STUDY
2024.12.31
【後半】藤田嗣治を支えた人々 ~代表作や画風など詳しく解説~
第二次世界大戦前後にフランス・パリで活躍した画家、藤田嗣治(ふじたつぐはる)。
日本で絵を学んだときは画壇の主流派に認められずにいましたが、フランス・パリに渡ったあとは大成功しました。
この記事では前半の続きとして、日本に帰国して再びフランスに渡った「藤田嗣治の人生(後半編)」をまとめました。
目次
キャプション:藤田嗣治藤田嗣治(1930年), Public domain, via Wikimedia Commons.
日本に帰国、戦争画家として活動
2番目・3番目の妻と離婚、南アメリカでも成功
パリで成功した藤田嗣治ですが、2人目の妻フェルナンド・バレエとは考え方の不一致により離婚することになります。パリでの駆け出し時代を支えたフェルナンド・バレエにとって、成功後の嗣治は人が変わったように感じられたんですね。
その後、藤田嗣治はフランス人女性リュシー・バドゥと3回目の結婚をしました。リュシーは教養があり美しい女性でしたが、酒癖が悪くのちに離婚します。
1931年、嗣治は新たな愛人マドレーヌを伴って南北アメリカに向かいました。南アメリカでの初の個展は大きな賞賛を受け、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が来場しました。1万人がサインを求めて列を作ったといわれており、パリでの人気が世界中に広がっていたことがわかります。
日本に帰国。5番目のパートナー、君代と結婚。
藤田嗣治は1933年に南アメリカから日本に帰国しました。1935年に25歳年下の君代と出会い一目惚れし、翌年に結婚しました。
1938年から約1年間、小磯良平らと従軍画家として日中戦争中の中華民国に赴いています。1939年に日本へ戻った後再びパリへ移りましたが、第二次世界大戦が勃発しました。1940年5月にドイツがパリを占領する直前にパリを離れ、同年7月に再度日本に帰国。
嗣治にとって、この時期は想定外の連続だったかもしれません。
陸軍美術協会理事長として絵を描いた
藤田嗣治は太平洋戦争中の日本では陸軍美術協会理事長に就任し、戦争画を制作しました。
戦争記録画を制作するため南方の戦地を訪問し、ノモンハン事件を題材とした『哈爾哈河畔之戦闘』や、アッツ島の戦いを描いた『アッツ島玉砕』など、リアリズム描写の作品を手掛けました。
戦争協力者として批判され、再びフランスへ
終戦後、藤田嗣治は陸軍美術協会理事長として戦争記録画を描いていたことから「戦争協力者」として批判され、一時はGHQからも聴取を受けました。
こうした日本国内の情勢に嫌気が差した嗣治は、1949年に日本を去り、アメリカとイギリスを経てフランスに向かいました。
藤田嗣治の写真藤田嗣治の写真 (1948年), Public domain, via Wikimedia Commons.
フランスに帰化。レオナール・フジタとして骨をうずめた
フランス国籍を取得し、フランス人になった
1950年にパリに戻った藤田嗣治は、1955年にフランス国籍を取得しました。また、1959年にカトリックの洗礼を受け「レオナール」という洗礼名を授かりました。ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチにあやかり、「レオナール(レオナルドのフランス語読み)」と名乗ったといわれています。
再度のパリでは「過去の人」扱い。「亡霊」と呼ばれた
藤田嗣治が最初に渡仏したのは1913年。それから37年が経ち、状況は大きく変わっていました。
交流していた画家の多くが他界または亡命していたため、1950年代のフランスにとって嗣治は完全に「過去の人」でした。メディアでは「亡霊」と揶揄されることもありましたが、
嗣治は絵を描き続け、1957年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を受けています。
フジタ礼拝堂を設計
離婚歴のある藤田嗣治にカトリックの洗礼を受けることを許可したランスに感謝を示したい気持ちから、嗣治は礼拝堂を奉献します。
建物から壁画、ステンドグラス、庭園まで設計を自身で手掛けた「フジタ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)」は1966年に完成しました。1968年に嗣治がガンのためスイスで亡くなったあとは「フジタ礼拝堂」に埋葬されました。
藤田嗣治の肖像写真藤田嗣治の肖像写真 (1924年), Public domain, via Wikimedia Commons.
藤田嗣治の代表作
藤田嗣治の生涯を大きく5つに分けると、「渡仏前」「渡仏後(1回目)」「帰国中(第二次世界大戦中)」「第二次世界大戦後」「再び渡仏したあと(宗教画)」に分けられます。
それぞれの時期を代表する絵を挙げました。
渡仏前
●自画像(1910年)
参考:藤田嗣治『自画像(1910)』
藤田嗣治は生涯を通じて多くの自画像を描きましたが、「おかっぱ頭」「ちょび髭」「丸メガネ」で知られる嗣治とは違う様子が印象的です。
この作品は、東京美術学校西洋学科の卒業制作の課題として描かれました。師の黒田清輝が嫌った黒を多用した挑発的な画風であったため、黒田清輝が「悪い作品例」に挙げたことで知られています。
渡仏後(1回目)
●赤毛の女(1917年)
参考:藤田嗣治『赤毛の女(1917)』
パリで初期に描かれた水彩画で、なんとなくモディリアーニやピカソの雰囲気を感じられます。
(目黒区美術館に所蔵)
●寝室の裸婦キキ(1922年)
参考:藤田嗣治『寝室の裸婦キキ(1922)』
藤田嗣治がパリで名声を得ることとなった「乳白色の裸婦」の代表作の1つです。「ジュイ布のある裸婦」とも呼ばれることがあります。
マン・レイの恋人だったモンパルナスのキキをモデルにした作品の1つです。
(パリ私立近代美術館に所蔵)
●タピスリーの裸婦(1923)
参考:藤田嗣治『タピスリーの裸婦(1923)』
藤田嗣治が描く初期の裸婦像は「寝室の裸婦キキ」のように背景を黒く塗りつぶしていましたが、1923年前後からはこまかなモチーフが描かれた布を背景に描かれるように変わりました(嗣治が実際に買い集めたアンティークの布だったそうです)。
(京都国立近代美術館に所蔵)
●猫のいる自画像(1927年頃)
参考:藤田嗣治『猫のいる自画像(1927頃)』
1910年の自画像と比べると、「まさに藤田嗣治」という雰囲気の自画像です。
おかっぱ頭・ちょび髭・丸メガネの特徴的な外見は、藤田が東洋人としてパリで認められるためのセルフブランディングといわれています。
●鏡と少女(1935年)
参考:藤田嗣治『鏡と少女(1935)』
乳白色の肌が際立つ作品です。細い輪郭線の外側が薄い白いベールのようになっており、このかすかなベールが輪郭線を浮かび上がらせて不思議な視覚効果を生み出しています。
●争闘 猫(1940年)
参考:藤田嗣治『争闘 猫(1940)』
第2次世界大戦の広がりを受けて、藤田嗣治がパリから日本に帰国した年に描かれた絵です。
争う猫を通じて、戦時下の藤田の心境を表したと考えられています。
(東京国立近代美術館に所蔵)
小見出し:第二次世界大戦中の作品
●アッツ島玉砕(1943年)
参考:藤田嗣治『アッツ島玉砕(1943)』
陸軍美術協会理事長に就任した藤田嗣治が、戦争記録画として描いた絵です。島にいた守備隊が1943年5月に全滅した事件を、写真と想像力に基づいて描いています。
この作品は、嗣治の群像表現の完成形といわれています。
(東京国立近代美術館に所蔵)
●血戦ガナルカナル(1944年)
参考:藤田嗣治『血戦ガナルカナル(1944)』
ソロモン諸島のガダルカナル島を巡る戦いを描いた作品です。味方と敵が入り混じっている様子を冷静に観察して描いています。
(東京国立近代美術館に所蔵)
第二次世界大戦後
●私の夢(1947年)
参考:藤田嗣治『私の夢(1947)』
「あの藤田嗣治が戻ってきた!」と思わせる、裸婦画です。
暗い闇のなかで、夢見る表情をたたえる裸婦のまわりを、イヌ、ネコ、サル、ネズミなどの擬人化された動物たちが取り囲んでいます。ここにはパリでの生活を夢見る気持ちが投影されていると言われています。
(新潟県立近代美術館に所蔵)
●カフェ(1949年)
参考:藤田嗣治『カフェ(1949)』
終戦後に日本を離れ、パリに向かう前に1年程過ごしたニューヨークで描かれた作品です。
ニューヨークで描かれましたが、背景はパリの街の風景で、嗣治のパリへの想いが感じられます。乳白色の肌も見られ、嗣治の戦後の代表作の1つです。
(パリのポンピドゥー・センターに所蔵)
再び渡仏したあと(宗教画)
●キリスト降架(1959年)
参考:藤田嗣治『キリスト降架(1959)』
パリに戻ったあとの晩年の藤田嗣治は、宗教画を描くようになります。カトリックの洗礼を受けたことも影響したと考えられます。
(パリ市立近代美術館に所蔵)
●イブ(1960年)
参考:藤田嗣治『イブ(1960)』
旧約聖書の創世記に登場するイヴをテーマにした作品で、理想的な女性美を表したといわれています。
(ウッドワン美術館に所蔵)
●礼拝(1962~1963年)
参考:藤田嗣治『礼拝(1962~1963)』
2人の天使に冠を授けられる聖母マリアが中央に位置し、その左右に跪いた修道士(修道女)の服装に身を包んだ藤田夫妻を祝福してます。
●猫を抱く少女(1962年)
参考:藤田嗣治『猫を抱く少女(1962)』
猫を抱く少女は、藤田嗣治が生涯にわたって描いたモチーフのひとつです。宗教画を多く描いた晩年の作品は、背景のマントルピースやアーチ状に映る光と影を祭壇に見立てており、神聖な雰囲気を感じさせます。
あの乳白色の肌は、どうやって描かれた? ~藤田嗣治の画風と技術~
藤田嗣治といえば「乳白色の肌」
藤田嗣治は日本画の技法を取り入れ、西洋油彩画に独自の画風を確立しました。細い輪郭線には面相筆と墨を用い、浮世絵を思わせる平面的な構図と、空間の奥行きを抑えた装飾的な表現が特徴です。
特に「乳白色の肌」は嗣治の代名詞となりました。藤田の「乳白色の肌」の表現は浮世絵の晴信や歌麿の肌の描写を参考にしており、硫酸バリウムの下地に炭酸カルシウムと鉛白を1:3で混ぜた独自の絵具により、陶器のような温かみと光沢が生まれたのです。
裸婦と猫が数多く登場
藤田嗣治は裸婦と猫の絵を多く描きました。猫は自画像や作品に頻繁に登場しており、自らの分身とされています。1930年に出版された『猫の本』は高い人気を博しました。
藤田嗣治の作品はどこで見られる?
常設展示
藤田嗣治の作品は、日本国内では次の美術館に所蔵されています。
・ブリヂストン美術館(東京)
・東京国立近代美術館(東京)
・国立西洋美術館(東京)
・ポーラ美術館(神奈川)
・平野政吉美術館(秋田)
・軽井沢安東美術館(長野)
安東美術館は、嗣治の作品のみを収蔵・常設展示する日本初の美術館です。
展覧会
コレクションでつづる 藤田嗣治・佐伯祐三・荻須高徳展 -パリを愛し、パリに魅了された画家たち-
2024/9/1(日)~ 2025/1/31(金)
山王美術館(大阪府大阪市)
生誕140周年 藤田嗣治 7つの情熱
2025年4月12日(土)〜6月22日(日)
SOMPO美術館(東京都新宿区)
藤田嗣治 絵画と写真
2025年7月5日~8月31日
東京ステーションギャラリー(東京都千代田区)
まとめ
藤田嗣治のことを初めて知った方は、「100年前にフランスで大活躍した日本人画家がいたのか!」と驚くと思います。
藤田嗣治を少しご存知だった方は、戦争に翻弄された嗣治の人生や、人生を通じて変化した作風を詳しく知ることで新たな発見があったのではないでしょうか。
嗣治の作品を常設展示している美術館や、期間限定の展覧会が国内にいくつかあります。ぜひご覧になってくださいね!
画像ギャラリー
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セールスライター。マーケティングの観点から「アーティストが多くの人に知られるようになった背景には、何があるか?」を探るのが大好きです。わかりやすい文章を心がけ、アート初心者の方がアートにもっとハマる話題をお届けしたいと思います。SNS やブログでは「人を動かす伝え方」「資料作りのコツ」を発信。
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