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2024.12.10

具体美術協会とは?海外でも評価された日本の前衛美術グループを解説!

戦後の日本で革新的な活動を展開した「具体美術協会」(通称「具体」)。具体は、吉原治良(よしはらじろう)が、阪神地域在住(大阪・神戸とその間の地域)の若い作家たちと結成した前衛美術グループです。

1954〜1972年の18年にわたる活動は、戦後日本のアートの動向を知る上で注目されています。

写真は第24回二科展会場のもので(1937年)、ちょうどこの「図説」が展示されている前にいるのが吉原治良(右)と長谷川三郎(左)である。, Public domain, via Wikimedia Commons.

当時から海外で高く評価され、日本に限らず、ニューヨークやイタリアのギャラリーでも展覧会を開催しました。近年では、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で大規模な回顧展が行われるなど、”GUTAI”は今でも関心を集めています。

グループのリーダー・吉原は、会員たちに「人のまねをするな」「これまでになかったものを創れ」と厳しい課題を提示し、常に新しい表現を追い求めました。

この記事では、「具体美術協会」は何を追究したのか、なぜ国際的な評価を得ているのかを詳しく解説します!


具体美術協会とは?

Gutai, Biennale, Venice, 2009, Public domain, via Wikimedia Commons.

「具体美術協会」は、吉原治良が発足した前衛美術グループです。前衛美術とは、それまでの考え方や形式を否定し、今までにない表現を目指す芸術です。

グループの名前は、吉原が機関誌『具体』に記載した次のテキストに由来します。

”われわれはわれわれの精神が自由であるという証しを具体的に提示したいと念願しています。新鮮な感動をあらゆる造型の中に求めて止まないものです。”

引用元:吉原治良「発刊に際して」『具体』創刊号、具体美術協会、1955年1月
※引用元の文献は、国立新美術館、平井章一、山田由佳子、米田尚輝編『「具体」—ニッポンの前衛 18年の軌跡』国立新美術館、p.19で確認

この「具体的に」という言葉が名称のルーツになっています。

また、吉原のテキストから窺えるように、具体の作品は、絵画、彫刻、インスタレーション、パフォーマンスなど、形にとらわれない表現が特徴です。

そして、具体には、グラフィックデザイナーの吉田稔郎(よしだとしお)や後に絵本作家としても活躍する元永定正(もとながさだまさ)をはじめ、幅広い分野で活動する作家が所属していました。

具体が様々な表現を受け入れた背景としては、吉原が1952年に大阪の「現代美術懇談会」に参加したことが挙げられます。

この会は、新しい美術をテーマに、団体やジャンルを超えて自由に意見を交わす場として発足されました。

吉原は、書・陶芸・生け花など、様々なジャンルの作家との交流を通して、これまでの絵画や彫刻にとらわれない表現を意識したと言われています。

参考:国立新美術館、平井章一、山田由佳子、米田尚輝編『「具体」—ニッポンの前衛 18年の軌跡』国立新美術館、p.91.

具体美術協会のメンバー

吉原治良(右)と長谷川三郎(左), Public domain, via Wikimedia Commons.

「具体美術協会」には、リーダーである吉原のほか、白髪一雄(しらがかずお)、田中敦子(たなかあつこ)など、今でもよく知られる作家が参加しました。

ここでは、具体のメンバーについて解説します。

吉原治良

「具体美術協会」を結成した吉原治良は、1905年に大阪市で生まれました。旧制中学時代から美術を志し、独学で絵画の技法を習得しました。1934年に第21回二科展に出品し、前衛作家として中央画壇にデビューします。

吉原は、欧米の美術雑誌を通して、最新のアートの動向に関心を寄せていたようです。美術雑誌は高価で入手が難しかったものの、吉原は裕福な商家に生まれたこともあり、購入が可能だったのです。
1930年代の作品には、シュルレアリスムや抽象表現など新しい表現が取り入れられています。

また、具体を発足する前からコンサートやバレエ、ファッションショーの舞台美術を手がけており、その経験が具体の舞台やパフォーマンスのきっかけとなったとも言われています。
(参考:前掲書 p.22)

(参考)東京都現代美術館 コレクション検索(吉原治良)

白髪一雄

白髪一雄は、1924年に尼崎市で生まれました。京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)で日本画を専攻した後、大阪市立美術研究所で洋画を学びました。具体には結成の翌年に入会し、海外でのグループ展など主要な発表の場にも参加した作家です。

白髪は、フット・ペインティングという独自の手法を生み出したことで知られています。フット・ペインティングとは、キャンバスに素足で描く手法です。

まず、天井からロープを吊るし、床に絵の具を載せたキャンバスを置きます。そして、ロープにつかまり足を画面の上に滑らせながら描き、ダイナミックに表現します。

身体を使って描いた跡が残るという観点から、日本におけるアクション・ペインティングの代表作と言われています。

(参考)東京都現代美術館 コレクション検索(白髪一雄)

田中敦子

田中敦子は、1932年に大阪市で生まれ、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)を中退した後、大阪市立美術研究所で学びました。白髪と同じ時期に具体に参加し、活躍した作家のひとりです。

代表作には、パフォーマンス作品の《電気服》や音に注目した作品の《ベル》があります。

《電気服》は、田中がパフォーマンスで身につけた作品で、色を塗った管球がランダムに点滅します。

《ベル》は、鑑賞者がスイッチを押すと、壁面に沿っておよそ2メートル間隔で設置されたベルが順番に鳴り、音が移動していく作品です。

2012年には東京都現代美術館で回顧展が開催されたり、近年では現代美術の展覧会に出品されたりと、現在も国内外から注目される作家と言えます。

(参考)東京都現代美術館 コレクション検索(田中敦子)

具体美術協会の独創的な展覧会

「具体美術協会」の作品は、これまでの考え方からの脱却を目指す作風が特徴的ですが、展覧会も独創性に富んでいました。

具体の展覧会は、国内の美術館やギャラリーに限らず、以下のように様々な場所で開催されました。

・公園
・舞台
・海外のアートスペース
・グタイピナコテカ(具体の展示施設)
・日本万国博覧会

こうした活動の背景には、アートの枠組みを超えようとする吉原の強い意志がありました。

初期(1954〜1957年)の活動では、芦屋公園での野外展や舞台を使った発表を試みます。
吉原が掲げた「既成の概念を打破する」という目標に基づき、アートスペースの外に出て、身体による表現や光・音を用いた作品を公開しました。

中期(1957〜1965年)は、国内の美術館や国外のギャラリーでの発表に注力します。この期間は、フランス人の美術評論家ミシェル・タピエと吉原が出会い、新しい抽象表現を取り入れた絵画を追究した時期だと位置付けられます。国際的な活動を通して、具体は前衛的な美術グループとして世界各地で認識されました。

後期(1965〜1972年)は、1962年に開館したグタイピナコテカでの展示や、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会でのパフォーマンスが特筆されます。グタイピナコテカは、吉原が所有していた土蔵を改装した施設で、会員による展覧会が積極的に行われました。

また、日本万国博覧会では、パヴィリオンでの展示やパフォーマンス「具体美術まつり」が開催され、脚光を浴びました。

なお、グタイピナコテカでの展示や万博での発表に挑戦した背景には、吉原が表現のマンネリ化を危惧したことが一因だと言われています。中期は絵画作品が中心でしたが、後期は最新のアートの手法を取り入れながらも、形態を限定しない表現を模索していたと言えるでしょう。

具体美術協会が海外で評価された理由

海外で高い評価を得た「具体美術協会」は、当時から”GUTAI”として世界各国で認知されていました。しかし、どうやって国外に存在が周知され、評価されるまでに至ったのでしょうか?

その背景には、吉原による戦略がありました。
吉原は、具体を設立した当初から海外での活動を視野に入れていたのです。

・機関誌『具体』を日英の表記で発行する
・会員の作品を厳しく審査して質の高い作品を発表する

など、海外のアート界を意識した方針は、現在の国際的な評価にもつながっていると言えるでしょう。

ここからは、具体が国際的に知られるようになったプロセスを解説します。

海外への発信に注力

具体の最初の活動は、展覧会での発表ではなく、機関誌『具体』の制作でした。

創刊号には、次の特徴があります。

・吉原の「発刊に際して」というテキストが日本語と英語で表記された
・作品の図版には、作家名がローマ字で記載された
・図版を多く掲載し、会員の作品集としての側面を強調した

これらのポイントは、吉原が作品をアピールするために冊子を活用し、諸外国も含めた発信に注力していたことを示しています。

また、機関誌は、発行のたびに国内外の主要な美術関係者に送付されました。アクション・ペインティングで有名なジャクソン・ポロックも、この冊子を所蔵していました。

ミシェル・タピエによる評価

吉原の計画が功を奏し、機関誌『具体』を目にしたミシェル・タピエによって、具体は高い評価を受けます。タピエは、フランス人の美術評論家です。戦後の欧米に同時多発的に現れた抽象表現を「アンフォルメル」と名付け、提唱した人物でもあります。

また、欧米の作家たちに呼びかけてアンフォルメルの展覧会を開催するなど、思想の普及に力を入れていました。

タピエは、パリに滞在していた日本人の作家を通じて『具体』誌を知りました。そして、日本で新しい抽象表現が追究されていることに興味を持ち、作品を目にするためはるばる大阪を訪ねたのです。

タピエが具体を評価した理由には、作品の質の高さがあります。吉原はグループの作家たちに斬新な表現を求め作品を厳しく審査し、機関誌『具体』にも、厳選した作品を掲載していました。

欧米にも引けを取らない具体の作品を機関誌で発信することで、アート界の主要な人物へのアピールに成功したのです。

その後、タピエは具体の一員となり、ブリヂストン美術館(東京)で行う現代美術の展覧会にメンバーを選抜したり、吉原とともに日本国内を巡回する国際展を企画したりしました。

このように、具体は国際的な評価を意識し活動したことで、現在でも国際的に知られる前衛美術グループになったのです。

まとめ

「これまでにないもの」を追究し続けた「具体美術協会」は、吉原の急逝により1972年に解散しました。

しかし、解散から50年以上が経った今も国内外から関心が寄せられています。それは、具体が他に類を見ない表現を突き詰め、時代を超えてアートの可能性を示しているからだと言えるでしょう。

吉原が常に新しい表現を求め、質の高い作品を生み出し続けたプロセスには、今振り返っても驚くべきポイントが多くあります。

日本でも、2022年に大阪中之島美術館・国立国際美術館の共同企画で回顧展が開かれており、今後も具体の活動に焦点を当てる展示が各地で行われると予想されます。

なお、具体の作品は、東京都現代美術館に収蔵されており、コレクション展で見られる場合もあります。具体の作品を実際に見て、作家たちが追い求めた表現をぜひ体感してみてください。


《参考文献》
・国立新美術館、平井章一、山田由佳子、米田尚輝編『「具体」—ニッポンの前衛 18年の軌跡』国立新美術館
・美術手帖編集部『美術手帖 2011年5月号 現代アートの巨匠』美術出版社、2011年

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浜田夏実

浜田夏実

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アートと文化のライター。アーティストのサポートや、行政の文化事業に関わった経験を活かし、インタビューや展覧会レポートを執筆しています。難しく考えがちなアートを解きほぐし、「アートって面白い」と感じていただける記事を作成します。

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