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STUDY

2024.12.30

【スラヴ叙事詩】ミュシャが描いたスラヴ民族の希望と独立の物語

アール・ヌーヴォーを代表するチェコの画家アルフォンス・ミュシャ。そのキャリアを前半と後半に分けると、前半のハイライトは、パリでのサラ・ベルナールとのコラボレーションなどによる一連のポスター制作です。そして後半を象徴するのが、20点の巨大な連作絵画《スラヴ叙事詩》でした。

目次

ヴェレトゥルジュニー宮殿における展示(2013年), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons.

ミュシャが《スラヴ叙事詩》の制作に着手したのは1910年頃のことで、最初の作品「スラヴ人の故郷」が完成したのは1912年、最後の作品「神格化:人類のためのスラヴ人」が完成したのは1926年です。この壮大な連作絵画の完成には、約16年を要しました。そして、チェコスロバキア独立10周年を迎えた1928年、プラハのヴェレトゥルジュニー宮殿で全作品が初公開されました。

なぜ《スラヴ叙事詩》を描いたのか?

ミュシャが生まれた19世紀後半は、東欧や北欧でナショナリズムの機運が高まる時代でした。支配国の文化や言語に対する反動として、民族のアイデンティティを模索する動きが活発化したのです。

一方、西ヨーロッパでは、産業革命による都市化と市民社会の成熟が進み、美術もアカデミズムから脱却して「アール・ヌーヴォー」が広がっていました。特に小国では、ナショナリズムと結びついた「ナショナル・スタイル」や「ナショナル・ロマンティシズム」が展開されました。

ミュシャの故郷モラヴィアを含むオーストリア=ハンガリー帝国では、1867年のアウスグライヒ(妥協)によってハンガリーが自治権を獲得し、民俗文化を取り入れたアール・ヌーヴォー建築が誕生しました。

また、1851年に始まった万国博覧会は、特に1900年のパリ万博でアール・ヌーヴォーの全盛期を迎えます。この万博で、オーストリア=ハンガリー帝国が自国の魅力を発信するため、当時パリで評価されていたミュシャに制作を依頼したのは当然の成り行きでした。

パリ万博とミュシャの転機

ミュシャはオーストリア館のポスターや公式カタログの表紙デザイン、書籍『主の祈り』、彫像《ラ・ナチュール》、宝飾家ジョルジュ・フーケとのコラボレーション作品など、多岐にわたる作品を手掛けました。中でも注目されたのが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の壁画制作でした。

この壁画は高い評価を受け、ミュシャにとって重要な転機となりました。彼はこの経験を通じて、スラヴ民族の歴史を描くことを自らの使命と考えるようになります。

私は再び歴史画を描いていた。しかし今回はドイツのためではなく、同胞であるスラヴ民族のためだった。歴史上の輝かしい出来事や悲劇を描きながら、私は全スラヴ民族の喜びや悲しみを強く感じた。
そして南スラヴの壁画を制作しているうちに、後に《スラヴ叙事詩》となる大作を創り上げる決意を固めた。燃えるような理想と啓示を通じて、全ての人々の魂に偉大な栄光を輝かせようと思った。
– アルフォンス・ミュシャ

ジリ・ミュシャ『アルフォンス・マリア・ミュシャ 生涯と芸術』より

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の壁画は、スラヴ文化を紹介する唯一の展示であり、ハプスブルク帝国が施政下に置いた地域の歴史や文化、自然資源を紹介するものでした。ミュシャは具象的で壮大な壁画を描き、外国支配に苦しむ人々の悲哀を力強く表現しました。この経験が、後の《スラヴ叙事詩》に結実することになっていきます。

資金集めとチャールズ・R・クレインとの出会い

大作『スラヴ叙事詩』を制作するミュシャ(1920), Public domain, via Wikimedia Commons.

《スラヴ叙事詩》制作の資金を調達するため、ミュシャは1904年にアメリカに渡りました。ニューヨークやシカゴで講演を行い、肖像画を制作するなどして資金を集めようとしましたが、成果は芳しくありませんでした。その後、チェコ系移民を支援していた富豪チャールズ・R・クレインと出会い、クレインの支援を受けてプロジェクトを進めることに。

二人は、連作の半分をチェコの歴史、残りの半分をスラヴ民族の文化や重要な出来事に捧げることで一致し、作品はスラヴ民族の団結とアイデンティティを描く壮大な叙事詩となりました。

チェコの歴史の背景

チェコの歴史は、古代ケルト人の居住、スラヴ人の定住、大モラヴィア王国の建国、そしてプシェミスル家によるボヘミア王国の成立など、波乱に満ちています。ヤン・フスの宗教改革やフス戦争、ハプスブルク家による支配を経て、チェコスロバキア共和国として独立したチェコの歴史を背景に、《スラヴ叙事詩》は制作されました。

この連作は、スラヴ民族の苦難と復興、団結を描いたミュシャの生涯の集大成ともいえる作品となりました。

ミュシャが描いた《スラヴ叙事詩》の各シーンを巡る

1. 原故郷のスラヴ民族(3~6世紀)
ー トゥーラニア族の鞭とゴート族の剣の間に(1912年制作)

スラヴ民族の故郷:トゥラニア人の鞭とゴート族の剣の間, Slovane v pravlasti 81x61m, Public domain, via Wikimedia Commons.

スラヴ民族は自然豊かな地に暮らしていましたが、他国の侵略に苦しめられました。村を焼かれ家畜を奪われる日々の中、森に隠れる家族が未来の平和を願っています。戦争と平和を象徴する若者や司祭の姿が、民族の希望を暗示しています。

2. ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭(8~10世紀)
ー 神々が戦いにあるとき、救済は諸芸術の中にある(1912年制作)

ルジャナにおけるスヴァントヴィトの祭典:神々が戦うとき、救いは芸術にある, Slavnost svatovitova na rujane, Public domain, via Wikimedia Commons.

スラヴの神を祀る神殿で収穫祭を祝う人々と、街を襲う危機が描かれています。子どもを抱えた母親の悲痛な表情が、未来の不安を象徴しています。この作品は、スラヴ文化の栄光と衰退を表しています。

3. スラヴ式典礼の導入(9世紀)
ー 汝の母国語で主をたたえよ(1912年制作)

スラブ語典礼の導入, Zavedeni slovanske liturgie na velke morave, Public domain, via Wikimedia Commons.

ドイツの宣教師によるスラヴ語排除に対抗し、キュリロスとメトディオスが聖書をスラヴ語に翻訳します。民族の言語と文化を守ったこの功績が、民族の団結を象徴しています。左手前の輪を手にする若者で、「団結こそ力なり」を意味しています。

4. ブルガリア皇帝シメオン1世(10世紀)
ー スラヴ文学の明けの明星(1923年制作)

ブルガリア王シメオン:スラヴ文学の暁星, Car Simeon Bulharsky - Alfons Mucha, Public domain, via Wikimedia Commons.

追放されたスラヴ語学者たちを助け、文学や文化を支援した皇帝シメオンが描かれています。背景のビザンチン様式のフレスコ画が、知性と高貴さを表現しています。

5. ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世(13世紀)
ー スラヴ王族の統一(1924年制作)

ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世:スラブ王朝連合, Premysl otakar ii kral zelezny a zlaty, Public domain, via Wikimedia Commons.

軍事的才能で「鉄の王」と呼ばれたオタカル2世が、スラヴの君主たちを結びつける場面を描いています。豪華な結婚式の中で手を取り合う王たちが、平和の象徴として描かれています。

6. 東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン(14世紀)
ー スラヴ法典(1923年制作)

スラヴ叙事詩 - セルビア王ステファン・ドゥシャンの東ローマ皇帝戴冠式, Coronation of Emperor Dušan, in "The Slavonic Epic" (1926), Public domain, via Wikimedia Commons.

セルビアの皇帝ドゥシャンが新たな法典を定め、国を強くした時代が描かれています。行列の先頭にいる少女たちは、若い世代が理想を受け継ぐ姿を表しています。

7. クロムェジーシュのヤン・ミリーチ(14世紀)
ー 「言葉の魔力」娼館を修道院に改装する(1916年制作)

クロムニェジーシュのヤン・ミリチ:売春宿を修道院に改築, Jan milic z kromerize, Public domain, via Wikimedia Commons.

ヤン・ミリーチが社会の悪を改め、悔い改めた人々のために修道院を設立した場面です。新しい道を見つけた人々の姿が、純潔と希望を象徴しています。

8. グルンヴァルトの戦いの後(1419年)
ー 北スラヴ民族の連帯(1924年制作)

「グルンヴァルトの戦い」の後 - アルフォンス・ミュシャ, After the Battle of Grunwald - Alfons Mucha, Public domain, via Wikimedia Commons.

ポーランドやリトアニアの連合軍がドイツ騎士団に勝利した後の戦場の光景が描かれています。勝利の喜びよりも、犠牲の大きさに深い悲しみを抱く王の姿が印象的です。

9. ベツヘルム礼拝堂で説教するヤン・フス師(1412年)
ー 「言葉の魔力」真理は打ち勝つ(1916年制作)

ミュシャの連作『スラヴ叙事詩』第8作:ベツレヘム礼拝堂で説教するマスター・ヤン・フス:真実は勝つ(1916年), Kazani mistra jana husa v kapli betlemske 81x61m, Public domain, via Wikimedia Commons.

ヤン・フスがカトリック教会の腐敗を批判し、人々に真実を説く場面です。聴衆の中には、後の軍事指導者ヤン・ジシュカの姿も描かれ、フスの教えが新たな運動を生むことを予感させます。

10. クジーシュキでの集会(1419年)
ー 「言葉の魔力」ウトラキスト派(1916年制作)

ミュシャの『スラヴ叙事詩』連作 第9作:クリシュキの集い:真下にて(1916年), Mucha Na Krizku, Public domain, via Wikimedia Commons.

ヤン・フスの死後、カトリック教会への反発が強まり、フスの信奉者たちは反乱の準備を進めました。クジーシュキで説教者コランダが信徒に武器を取るよう呼びかける場面が描かれ、暗い空で戦争の悲劇を暗示しています。

11. ヴィトーコフ山の戦いの後(1420年)
ー 神は力でなく、真理を体現する(1923年制作)

ミュシャの『スラヴ叙事詩』第11作:ヴィトコフの戦いの後:神は真実を、権力を表す(1923年), Po bitvě na Vítkově, Public domain, via Wikimedia Commons.

フス派がジギスムント王を撃退した戦いの後、勝利を祝うミサが行われています。リーダーのヤン・ジシュカが、征服した武器を足元に立つ姿が描かれています。

12. ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー(1433年)
ー 悪に悪で報いるな(1918年制作)

ヴォドナニでのペトル・チェルチチキー:悪をもって悪に報いず, Petr chelcicky, Public domain, via Wikimedia Commons.

戦争の犠牲者たちを前に、平和主義者ペトル・チェルチツキーが、復讐に屈しないよう説いています。戦争の無意味さと平和への願いが込められています。

13. フス派の王、ボジェブラディとクンシュタートのイジー(1462年)
ー 権威を求める争い、民主政の国王イジーと神政のローマ(1923年制作)

ミュシャの連作『スラヴ叙事詩』第13作:フス派王ジシュカ:条約は遵守されるべきである(1923年), Mucha Jiri z Podebrad, Public domain, via Wikimedia Commons.

チェコ出身の王イジーが、教皇との対立の中で自国の宗教を守る姿を描いています。彼の強い意志と反抗が、民族の誇りを象徴しています。

14. ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛(1566年)
ー キリスト教世界の盾(1914年制作)

ミュシャの『スラヴ叙事詩』第14作:ニコラス・ジレンスキーによる「シゲトのトルコ人に対する防衛」:キリスト教世界の盾(1914年), Mucha defense of Szigetvar, Public domain, via Wikimedia Commons.

トルコ軍の侵攻を食い止めるため、ズリンスキー夫人が街を犠牲にして戦う姿が描かれています。燃える街が、彼女の決意の強さを物語ります。

15. イヴァンチツェの兄弟団学校(1578年)
ー クラリツェ聖書の印刷(1914年制作)

ミュシャの『スラヴ叙事詩』第15作:イヴァンチツェのクラリツェにおける聖書の印刷:神は私たちに言語という贈り物を与えた(1914年), Mucha Skola Ivancice, Public domain, via Wikimedia Commons.

兄弟団がチェコ語で聖書を印刷する場面が描かれています。彼らは教育を信仰の基盤とし、チェコ語の復興に貢献しました。この作品は、学びの力とチェコ文化の存続を象徴しています。

16. ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々(1670年)
ー 希望の明滅(1918年制作)

ミュシャの『スラヴ叙事詩』連作 第16作:ヤン・アモス・コメンスキー:希望の光(1918年), Mucha Komenius, Public domain, via Wikimedia Commons.

亡命者ヤン・アモス・コメンスキーが異国の地で亡くなる場面が描かれています。周囲の信者たちは悲しみに暮れながらも希望を失わず、小さなランプが祖国への帰還を願う光を象徴しています。

17. 聖アトス山(18世紀)
ー 正教会のヴァティカン(1926年制作)

ミュシャの『スラヴ叙事詩』第17作:聖なるアトス山:最古の正教文学の宝物を守る(1926年), Mucha, Alfons - Der Heilige Berg Athos - 1926, Public domain, via Wikimedia Commons.

アトス山を巡礼するスラヴ人たちが描かれています。巡礼者たちは聖遺物を授ける高僧たちに向かい、深い信仰心を示しています。天使や聖母マリアがスラヴの宗教的伝統と希望を象徴しています。

18. スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い(19世紀)
ー スラヴ民族復興(1926年制作 未完成)

スラブの菩提樹の下でのオムラディナの誓い, Mucha Omladina, Public domain, via Wikimedia Commons.

チェコの若者たちが菩提樹の下で未来を誓う場面が描かれています。手をつないで女神スラヴィアに忠誠を誓う姿が、チェコ民族の復興と団結の象徴となっています。背景にはチェコの伝統を示す人々が描かれています。

19. ロシアの農奴制廃止(1861年)
ー 自由な労働は国家の礎(1914年制作)

ミュシャの『スラヴ叙事詩』第19番:ロシアにおける農奴制廃止:自由労働は国家の礎(1914年), Mucha Zruseni nevolnictvi, Public domain, via Wikimedia Commons.

ロシアの農民が、自由を与えられながらも未来への不安を抱く姿が描かれています。霧の中にある聖ワシリイ大聖堂が、時代の不確実さを表しています。

20. スラヴ民族の讃歌(1918年)
ー スラヴ民族は人類のために(1926年制作)

ミュシャの『スラヴ叙事詩』第20作:スラヴ人の神格化、人類のためのスラヴ人(1926年), Mucha Apoteoza, Public domain, via Wikimedia Commons.

シリーズの最終作で、スラヴの歴史全体をまとめています。自由と独立を手にしたスラヴの新時代が、明るい光とともに描かれています。

時代の変化が《スラヴ叙事詩》にもたらした試練

《スラヴ叙事詩》は完成当時、必ずしも歓迎されたわけではありませんでした。ミュシャは1909年に、連作を7年以内に完成させる計画を立てていました。

しかし、資料調査や現地訪問、写真撮影、習作制作に多くの時間を費やしたこと、さらに第一次世界大戦やチェコスロバキアの独立が重なり、完成までに16年を要しました。ミュシャは66歳になるまで足場に上りながら、1日最大10時間もの作業を続けて、この壮大な作品を完成させました。

しかし、完成した《スラヴ叙事詩》がプラハ市に譲渡された頃、新しい国はすでに民主主義と自由を手にしており、社会状況は変化していました。そのため、スラヴ民族の連帯や独立への戦いを寓意的に描いた作品は時代錯誤とみなされ、美術専門家たちからは冷淡に受け止められました。

プラハ市は専用展示場の建設を約束していたものの、この時代には抽象美術やシュルレアリスムといった前衛芸術が注目されており、文化人たちはモダン・アートの展示施設を優先すべきだと主張しました。このような状況下で、《スラヴ叙事詩》は十分な評価を得ることができなかったのです。

ミュシャの遺産《スラヴ叙事詩》、展示の変遷と今後の計画

《スラヴ叙事詩》は1928年、チェコスロバキア独立10周年を記念してプラハのヴェレトゥルジュニー宮殿(現・国立ギャラリーの一部)で初めて全作品が公開されました。その後、プラハ市が所有することになりましたが、専用の展示施設が確保されず、長い間適切な形での展示が行われない状況が続きました。

1950年代以降、作品は保存のためにチェコ南部の小都市モラフスキー・クルムロフに移され、同地の城で保管・展示されました。2000年代にはプラハ市が《スラヴ叙事詩》を再び引き取り、専用展示施設を設置する計画が進められましたが、これが実現するまでの間、作品は国立ギャラリーで一時的に展示されるにとどまりました。

2017年には、日本の国立新美術館で全20点が展示され、チェコ国外で初めて全作品が公開されました。この展示は世界的に注目を集め、ミュシャの代表作としての評価をさらに高めました。

現在、《スラヴ叙事詩》は再びモラフスキー・クルムロフに戻され、専用展示施設が完成するまで暫定的に同地の城で展示されています。2026年には、プラハ中心部の再開発プロジェクト「サヴァラン」において、《スラヴ叙事詩》専用の展示施設が完成する予定です。

この施設は、著名なデザイナー、トーマス・ヘザウィック率いるヘザウィック・スタジオが設計を手掛け、同プロジェクトの中核として位置づけられることになっています。

装飾美術を超えたミュシャの代表作《スラヴ叙事詩》

完成後、過小評価を受けていた《スラヴ叙事詩》ですが、現在ではミュシャの代表作として再評価されています。この連作はスラヴ民族の苦難や栄光を壮大に描き、チェコの国民的遺産として位置づけられ、世界的にもその文化的価値が認められています。

ミュシャはアール・ヌーヴォーを代表する芸術家として知られる一方、この叙事詩を通じて民族的アイデンティティの象徴的存在としても評価され、芸術家としての彼の役割は単なる装飾美術を超えるものとなりました。彼の情熱と信念は、スラヴ民族の誇りを未来に伝える遺産として、チェコ国内外で多くの人々に感銘を与え続けています。

参考文献)
・2017年ミュシャ展図録
・Slav Epic
https://www.muchafoundation.org/en/gallery/themes/theme/slav-epic

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つくだゆき

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東京美術館巡りというSNSアカウントの中の人をやっております。サラリーマンのかたわら、お休みの日には、美術館巡りにいそしんでおります。もともとミーハーなので、国内外の古典的なオールドマスターが好きでしたが、去年あたりから現代アートもたしなむようになり、今が割と雑食色が強いです。

東京美術館巡りというSNSアカウントの中の人をやっております。サラリーマンのかたわら、お休みの日には、美術館巡りにいそしんでおります。もともとミーハーなので、国内外の古典的なオールドマスターが好きでしたが、去年あたりから現代アートもたしなむようになり、今が割と雑食色が強いです。

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