ローマは4つのいずれの首都にも選ばれなかったのです。
これは、4人の皇帝のうちローマを統治する者の権力が大きくなりすぎるとディオクレティアヌス帝が判断したためと言われます。しかし結局、その後も帝国の首都はミラノやラヴェンナなどローマ以外の都市に据えられることなり、ローマが政治的中心でなくなるきっかけを作りました。
ローマはその後、帝国が崩壊してもなお7世紀ごろまでは概念的な“首都”であり続けたものの、実質的な首都機能はローマ帝国崩壊より早く失われる結果となります。
永遠の都ローマ展【中世②】:初期キリスト教会とローマ
サン・ピエトロ大聖堂,ローマ , Public domain, via Wikimedia Commons
中世ローマを理解するためのもっとも重要なキーワードの1つが「キリスト教」です。キリスト教はイエスが生きた1世紀前半から活動がありましたが、古代ローマにおいては長く迫害の歴史をたどりました。
転機が訪れたのは、4世紀はじめのコンスタンティヌス帝の時代です。コンスタンティヌス帝は個人的な信仰から、そして政治的、社会的な理由から、キリスト教を公認し、迫害の時代に終止符を打ちました。
それまでの異教徒の皇帝と異なり、キリスト教徒を支援した功績から、中世キリスト教ローマにおいてもコンスタンティヌス帝は支持され続けます。異教徒(キリスト教徒ではない)ローマ皇帝は、長い中世をとおして軽視される傾向にありました。
15世紀まで教皇庁が保管していた古代のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の騎馬ブロンズ像は、長らくコンスタンティヌス帝だと勘違いされていたため良い保存状態で維持されたと言われます。
キリスト教を公認したのち、コンスタンティヌス帝はローマにいくつかの重要な教会を建築します。ヴァチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂(聖ペテロ大聖堂)もその1つです。
ローマは、重要な使徒のペテロとパウロが処刑され、埋葬された場所でもありました。現在でも、この2人の聖人はローマの守護聖人です。フランスやドイツなどでは中世に多くの新しい聖人が生まれましたが、ローマは初期キリスト教時代の聖人信仰が強く残っている特徴があります。
『聖ペテロへの天国の鍵の授与』ペルジーノ , Public domain, via Wikimedia Commons
聖ペトロはイエスから天国へのカギを預かっている人物であり、カトリックでは初代教皇に位置付けられます。聖ペテロが埋葬された土地の司教座(=ローマ司教座)はキリスト教会を統括する重要な存在として発展していきました。
これこそが、ローマが政治的な重要性を失ったあともヨーロッパにおいて重要な都市であり続けた1つの大きな要因です。かつてローマ帝国の政治的首都であったローマは、徐々に宗教的中心地としての側面を強めていきました。
永遠の都ローマ展【中世③】:アヴィニョン捕囚の影響
サン・ジョバンニ大聖堂(ラテラノ),ローマ , Public domain, via Wikimedia Commons
中世におけるローマは、必ずしも繁栄し続けたわけではありません。実際多くのほかのヨーロッパの都市がそうであるように、ローマも8世紀以降はゆるやかに荒廃し、かつてのような厳格さを失っていきました。
とくにローマの凋落を決定づけた出来事が、教皇のアヴィニョン捕囚です。アヴィニョン捕囚は1309年~1377年にかけて教皇座がローマからアヴィニョンに移された時代を指します。それまで強大な影響力を持っていた教皇の権力が、世俗権力の前に屈することになった衝撃的な事件でした。
教皇は事件の前まで、ヴァチカンではなくラテラノ宮と呼ばれる宮殿に居住を構えていました。主を失ったラテラノ宮は荒廃し、1377年に教皇がローマに帰った際には住める状態にはなかったと言われます。
この機を境に教皇はラテラノ宮から居住をヴァチカンに移し、失われたローマの栄光を取り戻すべく、芸術の力を借りて街を盛り上げようとします。ローマのルネッサンスが民間主導のフィレンツェ・ルネッサンスとはやや趣向が異なるのは、そんな背景があるからなのです。
ローマ・ルネッサンスについては、別の記事で詳しく紹介します。
ローマの中世を理解するうえで、この記事が少しでも助けになれば幸いです。以上、ローマの「中世」をひも解く3つのポイント解説でした!
『永遠の都ローマ展』について詳しく知りたい方は、こちらの記事「【永遠の都ローマ展】カピトリーノ美術館から数々の名作が来日!」をどうぞ。
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イタリア・ローマの大学の美術史修士課程に在籍中。3年半勤めた日系メーカーを退職後、2019年から2年半のスペイン生活を経てフリーライター、日英・日西翻訳として活動するかたわら、スペイン語話者を対象に日本語を教えています。趣味は読書、一人旅、美術館・教会巡り、料理。
イタリア・ローマの大学の美術史修士課程に在籍中。3年半勤めた日系メーカーを退職後、2019年から2年半のスペイン生活を経てフリーライター、日英・日西翻訳として活動するかたわら、スペイン語話者を対象に日本語を教えています。趣味は読書、一人旅、美術館・教会巡り、料理。
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