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STUDY

2024.9.21

【2024年最新】ミュシャの魅力を徹底解説!最新のミュシャ展の情報も

曲線を多く使い、優雅な雰囲気が特徴のアールヌーヴォー(19世紀末~20世紀初頭)の代表的画家であるミュシャは、日本でも大人気です。

美術に詳しくなくても「ミュシャなら知っている!」という人もいるでしょう。星、宝石、花などの様々なイメージを美しい女性の姿を用いて表現するスタイルと、流麗な曲線を多用したデザインは、「ミュシャ・スタイル」として多くの人の心を捉えています。

目次

Alphonse Mucha - Poster for Victorien Sardou's Gismonda starring Sarah Bernhardt, Public domain, via Wikimedia Commons.

この記事では、最近ミュシャを知った方や、ミュシャの人生をもっと深く知りたい方に向けて「ミュシャの作品の魅力」と「ミュシャの人生」を掘り下げてまとめました。記事の最後にはミュシャの展覧会の情報も紹介します。

ミュシャの感じの色使いで、良い…
(何かの作品を見て「ミュシャっぽい」と感じた模様です。それほどまでに「ミュシャらしさ」は多くの人に定着しています)

東京都庭園美術館 竹久夢二展

夢二といえば誰もが特徴的な女性像を思い浮かべるだろう
憂いを帯びた目、S字状の艶めかしい身体、溢れるロマンチシズム...

だが実に多彩な活動をしたマルチアーティストだということを再認識した

彼は日本のミュシャだったのだ
憩い(女)

(「ミュシャ」というジャンルが確立しているような扱われ方です)

定期的に、ミュシャと仙厓を摂取しないと死ぬからもうそろそろ……美術館……しぬ……
(ミュシャの作品を何度も見たいという熱心なファンの方の声です)

挿絵画家からアール・ヌーヴォーの旗手へ!波乱に満ちたミュシャの生涯

生い立ちと画家への道 ~チェコ出身、音楽家を目指したが挫折~

アルフォンス・ミュシャ(1960年~1939年)は、19世紀末から20世初頭にパリで活躍した時期が有名ですが、チェコ出身です(当時はオーストリア帝国の支配下にありました)。

ミュシャは中学校に入り教会の聖歌隊に入りました。音楽家を目指していたのですが、15歳のとき(1875年)に声が出なくなってしまい、音楽家の道は諦めることに。

この頃、夏休みに合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど絵の才能があったことがわかっています。しかし、音楽で挫折したこともありミュシャは中学校を中退、地方裁判所で働きました。運命が違えば、「画家・ミュシャ」は現れなかったのかもしれません。

ミュシャが生まれた時代 ~自分たちの国を持てなかった~

ミュシャが生まれたチェコは、当時は多民族国家であるオーストリア帝国の一部でした。私たち日本人の立場だと「自分たちの国を持てないこと」がどのようなことかイメージしにくいのですが、「働いている会社が買収され、働きにくくなってしまった」状態と似ていると思います。

そのような背景があり、オーストリア帝国下の各民族の中には「いつか自分たちの国を持とう」という運動も起きていました。

芸術の夢を諦めず美術学校へ。何度も挫折した下積み時代

15歳で中学校を中退し、地方裁判所で働いたミュシャ。しかし、芸術の道を諦めたわけではなく17歳のときにプラハの美術アカデミーを受験しましたが、不合格でした。

ミュシャは19歳のときにウィーンに行きました。当時のウィーンはオーストリア帝国の首都だったため、日本人の感覚だと「上京」です。ミュシャは演劇の舞台装置を作るカウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房で助手として働きながら、夜間のデッサン学校に通いました。

この頃、ウィーンの社交界の中心でもあった画家ハンス・マカルトの作品に触れ、多大な影響を受けました。上京した効果の一つかもしれません。しかし、2年後の1879年にリング劇場が火事で焼失したことで工房もリストラせざるを得なくなります。ミュシャはリストラの対象となり、21歳で失業してしまいます。

22歳の1882年には、ウィーンから南モラヴィア地方のミクロフに移って地元の名士の肖像画を描くことで収入を得ていました。一度上京したものの夢破れ、出身地の隣の県に戻ったという感じでしょうか。ミュシャの下積み時代は挫折が何度も続きました。

現代の感覚だと「遅咲き」のミュシャ。20代は何をしていた?

ミュシャの名前を一躍有名にした、サラ・ベルナール主演の演劇『ジスモンダ』のポスターを書いたのは34歳のときでした。現代の感覚だと、歌手や俳優が34歳でブレイクするのは「遅咲き」だと思えるかもしれません。

20代のミュシャはどこで何をしていたのでしょうか。

1883年〜86年の間は、クーエン=ベラシ伯爵に雇われ弟のエゴン伯爵が所有するエマホフ城やガンデグ城で壁画の制作や修復作業を行いました。エゴン伯爵はミュシャのパトロンとなり、伯爵の援助でミュシャはミュンヘン美術院に入学。ミュンヘンでは「シュクレータ」の会長に任命され、アメリカのピーセック教会のために『聖ツィリルと聖メトデイ』を描きました。

1887年にはパリのアカデミー・ジュリアンに入学。1888年にはアカデミー・コラロッシに移りました(パトロンの力は偉大ですね)。1889年に伯爵からの援助が打ち切られた後は、フランスとチェコの雑誌や書籍の挿絵で生計を立てていました。

1891年、ポール・ゴーギャンと出会い、アルマン・コラン出版社との仕事が始まりました。1892年には歴史家シャルル・セニョボスの『ドイツ史の諸場面とエピソード』の挿絵を請け負い、1897年まで続きました。

20代のミュシャにとって、パトロンになってくれたエゴン伯爵との出会いはとても大きな出来事でした。エゴン伯爵の支援でパリのアカデミー・ジュリアンに入り、パリに出てくることができたのですから。そして、いよいよミュシャが大活躍する時期が訪れます。

きっかけは偶然! サラ・ベルナールのポスターで成功

Alphonse Mucha - Poster for Victorien Sardou's Gismonda starring Sarah Bernhardt - Original, Public domain, via Wikimedia Commons.

そして1894年の冬。サラ・ベルナール主演の演劇『ジスモンダ』のポスターの依頼を受けることになります。人気女優であったサラ・ベルナールの劇のポスターを、どうしてミュシャが受注できたのか? それはなんと、偶然でした。

年の瀬にポスターを急遽作る必要が出てきたのですが、主だった画家は休暇を取ってパリにいなかったため、印刷所で働いてたミュシャに依頼が回ってきたのです。そんな偶然だったなんて、信じられないですよね。

威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾が特徴のポスターは大評判となりました。おかげで演劇『ジスモンダ』も、今まで以上に大成功。この『ジスモンダ』が決定打になり、サラ・ベルナールはフランス演劇界の女王として君臨するようになりました。

ミュシャが作ったポスターによる集客の効果を実感したサラ・ベルナールはミュシャと6年間の契約を結び、その後ミュシャは『椿姫』、『メディア』、『ラ・プリュム』、『トスカ』といった、サラ・ベルナールのポスターを制作しました。

当時のポスターの「お作法」を破壊!? ~ミュシャが画期的だった点~

19世紀末のパリは、広告といえばポスターが最も一般的でした。最先端の広告・情報発信の方法といえば現代ではSNSや動画でしたが、当時はポスターだったんですね。

ジュール・シェレを筆頭に、ロートレック、ボナール、スタンラン、グラッセなど有名なポスターデザイナーが活躍していましたが、ミュシャのポスターは今までと一風違っていました。

当時の主流は、大胆な構図と原色(赤・黄・青など)の相乗効果で街を歩く人の目を惹きつけるデザインでした。特にジュール・シェレは「ポスターの父」と呼ばれるほど19世紀末のポスターデザイナーを代表する人物でした。

ミュシャの『ジスモンダ』のポスターは、今までのポスターと全く違う点が画期的と評価されました。

まず色です。原色ではなくパステル調の色が使われており、上品さ・優雅さを感じさせます。サラ・ベルナールの立ち姿からは当時主流の躍動感は感じられませんが、ステージから切り取ったような迫力を感じさせます。

“アフィショマニ”(ポスターマニア)という言葉が生まれるほどに熱気があったポスター界に、ミュシャは新風を吹き込ませました。

ミュシャの描くポスターは、祖国のチェコ、パリを中心とするヨーロッパ、日本、ビザンチン、イスラムなど多様な地域の芸術要素を溶け込ませています。

ミュシャはサラ・ベルナールの他、煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などの多くのポスターを制作しました。これらは女性と「様式化された装飾」を組み合わせている点が特徴です。

Four Seasons by Alfons Mucha, circa 1897, Public domain, via Wikimedia Commons.

この後、ミュシャはパリの美術界に大きな影響力があったラ・プリュム芸術出版社社主の
レオン・デシャンと出会ったことで人脈が拡がり、「アール・ヌーヴォーの華」といわれるほどに大きな成功をおさめました。

「新しい芸術 (フランス語表記は Art nouveau)」を意味するアール・ヌーヴォーは、花や植物などの有機的なモチーフを使ったり、自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾をしたりする点が特徴です(まさに、ミュシャの作風そのものですね)。


ミュシャの幼少期から青年期にかけての素描画で、既に流麗な描線による日常と空想世界の描写を行っていました。これはのちに手がけるイラストやポスターの印刷に使われたリトグラフという印刷技術と相性が良かったのです。偶然ですが「時代にぴったり合っていた」と言えるでしょう。

その後のミュシャの活躍ぶりを簡単にまとめると、以下のようになります。

1897年に『ジュルナル・デ・ザルティスト』誌主催の個展を開催し、同年6月にはサロン・デ・サンで2回目の個展を開催。その後、1898年春にはスペインとバルカン半島へ調査旅行に出かけ、ウィーン分離派協会に参加。

1899年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の壁画制作のため現地調査を行い、1900年のパリ万国博覧会で銀賞を受賞。1900年にはオーストリア館やシャン・ド・マルスで作品を展示し、フランツ・ヨーゼフ1世勲爵士に任ぜられる。

1901年にはジョルジュ・フーケの店の装飾を手がけ、レジオン・ドヌール勲章を受章。
1902年にはチェコを旅行し、『装飾資料集』を出版。1903年にマルシュカ・ヒティロヴァーと出会い、国民劇場の舞台装置も手がける。

1904年にはアメリカに招かれ肖像画を描き、1905年には再度アメリカを訪問。1906年春にニューヨークで展覧会を開き、6月にマルシュカと結婚。秋にはアメリカに渡りシカゴ美術研究所で教鞭を執りながら展覧会を開催。

パリに留まるどころか、アメリカでも活躍するなど、大成功をおさめました。

ミュシャの活動後期 ~祖国チェコへの想い~

ミュシャの画家人生の後半は、パリ・アメリカ・チェコの3ヶ所を中心に展開します。
スラブ民族の物語を絵で表現する『スラブ叙事詩』を描こうと思い立ったことと、親スラブ主義者であるチャールズ・R・クレインから資金の援助を得られたことが実現できた原因です。

この時期の主な活動は、以下の通りです。

ミュシャは1904年5月、アメリカに招かれ、富裕層のために肖像画を描くことでチェコでの作品制作の資金を得る計画を立てました。
1907年には南スラブ協会「ラダ」を設立。ルーマニア皇帝から最高勲爵士の称号を授与されました。

1908年秋にはニューヨークのドイツ劇場の新しい建物の装飾を手がけました。
1909年、長女ヤロスラブァがニューヨークで誕生。夏にはモラヴィア地方に滞在して『スラブ叙事詩』のための最初の木炭デッサンを制作しました。
また、アメリカ・スラブ協会を設立し、親スラブ主義者チャールズ・R・クレインから『スラブ叙事詩』の制作資金を援助してもらえることになりました。

1910年には西ボヘミアのズビロフ城の一部をアトリエと住居として18年間借りる契約を結び、活動の拠点をチェコに移しました。(1913年までは定期的にパリに滞在)
同年、プラハ市民会館市長ホールの装飾を手がけました。

1918年にはチェコスロヴァキア共和国の建国に伴い、最初の切手、紙幣、国章のデザインを手がけました。
1919年には『スラブ叙事詩』の最初の11点がプラハで展示。1920年から1922年にかけてアメリカを周り、シカゴ美術研究所とブルックリン美術館で『スラブ叙事詩』の5点が展示されました。60万人が訪れたといわれています。

1928年にクレインと共に、『スラブ叙事詩』20点をチェコ国民とプラハ市に寄贈することを発表。作品はプラハの見本市宮殿で展示されました。1931年にはプラハ城の聖ヴィート大聖堂に新設された大司教礼拝堂のステンドグラスを制作し、ミュシャがデザインした50コルナ紙幣が発行されました。

1936年にはフランチシェク・クプカとの回顧展をパリのジュ・ド・ポム美術館で開催、これが最後のパリ滞在となりました。また、著書『人生と創作についての三つの発言』を執筆しました。

商業美術の成功から一転、祖国チェコへの帰国し『スラブ叙事詩』を制作

ミュシャは50歳のときに祖国チェコに戻りました。その時、他の民族に長い間支配されたスラブ民族の歴史や、その結果として貧しさを抱えた人々の姿に直面して「スラブ民族の誇り」をテーマにした『スラブ叙事詩』を描くことを決めました。


資金については、当初はアメリカをはじめとする富裕層のために肖像画を描くことで必要な資金を得ようと考えていました。

アメリカ・スラブ協会を設立したことがきっかけとなり、親スラブ主義者であるチャールズ・R・クレインから『スラブ叙事詩』の制作資金を援助してもらえることになりました。
そこから18年かけ、20 枚にも渡る大作『スラブ叙事詩』の制作に打ち込みました。『スラブ叙事詩』は現在も多くの人々に愛され続けています。

1918年にオーストリア帝国が崩壊し、スラブ民族による独立国家チェコスロバキアが成立すると、ミュシャは新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを行いました。
国ができたばかりで財政難であることに配慮し、報酬は受け取りませんでした。

『スラブ叙事詩』をミュシャが描いた理由 ~込められた民族への想い~

Alfons mucha, moët et chandon, 1899 (richard fuxa fundation) 02,1.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

ミュシャはなぜ『スラブ叙事詩』を描こうと思ったのでしょうか。それは、当時のチェコがオーストリア帝国の支配下であったことが大きく影響しています。

当時のチェコは、多民族国家であるオーストリア帝国の一部でした。私たち日本人の立場だと「自分たちの国を持てないこと」がどのようなことかイメージしにくいのですが、「働いている会社が買収され、働きにくくなってしまった」状態と似ていると思います。

チェコ人はスラブ民族の一部なのですが、自分たちの国を持てずオーストリア帝国に支配されている状態は、苦しいとか辛いなどでは表現できないほど大変なものです。
スラブ民族の歴史を絵で表現することで誇りを取り戻したいという気持ちで、ミュシャは『スラブ叙事詩』を描いたのです。

なお、ミュシャにとって想定外だったのは、『スラブ叙事詩』を描き始めて8年後の1918年にオーストリア帝国が崩壊したことです。チェコ人は同じスラブ民族のスロバキア人と共にチェコスロバキアとして独立しました。

ミュシャの晩年、黙殺と再評価

1939年3月、ナチス・ドイツがチェコスロヴァキアを支配しました。ドイツ軍によりミュシャは「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由で逮捕されたのです。
ナチスはミュシャを厳しく尋問し、78歳の彼にはこれが大きな負担になりました。短期間で釈放されたのですが、4ヶ月後の1939年7月に体調を崩しミュシャはその生涯を閉じました。

戦後に成立した共産党政権は、ミュシャと民衆の愛国心が結びついて反政府活動に繋がるのを恐れて彼の存在を黙殺しました。
しかし、民衆の中でミュシャへの敬愛は生き続け、国民に一部の自由が認められた「プラハの春」翌年の1969年には、ミュシャの絵画がプリントされた記念切手数種が発行されました。

世界の流れに目を向けると、第二次世界大戦後のモダニズムからの揺り戻しとしてアール・ヌーヴォーが1960年代以降に再評価される際に、改めて高い評価を受けて今に至ります。現在ではチェコを代表する国民的画家として知られています。

ミュシャ芸術の魅力を堪能!代表作を通して紐解く、その特徴と見どころ

Poster by Alphonse Mucha, created for The Slav Epic exhibition of 1930.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

ミュシャの代表的な作品といえば、『ジスモンダ』のポスター、『四季』の装飾パネル、そして『スラブ叙事詩』が挙げられます。ここでは、それぞれの作品の魅力や背景を解説します。

『ジスモンダ』のポスター

ミュシャの出世作であり、代表作でもあるサラ・ベルナール主演の演劇『ジスモンダ』のポスターは、他の画家が作っていた可能性が高かったのでした。

年の瀬にポスターを急遽作る必要が出てきたのですが、主だった画家は休暇を取ってパリにいなかったため、印刷所で働いてたミュシャに依頼が回ってきたのです。

スポーツ大会に補欠選手として参加する予定だったのが、レギュラーメンバーがケガをしたため出番が回ってきて、なんと優勝してしまうような偶然さです。

『ジスモンダ』のポスターは、次の4つの特徴が挙げられます。
●ビザンティン様式
●色彩を抑えた
●タイトル文字の入れ方
●華やかな虹のアーチ


●ビザンティン様式
この作品はミュシャの特徴の一つであるビザンティン様式を取り入れています。ミュシャといえばアール・ヌーヴォー様式と思われる方が多いと思いますが、初期の作品はアール・ヌーヴォー様式というよりは、モザイクに代表されるビザンティン様式の要素が多く表れています。

とはいえ、アール・ヌーヴォー様式の特徴である「花や植物などの有機的なモチーフを使う点」、自由曲線の組み合わせによる「従来の様式に囚われない装飾」をしたりする点も、『ジスモンダ』のポスターの中に見ることができます。


●色彩を抑えた
『ジスモンダ』のポスターは、下絵では当時の主流であった赤や黄色などの原色を使っていました。しかし、完成したポスターは色彩を抑えて、受難劇にふさわしい重厚で伝統的な雰囲気を感じさせています。

当時の典型的なポスターは鮮やかな色彩や動きのある構図が特徴でしたが、ミュシャは繊細なパステルカラーを使ったことで新しさを感じさせました。


●タイトル文字の入れ方
ポスターに描かれた主人公ジスモンダ(サラ・ベルナール)は、目をわずかに上向けてナツメヤシを見ています。

ポスターを見る人は、サラの横顔から視線の方向に導かれナツメヤシの葉をたどって上に向かい、アーチに沿ってタイトルの「GISMONDA」と「(SARAH)BERNHARDT」の名前を読みます。その後、肩から衣装の流れをたどって斜めに左下に向かい、劇場名の「THEATRE DE LA RENAISSANCE」を知ります。

サラのポーズや衣装の端の垂れ下がった部分が目線を巧みに誘導して注目させ、「劇のタイトル」「俳優名」「劇場名」を自然と覚えさせ巧みな工夫がなされています。


●華やかな虹のアーチ
このポスターの革新的な部分の1つは、頭の後ろに描かれている華やかな虹色のアーチです。このアーチはミュシャの特徴となり、以後の彼の演劇ポスターすべてに描かれるようになりました。

装飾パネル『四季』

Four Seasons by Alfons Mucha, circa 1896, Public domain, via Wikimedia Commons.

装飾パネルとは、ポスターから宣伝の要素となるような文字を抜いたものです。現代の日本人の感覚だと「商業的なポスターと、芸術的な絵画の中間」みたいな位置づけかもしれません。

『四季』は4枚で構成されています。春夏秋冬それぞれを、擬人化した女性のポーズと衣装やしぐさで季節感を表現しています。
(髪の色と花のティアラも、季節にあわせて変化させていることに注目です)

春の図では、金髪の女性が青い枝と自らの髪の毛で竪琴を作り、それを小鳥たちが眺めている「無垢な春」を描いています。花に囲まれて小鳥たちと歌い交わしています。

夏の図は、茶褐色の髪の女性が水に足を浸して涼んでいる「情熱的な夏」を表現しています。もの憂げで官能的なポーズと視線が特徴です。

秋の図は、赤い髪の女性がブドウを収穫している「実りの多い秋」がテーマです。金色に輝く実りの葡萄と菊を飾っています。

冬の図は、茶色の髪の女性が凍えた鳥を手に包んで暖めている「霜のおりた冬」を描いています。雪をかぶった木の描写には日本美術の表現が見られ、縦長の絵を4枚または2枚並べるスタイルも日本の屏風に似ています。

冬といっても冬の始まりから終わりまで幅がありますが、ここでは冬から春へ移りゆく季節を描いており、1年が連続するものとして描かれている様子を見ることができます。

『スラブ叙事詩』

Apotheosis of the Slavs history - Alfons Mucha, Public domain, via Wikimedia Commons.

『スラブ叙事詩』は、チェコおよびスラブ民族の伝承・スラブ神話および歴史を描いたシリーズ作品です。「絵画でつづる叙事詩のような作品」というような意味が込められています。

「制作期間の長さ」(1910年~1928年までの18年)、「題材の壮大さ」(チェコおよびスラブ民族の伝承・スラブ神話および歴史)、巨大な「サイズ」、「制作の目的」(チェコ国民が自国の歴史と向きあうための絵画を制作する)など、どれをとってもスケールの大きさに驚かされます。

ミュシャが『スラブ叙事詩』の制作を決意したのは、長い間国外にいたからだといえます。オーストリア帝国に支配されていたチェコの様子と、ミュシャが暮らしていたパリやアメリカを比較することで「国民のひとりひとりが未来に確かな希望を持つためには、自分たちの歴史と向きうための絵画作品が必要だ」と気づけたのだといえます。

ポスターの力で演劇や商品の売上が大きく変わる様子を見て、「目から心に直接はたらきかける絵画には音楽や文学よりも人々の知性と感情に訴える力がある」と、ミュシャが確信するのも確かだと思います。

『スラブ叙事詩』を見ると、巨大なサイズに驚きます。また、「アールヌーヴォーの華」といわれた典型的なミュシャらしさもあまり感じられません。

『スラブ叙事詩』はミュシャにとって何だったのでしょうか。ミュシャは『スラブ叙事詩』を通じて「未来の希望」を描こうとしていたのかもしれません。

実は、作品全部が完成したときは、チェコスロバキア共和国が独立してから10年が経っていました。当時のチェコスロヴァキア共和国は幸せな時代だったため、未来への希望を描いた『スラブ叙事詩』 は、時代遅れのお荷物になってしまっていたのです。

しかし、戦争と核の脅威、またテロや経済不況、気候変動など、先の見えない現代では『スラブ叙事詩』 の「未来への希望」というメッセージが見直されてきています。
人類に共通するテーマだという認識が広まり、世界中で再評価がされています。

ここを押さえれば完璧! ミュシャの作品に共通する3つの要素

女性像

「ミュシャスタイル」といえば、星、宝石、花などの様々なイメージを美しい女性の姿を用いて表現するスタイルと、流麗な曲線が特徴的です。優美で神秘的な点が、いまも多くの人の心を惹きつけています。

柔らかな印象の女性たちですが、時にはどこか悲し気な表情に見えることも。まっすぐと正面を見つめる女性は、やさしさとたくましさを兼ね備えています。いわゆる前時代的な「女性らしさ」を表現するだけではなく、時代の変化のなかで芽生えた女性自身の意志の強さがこめられているのかもしれません。

曲線と装飾

ミュシャが活躍した時代は、アール・ヌーヴォーの絶頂期でした。アール・ヌーヴォーは「新しい芸術 (フランス語表記は Art nouveau)」を意味し、花や植物などの有機的なモチーフを使ったり、自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾をしたりする点が特徴です。

アール・ヌーヴォーは絵画に留まらず、彫刻や建築、ファッションなど幅広く及びました。このあと芸術のトレンドは幾何学模様を多く使ったアール・デコに移り変わりますが、アール・ヌーヴォーの様式は時代を超えて愛されています。

色使い

パステル調の色使いで明るく華やかなミュシャの絵は、原色を使いインパクトある印象を重視する当時のポスターの主流と違っていた点が「新鮮・新風」と受け止められました。

このような淡く絶妙な色使いと、流麗な描線はリトグラフという印刷技術と相性がとても良かったのです。

2024年開催のミュシャ展情報!見どころを解説【全国巡回情報あり】

神奈川県 茅ヶ崎市

2024年6月18日(火)~8月25日(日)
アルフォンス・ミュシャ展 アール・ヌーヴォーの美しきミューズ(茅ヶ崎市美術館)

装飾パネルをはじめ、デザイン集、ポストカード、切手、紙幣、商品パッケージなど多様な作品を展示することで、ミュシャの生涯に迫ります。

大阪府 堺市

2024年8月3日(土)〜2024年12月1日(日)
アフィショマニ!ミュシャマニ!集めて、愛でて、語り合う 19世紀末パリのポスター収集熱(堺アルフォンス・ミュシャ館)

今もなお “収集欲”を掻き立てられる19世紀末パリのポスター文化に浸れる展覧会。
「収集」という側面から、ポスターが新たな芸術として価値を高めた様相を浮かびあがらせる試みです。

東京都 府中市

2024年9月21日(土)~2024年12月1日(日)
市制施行70周年記念 アルフォンス・ミュシャ展(府中市美術館)

版画、油彩画に、貴重な下絵なども交えながら、ミュシャ最大の魅力である造形の力を紐解きます。

東京都 渋谷区

2024年12月3日(火)~2025年1月19日(日)
永遠のミュシャ(ヒカリエホール 渋谷ヒカリエ9F)

グラン・パレ・イマーシブとミュシャ財団が、パリで2023年に開催したイマーシブ展覧会「Éternel Mucha」を日本向けにアレンジ。感覚の没入体験型展覧会。

【初心者必見】ミュシャ展をもっと楽しむポイントを紹介!

ミュシャ作品を鑑賞するポイント

アート作品を鑑賞するとき、「こう解釈しなければいけない」という決まりごとはありません。全体を眺めて優雅な雰囲気を味わうのもよし、細かな部分に目を向け観察するのもよし、楽しみ方は人それぞれです。


ただ、次のような知識があるとミュシャの作品をもっと楽しめます。

●花や植物などのモチーフを多く使ったり、自由で優美な曲線を使うなど、アール・ヌーヴォー様式をミュシャが体現していたこと

●ミュシャがパリのポスター界において、それまでと違う作風をもって登場したこと

●ミュシャはパリで活躍したが、出身はチェコで故郷に貢献したい気持ちをもっていたこと

女性像の表情やポーズ、装飾の細部、色彩の美しさに注目

装飾パネル『四季』が最もわかりやすい例です。春夏秋冬それぞれを、擬人化した女性のポーズと衣装やしぐさで季節感を表現しており、細かなところまで気持ちを込めて表現している様子をぜひ味わいたいものです。

関連書籍やグッズ

ミュシャの画集・解説書などの書籍や、クリアファイルなどのグッズは多くの展覧会で販売されているほか、通販でも購入できます。

ミュシャの作品を多く所蔵し、常設展示をしている堺 アルフォンス・ミュシャ館では、ミュシャの書籍やオリジナルグッズ(クリアファイル、一筆箋、マグネットなど)が販売されています。
堺 アルフォンス・ミュシャ館

このうち、書籍『ミュシャのすべて』は、ネットでも購入できます。人気の商業ポスター、装飾パネルから、挿絵、工芸デザイン、油彩画まで、ミュシャの全生涯における作品180点を見ることができます。

※リンク先はAmazonの書籍購入ページです。
ミュシャのすべて

ミュシャの作品はここで見ることができる!

ミュシャは非常に人気があり、毎年日本のどこかで展覧会が開催されるほどです。

常設展示で有名なのは、大阪府堺市にある堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館です。
堺市が所有し、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館で一部が展示されている「ドイ・コレクション」は世界の中でも充実したコレクションだということで有名です。

カメラ店の創業者である土居君雄が、カメラの買い付けや商談でヨーロッパを訪れた度に買い集めたコレクションです。ミュシャ子息のジリ・ミュシャとも親交があり、彼の仲介の効果もあり、コレクションの中核が築かれました。
堺 アルフォンス・ミュシャ館

時代を超えて愛されるミュシャ芸術に触れてみよう

ミュシャは故郷のチェコからパリに出てきて、当時のポスターに新しい風を吹き込んだのちにアール・ヌーヴォー様式を代表する存在となりました。

ミュシャ様式は、特定の美術運動や芸術理論から生まれたわけではなく、ミュシャがウィーン、ミュンヘン、そしてパリという国際文化都市で積んだ修業が自然に花開いたものでした。

今回の記事でミュシャの魅力を改めて知った方や、初めて知った方には、美術館に足を運んだりミュシャに関する書籍を読んだりするなど、「さらなるミュシャ探検」をおすすめします。

【写真7枚】【2024年最新】ミュシャの魅力を徹底解説!最新のミュシャ展の情報も を詳しく見る
中森学

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セールスライター。マーケティングの観点から「アーティストが多くの人に知られるようになった背景には、何があるか?」を探るのが大好きです。わかりやすい文章を心がけ、アート初心者の方がアートにもっとハマる話題をお届けしたいと思います。SNS やブログでは「人を動かす伝え方」「資料作りのコツ」を発信。

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