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2024.12.23
【前半】藤田嗣治を支えた人々 ~第一次・第二次世界大戦前後、パリで大活躍した日本人画家が成功した秘訣は「人」~
「海外で活躍する日本人」というと、どのような人が思い浮かびますか?
スポーツ好きな方はアメリカの大リーガー(大谷翔平やダルビッシュ)やサッカー選手(久保建英など)を、映画好きな方は宮崎駿、北野武、黒澤明などの映画監督を思い浮かべると思います。
そのほかにも海外で活躍している俳優、歌手、モデルは多くいます。
今回は私たちが生きている時代よりも遥か昔、第二次世界大戦前後にフランス・パリで活躍した画家の藤田嗣治(ふじたつぐはる)をご紹介しようと思います。
いつの時代でも、どの仕事でも、成功するカギは「人」だと感じるのではないでしょうか。
目次
藤田嗣治はこんな人
藤田嗣治の肖像, 1949年?より前, 『日本の肖像 幕末から明治・大正・昭和』社団法人日本写真文化協会, Public domain, via Wikimedia Commons.
猫や女性の絵で高評価を受けた、おかっぱ頭・丸眼鏡・チョビヒゲの画家
藤田嗣治(1886年~1968年)は東京で生まれました。26歳でフランスへ渡り、独自の画風を確立して「乳白色の肌」の裸婦像で知られるようになります。
その後、猫や女性をモチーフとした作品により西洋画壇で高い評価を受け、エコール・ド・パリの代表的な画家として国際的な名声を得ました。
藤田嗣治といえば独特の「おかっぱ頭・丸眼鏡・チョビヒゲ」という風貌も有名です。戦争に翻弄されながらもフランスに帰化し、以後「レオナール・フジタ」として活動を続けました。
戦後は再びフランスで穏やかに暮らしながらも精力的に制作を行い、フランス画壇において重要な存在となりました。
親のバックアップで画家への道を目指す
裕福な家庭。小さな時から絵が好きだった
藤田嗣治は1886年、東京都牛込区(現・新宿区)の裕福な医者の家庭に四人兄弟の末っ子として生まれました。父は森鴎外の後任で軍医総監を務めたエリートです。
嗣治は小さな頃から絵を描くのが好きでした。1900年、14歳のときにはパリ万国博覧会に中学生代表として水彩画を出展したほどです。
画家になりたいと訴えて認められた
藤田嗣治の父親は、息子にどうなって欲しかったのでしょうか?
医者か軍人の道を勧めたのですが、これは軍医総監を務めていたことが背景にあり、父親の世界の中で「医者か軍人なら間違いない」と思っていたと推測されます。(現代でいう「大企業なら間違いない」と似ていますね)
嗣治本人は画家になりたいと思っており、父に手紙で意思を伝えたそうです。最終的に油絵具一式を与えらたことから、藤田家の教育方針は「子供の意思を尊重する」であったかもしれません。
嗣治はパリ万国博覧会に中学生代表として水彩画を出展した頃からフランス留学を望むようになり、フランス留学を実現させるために学業を続けました。
日本画壇のドン、黒田清輝は敵だった!?
藤田嗣治の画風が主流派と合わなかった
1905年、森鷗外の推薦を受けて東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学した藤田嗣治は、フランス留学から戻った黒田清輝に師事しました。
しかし、嗣治の絵は当時の日本画壇が重視していた印象派や写実主義とは異なる作風だったため不評でした。成績も振るいません。
嗣治は東京美術学校を1910年に卒業しますが、卒業制作の『自画像』には黒田が嫌った黒を多用しました。(「アンチ黒田」のような挑戦的な意図…?)
1913年に父の支援を受けてパリへ渡りましたが、これは「私費留学」のようなものといえます。国費留学をするには好成績である必要がありましたが、「日本画壇のドン」の作風と違うため低評価だった嗣治が留学をするには私費留学しか選択肢がなかったためです。
1人目の妻・登美子と結婚
1911年、藤田嗣治は長野県木曽を訪れ、『木曽の馬市』や『木曽山』のほか、木祖村の極楽寺の天井画などを手がけました。
この時期に女学校の美術教師・鴇田登美子(ときたとみこ)と出会い、1912年に結婚します。お見合い結婚が基本だった明治時代には珍しい恋愛結婚でした。
結婚後に嗣治は新宿にアトリエを構えたのですが、フランスに行く気持ちは変わりませんでした。嗣治は1913年に3年間だけの約束で単身で渡仏します。
当時は留学費用が高額だったため、夫人同伴はできず…。しかし、どうしてもパリで成功したかった嗣治は帰国しませんでした。結果的に1回目の結婚は「帰国の約束が守られなかった」ということで終わってしまいました。
パリでの成功の裏には、多くの人の支えがあった
藤田嗣治は1913年に渡仏し、パリのモンパルナスに住宅を確保しました。当時のモンパルナスはパリの街外れの新興地であったため家賃が安く、若い芸術家が集まっていました。
嗣治はどのような人と交流したのでしょうか?
若い画家たちと交流、エコール・ド・パリの中心人物になった
Foujita, 1917年, Public domain, via Wikimedia Commons.
モンパルナスで藤田嗣治はモディリアーニ、スーティン、ピカソ、マティスなどの芸術家たちと親交を深めました。アートに詳しくない方でも「ピカソ」の名前を見れば、嗣治が相当なメンバーと交流していたと想像できると思います。
「エコール・ド・パリ」は、1920年代のパリで活動していた芸術家たちの総称で、外国人芸術家のことを指すことが多い言葉です。
嗣治はモンパルナスに集まる芸術家たちの中で日本人画家として個性を発揮し、エコール・ド・パリの中心的存在となりました。
恩師・黒田清輝とついに決別!?
藤田嗣治が渡仏して衝撃を受けたのは、キュビズムやシュルレアリスムなどの前衛美術でした。
「黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と語るほどだったため、今まで学んだ絵は何だったのだろう?と思ったに違いありません。
黒田清輝と喧嘩をしたわけではありませんが、自らの作風を刷新して過去と決別したという点で、これは「恩師との決別」と言えるほどの大変化でした。
現地の日本人人脈も嗣治を支えた
とはいえ、藤田嗣治が人脈なしの状態から自力で成功したわけではありません。
パリ在住の日本人コミュニティや、フランス社交界において「東洋の貴公子」と呼ばれた薩摩治郎八との交流することで人脈が広がりました。薩摩治郎八はパトロンとして経済面でも嗣治を支えました。
2回目の結婚相手の努力で絵が売れるように!
第一次世界大戦で送金ストップ、ピンチ!
1914年、パリに住んでから1年後に第一次世界大戦が勃発しました。日本からの送金が途絶えたため嗣治の生活は困窮しました。戦時下では絵が売れず、暖を取るために絵を燃やすこともあったそうです。
2回目の結婚相手は画家。絵を売ってくれた!
アトリエのFoujita, 1918年, Public domain, via Wikimedia Commons.
藤田嗣治は1917年3月に画家のフェルナンド・バレエと結婚しました。嗣治の才能を見抜いた彼女は嗣治の絵を売り歩くようになり、少しずつ絵が売れるようになりました。
絵が売れ始めたことで、同年6月にはシェロン画廊で初の個展を開催します。著名な美術評論家アンドレ・サルモンの推薦を受けたことで高評価を得て、嗣治の作品も高値で売れるようになりました。
1918年に第一次世界大戦が終わったあと、戦後の好景気の追い風を受けて嗣治はさらに活躍します。1920年代にはエコール・ド・パリを代表する画家として知られるようになりました。
1920年代は藤田嗣治の「黄金時代」
このころ、嗣治はフランス語の綴り「Foujita」に由来する「FouFou(お調子者)」と呼ばれ、フランスでは誰もが知っているほどの人気画家になっていました。アメリカにおける大谷翔平選手みたいな状態ですね。
1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章が贈られました。ここまで成功するとは誰が予想したでしょうか。まさに大成功です!
後半は「日本に帰国後 (第二次世界大戦とその後)」
このあと、藤田嗣治は3度目の結婚をしてフランス人の妻とともに日本に帰国します。
第二次世界大戦中に日本でどのような活動をして、その後どうなったか? 後半の記事でお届けします。
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セールスライター。マーケティングの観点から「アーティストが多くの人に知られるようになった背景には、何があるか?」を探るのが大好きです。わかりやすい文章を心がけ、アート初心者の方がアートにもっとハマる話題をお届けしたいと思います。SNS やブログでは「人を動かす伝え方」「資料作りのコツ」を発信。
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