Facebook X Instagram Youtube

STUDY

2024.8.29

岸田劉生とは|麗子像に秘めた想いとは?生涯と画風、作品の魅力を解説

大正から昭和初期にかけて活躍した画家、岸田劉生。亡くなったのは38歳で短命でしたが、その間に作風が大きく変わり「最も振れ幅が大きかった画家」とも言われました。
この記事では岸田劉生の生涯と作風の変化を追いながら、麗子像に代表される作品の魅力をわかりやすくお伝えします。

目次

岸田劉生とは?:西洋から東洋へ、独自の道を切り拓いた孤高の画家

Kishida Ryûsei, Public domain, via Wikimedia Commons

「孤高の画家」「個性的」と称される岸田劉生。大正から昭和にかけて同時期に活躍した画家の多くはパリの前衛的な芸術から影響を受けましたが、岸田劉生は北方ルネサンス絵画や中国の古典美術、日本の浮世絵などに目を向けていました。
このあたりが「孤高」と言われる所以です。

また、ゴッホやゴーギャンなど「内面主義」→北方ルネサンス絵画に影響された「写実主義」→中国古典絵画や日本画・浮世絵などに共通する「東洋の美」へと作風や関心が移り変わった点が「振れ幅の大きい」と称されています。

この段落では、岸田劉生の人生においてどのような出来事が作風の変化につながったかをご紹介します。

誕生から画家を志すまで:裕福な家庭環境、両親の死、キリスト教との出会い

子供時代の岸田劉生をキーワードで表すとしたら、「両親の死」「キリスト教」が挙げられます。

岸田劉生は1891年(明治24年)、東京の銀座で楽善堂という薬屋を経営していた岸田吟香(きしだぎんこう)と妻の勝子の間に生まれました。楽善堂は大きな薬屋でとても栄え、岸田家はとても裕福な家庭でした。
なお、岸田劉生は7男5女のうち9番目(四男)でした。現代の感覚だと、驚くほどの大家族だと感じられます。幼少期の岸田劉生はいたずら好きでしたが、父の岸田吟香にとてもかわいがられました。

岸田劉生にとっての初めての転機は、両親の死でした。1905年(明治38年)のことで、14歳のときでした。楽善堂は事業を縮小せざるをえなくなり、それが原因で劉生は旧制中学校を中退しました。
旧制中学校を中退したあとに数寄屋橋教会に通い始めました。父親が生前に教会を勧めていたことが影響しました。劉生は15歳で洗礼を受け、クリスチャンになりました。

この頃の岸田劉生の目標は牧師になることでした。このまま実際に牧師になっていたら、私達が今見るような数々の作品は見られなかったわけですね。

しかし、牧師が劉生に絵の才能があることを見出し、画家の道を勧めたことから運命が変わります。
岸田劉生は17歳のとき、白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事して洋画を学びます。
なお、当時の日本画壇はイタリアから来日したお雇い外国人の系譜を引く旧派(写実的)と、フランス留学から帰国した黒田による新派(明るい感覚の印象派)の2つがありました。

白馬会洋画研究所に入った約2年後の1910年(明治43年)、第4回文展(文部省美術展覧会)で劉生の作品が2点入選しました。これが実質的なデビューと言えます。
興味深いことに、この時期の劉生は絵画を描くことを「キリスト教布教のための手段」と考えていたそうです。

「第二の誕生」 ポスト印象派との衝撃的な出会い、内面表現に目覚めた

ここまでも「両親の死」「教会(クリスチャン・洗礼)」「白馬会洋画研究所」と何度か転機がありましたが、岸田劉生にとって最も大きな転機はポスト印象派との出会いだったといえます(なんといっても、本人が「第二の誕生」と述べているのですから)。

Kishida Ryûsei, Public domain, via Wikimedia Commons

20歳のとき劉生は雑誌『白樺』を知り、武者小路実篤らと交流することになりました。
これがきっかけで、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどポスト印象派を知ることになったのですが、劉生にとっては衝撃的な出会いだったようです。

関連記事:
フランス・ポスト印象派画家ゴーギャンの人生は?特徴と見どころ解説
オランダのポスト印象派画家ゴッホの人生とは?特徴と見どころ解説
ポスト印象派画家・セザンヌの人生とは?作品の特徴と見どころを紹介!

ポスト印象派の画風は、印象派とは大きく違います。それまでの印象派の「写実的な描き方」を継承・発展させたことは確かですが、「絵の中に自分の内面を表現する」「自分が描きたいように描く」という要素が大きく現われており見た目の印象は大きく違います。

今まで知らなかった表現スタイルと出会い衝撃を受けたことで、岸田劉生は、黒田清輝風のスタイルを卒業することを決意しました。黒田清輝の白馬会洋画研究所で学んだ時代に描き、文展に入選した作品を売ってしまったほどに過去の自分と決別したかったのだと思われます。

「自分が描きたいように描く」「絵の中に自分の内面を表現する」というポスト印象主義に出会い、絵を書く目的も「信仰を広める一つの手段」から、「生涯の目的」に変わりました。

写実主義への傾倒:デューラー、ファン・エイクからの影響

1913年(明治44年)、岸田劉生は小林蓁と結婚し代々木に引越しました。この時期、劉生は肖像画に没頭し、「岸田の首狩り」や「千人斬り」と呼ばれるほど多くの肖像画を手がけました。

前年の1912年には「フュウザン会」を結成し、若手印象派のグループとして注目されましたが、1913年には解散しました。その後、長女麗子の誕生を機に麗子像を多く描くようになりました。劉生の自画像を描くことが減った分、麗子像が劉生の新たな自画像となったともいえます。
この頃からデューラー、ファン・エイク、レンブラントなど「北方ルネサンス」の画家たちの影響を受け、写実的な作風を追求し始めました。

岸田劉生の初期作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響を受けていましたが、次第にヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著となり、精緻な写実的なスタイルに移行していきました。
精緻な写実を追求し、物や人物の存在を深く見つめる「内なる美」の探求に向かったともいえます。


1915年には「草土社」の設立に関わり、その後の展覧会にすべて出品しました。草土社は木村荘八、清宮彬、中川一政、椿貞雄などのメンバーで構成され、1922年までに9回の展覧会を開きました。

Kishida_Durchstich,Public domain, via Wikimedia Commons

劉生の風景画の代表作として、1915年に描かれた『切通しの写生(道路と土手と塀)』があり、これも第2回草土社展に出品されています。
岸田劉生は日本画壇に多大な影響を与え、写実主義を追求することで独自の美を追い求めました。

東洋美術への開眼:日本画の制作、中国古典絵画や浮世絵の蒐集

1916年の夏、岸田劉生は肺結核と診断されました。そのため翌年1917年には神奈川県の鵠沼に転居し、療養を開始しました。
この期間に体調は回復し、創作活動に専念しました。6年半の鵠沼時代は、彼の画家人生の黄金期とされています。

1921年からは妻・蓁の勧めで歌舞伎や文楽を観劇し、長唄を習い始めるなど、日本の伝統文化に深い興味を持つようになりました。この時期から日本画を本格的に描くようになり、東洋的な美への関心が高まりました。

Pola Museum of Art, Public domain, via Wikimedia Commons

また、劉生は京都に憧れ、祇園でのお茶屋遊びや古美術の蒐集に没頭しました。古美術の収集に多くの時間と資金を注ぎすぎて、一時は生活が困難になることもあったほどです。
大正時代の後半には宋元画や初期肉筆浮世絵、南画など東洋的な美を自らの芸術に取り入れようとし、新たな芸術的探求を続けました。


こうして振り返ると、岸田劉生の転機には「出会い」や「身近な人の影響」があることがわかります。父の勧めで教会に通いはじめたこと、牧師の勧めで絵の道に進んだこと、武者小路実篤たちと交流したことでポスト印象派に目覚めたこと、長女麗子の誕生を機に麗子像を多く描くようになったこと、妻・蓁の勧めで歌舞伎や文楽に興味を持ち、東洋の美を追求するようになったことです。

劉生と周りの人物の繋がりを知ることで、人間としての岸田劉生の人物像が浮かび上がってきますね。

短い生涯:38歳で夭逝、残された多くの傑作

1929年、岸田劉生は南満州鉄道会社の招待を受けて大連を訪れましたが、体調不良で2ヶ月弱のみ滞在し、帰宅しました。静養のため徳山に滞在したのですが、慢性腎炎と胃潰瘍にかかってしまいます。
最後の作品となった『銀屏風』を描いた20日後に息を引き取りました。

38年という短い人生でしたが、劉生が描いた作品は多くの人を感動させています。
43点ある麗子像のシリーズのほか、『B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)』、『道路と土手と塀(切通之写生)』、『古屋君の肖像 (草持てる男の肖像)』、『壺の上に林檎が載って在る』、『近藤医学博士之像』などが知られています。

数多くの作品のうち、『道路と土手と塀(切通之写生)』『麗子微笑』は国指定の重要文化財になっています。ここからも岸田劉生の作品の素晴らしさや、日本の美術界に与えた影響を感じ取ることができます。

岸田劉生の作風を紐解く3つのキーワード

銀座と数寄屋畔 岸田劉生筆,Public domain, via Wikimedia Commons

岸田劉生の作風を表すとしたら、どのような表現がぴったりなのでしょうか? 作風が何回か変わったため一言では表しにくいのですが、劉生が目指したものを3つのキーワード(内なる美、卑近美、でろり)を通して探ろうと思います。

「内なる美」:写実を超えた存在の神秘性を表現

岸田劉生は「深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する。それは『神秘』である」と述べています(『劉生画集及芸術観』1920年)。
対象物を正確に細かく絵の中に再現するだけでなく、写実のその先にある「何か」に到達するのを目指していたのではないでしょうか。
それは対象物に徹底的に向き合ううちに自身の内面から呼び起こされた「内なる美」であり、その素晴らしさを言葉であらわすと『神秘』であるといえます。

「卑近美」:東洋美術の持つ独特の美意識

岸田劉生は1922年に『純正美術』第2巻第3号で東洋美術について次のように述べています。

「東洋の美は、倫理的感銘が欠けているのではない。ただ、その露骨性を避けられているのである。匿くされているのである。
 東洋のものの渋さがそこにある。東洋のものは、一皮剝ぐと、そこに深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さ、そういうものがある。」

上の考えを劉生は一言で「卑近美」と表現しています。「卑近」とは身近でありふれていること。高尚でなくわかりやすいことという意味ですが、西洋美術と違い「一見何でもないように見えて、一皮剝ぐと深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さを発見できる」ことが東洋美術の魅力だといえます。

劉生は初期の肉筆浮世絵や中国の古典絵画に魅力を感じ、これら東洋美術の独特の美を自らの作品に落とし込むことに成功しました。

「でろり」:初期肉筆浮世絵に見られる濃厚で生々しい美しさ

岸田劉生が生み出した絶妙な言葉として「でろり」が挙げられます。狂言の影響を受けた初期の歌舞伎や初期の浮世絵などに共通する「生々しさやしつこく濃い表現」を劉生は「デロリ(デレリ、デロデロ)としている」と表現しました。

日本美術に現れる不気味なリアリズムや、劉生自身の作品を含む生々しさは、まさに「でろり」という言葉で表現するのがぴったりと言えるでしょう。

岸田劉生の人物像:その魅力に迫る

Kishida Ryūsei (1891-1929), Public domain, via Wikimedia Commons

天真爛漫ないたずら好き:子供のような無邪気さ

子どもの頃の岸田劉生はいたずら好きで有名でした。糝粉(しんこ。白米をひいた粉)細工で血まみれの小指を作り、歩道に置いて通行人を驚かせたエピソードが知られています(警察がやって来るほどだったため、大きな騒ぎになったと思われます)。

父の岸田吟香はそんな子供時代の劉生を子どもたちの中でも特に可愛がっていました。大人になってもユーモアを持ち続けた劉生を、周りの人も憎めなかったようです。

人を惹きつけるカリスマ性:草土社の仲間たちを魅了

岸田劉生は1915年に自身が中心となり「草土社」を設立しました。草土社は1922年まで9回の展覧会を開催しましたが、中核メンバーであった友人や若い画家たちのなかで、劉生は圧倒的な求心力を発揮しました。

情熱的で一途な性格:「岸田の首狩り」エピソードを紹介

岸田劉生は1913年(明治44年)に結婚したあと代々木に住みました。この時期、劉生は肖像画に没頭し、知人や友人に声をかけて肖像画を描かせてもらったのですが、次々に熱心に頼む様子が「岸田の首狩り」と言われたほどです。執念を感じますね。
あまりに多くの人を描いたため、「千人斬り」とも呼ばれました。

キリスト教の影響:信仰と芸術

岸田劉生は15歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになりました。絵の道に進む前は牧師を目指していたこともあり、10代後半の劉生は絵画を「布教のための手段」として捉えていたとも述べています。

潔癖症、こだわり強い

ここまで読まれた方は、岸田劉生は「ユーモアがあり情熱的」だとイメージしたのではないでしょうか。

実は、岸田劉生は潔癖症でした。汚物が腕に付着したことがあった時には「腕を切り落とせ」と言い張り、周囲を困惑させたほどです。トイレでは紙を一丈(約3m)も使っていたといわれています。
また、癇癪持ちで気に入らないことがあると当り散らすなど、社交的とはいい難いと感じていた人も多かったようです。

こだわりが強いからこそ「岸田の首狩り」といわれるほどたくさんの肖像画を描いたり、東洋美術にのめり込み新しい作風を会得したりできたと思いますが、長所は短所の裏返しである一つの例かもしれません。

岸田劉生の代表作:時代と共に変化した画風

初期:印象派の影響を受けた作品(例:高須光治君之肖像)

岸田劉生は17歳のとき、白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事して洋画を学びます。
なお、当時の日本画壇はイタリアから来日したお雇い外国人の系譜を引く旧派(写実的)と、フランス留学から帰国した黒田による新派(明るい感覚の印象派)の2つがありました。

初期の作品は黒田清輝をはじめとする新派(明るい感覚の印象派)の影響が見られ、第4回文展(文部省美術展覧会)では劉生の作品が2点入選しました。

代々木時代:写実主義的な肖像画(例:斎藤与里氏像)

その後、武者小路実篤たちと交流するなかでポスト印象派の作家を知り、「自分が描きたいように描く」スタイルに変わります。

1913年(大正2年)に結婚して代々木に住んでいた時代は、デューラーやファン・エイクを代表とする「北方ルネサンス」の絵画に出会い、細密に描きこまれた写実的な作品に心を惹かれていきました。

1913年に描かれた斎藤与里氏像はゴッホやゴーギャン風のスタイルから写実的なスタイルへと変化していた時期の劉生の様子がよくわかります。

鵠沼時代:娘・麗子をモデルにした作品群、日本画の制作(例:麗子微笑(青果持テル))

1917年(大正6年)、神奈川県の鵠沼へ転居した岸田劉生は、娘・麗子をモデルにした作品(麗子像)を多数描きました。

1921(大正10)年、妻・蓁からの勧めで歌舞伎や文楽を観劇するようになったことがきっかけで、長唄を習い始め、浮世絵などの日本の美を探求するようになりました。
これらの経験が本格的に日本画を描くことに繋がりました。

Ryūsei Kishida, Public domain, via Wikimedia Commons

『麗子微笑(青果持テル)』は1921年に描かれ、ちょうど劉生が東洋美術に没頭し始めたころにあたる作品です。毛糸の肩掛けの編み目は細かく写実的に描かれている一方で、麗子の顔は横長に、手は小さくデフォルメされており不思議な感覚を覚えます。

京都時代:東洋美術の影響を色濃く反映した作品(例:弄脂調粉)

1923年(大正12年)、関東大震災で被災したことを機に岸田家は京都へ引越しました。

劉生は、祇園でのお茶屋遊びや古美術の蒐集に没頭しました。その成果もあり、「宋元院体画風」の作品(細密な院体花鳥画から影響を受け、絹本に淡く彩色して細かく繊細に描かれた)や、「文人画風」(自由なスタイルの絵画から影響を受けて制作され、紙本墨画淡彩で描かた)などの作品が生まれました。
『弄脂調粉』は、この時期の代表的な作品です。

岸田劉生の代表作「麗子像」:そのグロテスクさの魅力とは?

Ryūsei Kishida, Public domain, via Wikimedia Commons

「麗子像」シリーズの概要:岸田劉生が娘の麗子をモデルに描いた作品群

岸田劉生の娘・麗子は、5歳から16歳までの間に何度も作品のモデルをつとめました。
合計43作品が現在残っており、麗子に対する劉生の愛情が感じられます。
麗子像の魅力をまとめました。

グロテスクと評される理由:西洋の写実主義と東洋のデフォルメ表現の融合

麗子像の魅力は、なんといっても「西洋の写実主義」と「東洋のデフォルメ表現」が絶妙に融合した不思議な雰囲気であるといえます。

代表的な作品が、『麗子微笑(青果持テル)』(1921年)です。岸田劉生が東洋美術に惹かれ始めた頃に描かれました。

毛糸の肩掛けは編み目のひとつひとつまでリアルに描かれていますが、麗子の顔は横長に、手は小さくデフォルメされていることがわかります。
肩掛けには「西洋の写実主義」が、顔や手がデフォルメされている様子には「東洋のデフォルメ表現」が表れ、相反するふたつの方向性が同居しており、見る人をとても奇妙な感覚にさせます。

Ryūsei Kishida, Public domain, via Wikimedia Commons

同じような「西洋の写実主義」と「東洋のデフォルメ表現」は、『童女図(麗子立像)』にも見ることができます。

赤い総しぼり柄の着物はひとつひとつの柄まで綿密に描かれて重量感ある質感が伝わる一方で、切れ長の眼を強調した顔や小さくデフォルメされた手が不思議な魅力を醸し出します。

岸田劉生にとっての「麗子像」:芸術の集大成、娘への愛情表現

岸田劉生は長女・麗子の誕生を機に麗子像を多く描くようになりました。劉生の自画像を描くことが減った分、麗子像が劉生の新たな自画像となったともいえます。

麗子像は娘に対する親の愛情表現であると同時に、様々な画風や技法に挑戦する場でもありました。劉生の芸術の集大成であり、愛情の証である麗子像を見ると、劉生の人間味を感じ取ることができます。

まとめ

岸田劉生の人生を振り返ると、同時代の多くの画家が最先端の絵画を取り入れようとしたのとは対照的に、温故知新のごとく北方ルネサンスの絵画、中国の古典絵画や日本の浮世絵から学び、独自の道を進んだ孤高の姿が浮かび上がってきます。

油絵と日本画という異なるスタイルの絵画を描きながら「内なる美」を追求した岸田劉生。西洋の「徹底した写実主義」と「東洋の美」を融合させた劉生の作品は、時代を超えて多くの人々に愛され続けています。


岸田劉生の作品は、下の美術館で見ることができます。ぜひ一度ご覧くださいね。
(2点以上の作品を所蔵する美術館の一覧です)

東京国立近代美術館(東京都)
(リンク:https://www.momat.go.jp/ )

神奈川県立近代美術館(神奈川県)
(リンク: http://www.moma.pref.kanagawa.jp/ )

笠間日動美術館(茨城県)
(リンク:https://www.kasama-nichido-museum.com/ )

ウッドワン美術館(広島県)
(リンク:https://www.woodone-museum.jp/ )

メナード美術館(愛知県)
(リンク: https://museum.menard.co.jp/ )

下関市立美術館(山口県)
(リンク: https://www.city.shimonoseki.lg.jp/site/art/ )

泉屋博古館分館(東京都)
(リンク: https://sen-oku.or.jp/tokyo/ )

ポーラ美術館(神奈川県)
(リンク: https://www.polamuseum.or.jp/ )

アーティゾン美術館(東京都)
(リンク: https://www.artizon.museum/ )

天一美術館(群馬県)
(リンク: http://tenichi-museum.com/aboutus/ )

【写真9枚】岸田劉生とは|麗子像に秘めた想いとは?生涯と画風、作品の魅力を解説 を詳しく見る

田村久美子の個展「YOURSCAPE ~あなたが見るセカイ〜」南青山イロハニアートスタジオにて開催!2024.9.21(土)-9.23(月・祝)11時〜18時

中森学

中森学

  • instagram
  • twitter
  • facebook
  • note
  • homepage

セールスライター。マーケティングの観点から「アーティストが多くの人に知られるようになった背景には、何があるか?」を探るのが大好きです。わかりやすい文章を心がけ、アート初心者の方がアートにもっとハマる話題をお届けしたいと思います。SNS やブログでは「人を動かす伝え方」「資料作りのコツ」を発信。

セールスライター。マーケティングの観点から「アーティストが多くの人に知られるようになった背景には、何があるか?」を探るのが大好きです。わかりやすい文章を心がけ、アート初心者の方がアートにもっとハマる話題をお届けしたいと思います。SNS やブログでは「人を動かす伝え方」「資料作りのコツ」を発信。

中森学さんの記事一覧はこちら