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STUDY

2025.3.25

カタルーニャの画家、ジョアン・ミロの生涯と代表的な作品とは?

ジョアン・ミロ(1893〜1983年)は、スペイン・カタルーニャ州出身の画家です。独自の象徴的な表現と鮮やかな色彩の作品で人気を集め、同時代や後の美術家にも大きな影響を与えました。この記事ではミロの生涯とともに、作品の特徴を紹介します。

ミロの生涯:バルセロナに生まれパリでシュルレアリスムの詩人らと交流。


1893年にバルセロナの職人の家に生まれたミロは、幼い頃からデッサンに親しんでいたものの、父の勧めによって商業学校に学び、会計の仕事に就きました。

しかし仕事のストレスで病気になると、別荘のあったカタルーニャ州南部のモンロッチにて療養生活を送ることに。その後、美術学校に通い、画家になることを決めます。1918年には25歳にして初個展を開きました。

このミロが初個展を開いたダルマウ画廊は、当時保守的だったバルセロナにおいてキュビスム展やフランス前衛美術展を行うなど、前衛美術を広める画廊として知られていました。

1920年に初めてパリを訪ねると、翌年にはアトリエを構え、パリでの初個展を開いて頭角を現します。そして隣人の画家、アンドレ・マッソンとの出会いを通して、シュルレアリスムの詩人や作家たちと交流するようになりました。この頃のミロの代表作として〈夢の絵画〉のシリーズが知られています。

ミロはシュルレアリストのグループ展に参加し、世の中からも「シュルレアリスムの画家」として位置付けられるようになります。しかし意外にもミロ自身はシュルレアリスム運動と一心同体だったわけではなく、一定の距離を置いていたとされています。

また1929年、36歳の時に幼馴染みだったピラール・ジュンコーザと結婚し、翌年には一人娘のマリア・ドロールスが生まれました。

バルセロナとモンロッチを行き来して創作。アメリカにも販路を拡大。


ミロのパリでの生活は順風満帆だったわけではありません。1931年には経済的に息詰まるとアトリエを引き払い、バルセロナの実家へと戻ります。そしてバルセロナとミロが生涯愛したモンロッチを行き来する生活を送りました。

ミロはイギリスで個展を開いたり、コペンハーゲンでの国際展へ出品したりしていました。さらにニューヨークの画商で画家のアンリ・マティスの息子、ピエール・マティスと契約して、作品をアメリカで販売するなど、国際的に活動の場を広げていきます。タペストリーも制作するようになりました。

しかしミロの生活に戦争の荒波が襲いかかります。1936年にスペインで内戦が勃発すると、共和国政府を支持していたミロはバルセロナを立ち、描きかけのキャンバスを残したままパリへと逃れました。そして内戦はミロの願いも叶わず反乱軍の勝利により終結し、フランコによる軍事独裁政権がスタートしました。

パリからマジョルカ、そしてバルセロナへ。反ファシズムの姿勢を鮮明に。


1939年の夏、46歳のミロはパリからノルマンディのヴァランジュヴィルに移ると、当初は短期間だけ滞在する予定でしたが、第二次世界大戦の勃発により同地に留まることを決め、〈星座〉シリーズの制作に着手します。

そして翌年にはナイス・ドイツ軍が北フランスに侵攻。身の危険を感じたミロはアメリカ行きも考えますが、パリを経由して地中海に浮かぶスペインのマジョルカへと逃れました。

その後、ミロはモンロッチに滞在し、1942年にはバルセロナへと戻りますが、反ファシズムの姿勢を鮮明にしていたため、スペインでもナチス占領下のフランスでも作品を広く展示できる機会は訪れませんでした。

そのミロをいち早く評価したのがアメリカです。1941年にはニューヨーク近代美術館で個展を開くと名声を確立。また1945年にはピエール・マティスの画廊で〈星座〉シリーズや陶器やリトグラフの新作を公開し、大変な評判を得ました。

戦後は世界各地で展覧会を開催。一方スペインでは不遇の生活も…


戦後のミロはどのような人生をたどったのでしょうか。1947年、54歳の時に初めてアメリカの地を訪ねると、テラス・プラザ・ホテルの壁画を制作。また1954年にはヴェネツィアビエンナーレの版画部門で国際大賞、1959年にはグッゲンハイム財団国際大賞を受賞するなど、高く評価されます。パリやニューヨーク、東京など世界各地で展覧会も開かれました。

ミロは1966年、73歳にして東京と京都の国立近代美術館の個展のために来日。また1969年には大阪万博のパビリオンに陶板の壁画を設置するため、再び日本へとやって来ました。

しかし戦後もフランコの軍事独裁政権が続いた母国スペインでは事情が異なりました。1956年にはマジョルカに大きなアトリエを構え、以前よりもサイズの大きな作品を制作するようになったものの、ミロの展覧会は長く開かれず、作品が発表されたのはバルセロナの画廊のみ。

1968年にはバルセロナ市の主催で大々的なミロ展が開かれましたが、ミロ本人は開幕式への出席を拒否するなど政権への強い反骨の姿勢を見せます。

晩年まで創作意欲を見せたミロ。90歳で亡くなる。


1975年にフランコが死去した時のミロはすでに82歳。しかしミロは晩年になっても意欲を失うことなく、創作活動を続けていきます。

スペインでの民主化が進むにつれ、ミロの知名度は同国でも高まっていきました。そして1978年にはマドリードのスペイン国立現代美術館にて初めての大規模なミロ展が開かれます。1980年には国王より美術褒章のメダルが授与されるなど、ミロの名誉も取り戻されました。

ミロが亡くなったのは1983年の12月、90歳でのことでした。スペイン政府より観光のために依頼されたロゴ《スペイン観光局のためのロゴ》が遺作となりました。

ミロの代表的な作品一覧

それでは制作年代順にミロの代表的な作品を見ていきましょう。

①《絵画》 1925年 愛知県美術館

モノクロームや青色、または褐色の背景に、文字や線、また記号を描いた「夢の絵画」と呼ばれる作品のうちのひとつ。ミロの代名詞ともいえるシリーズで、1925年から27年にかけて100点以上の作品が制作されました。

一見、夢の光景そのものを表したようにも見えますが、ミロのスケッチブックには対応するドローイングも残されていて、それを再現していることが分かります。

②《オランダの室内I》 1928年 ニューヨーク近代美術館

1928年に初めてオランダ旅行に出かけたミロは、アムステルダム国立美術館などで見た17世紀オランダ絵画に強い印象を受けます。その時に買ったポストカードを元に描かれたのが〈オランダの室内〉と呼ばれる3点のシリーズで、本作はヘンドリク・ソルクの《リュートを弾く人》を引用しています。

自然主義的なソルフの絵画もミロの手にかかると、曲線を多用した独特のイメージに変容していますが、リュートを引く人や足元の犬や猫などに、元の絵画のイメージの片鱗を見ることもできます。

③《カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち》 1940年 フィラデルフィア美術館

ノルマンディのヴァランジュヴィルに移住したのちに制作した23枚の〈星座〉シリーズのうちの一枚。カンヴァスではなく紙にグワッシュを用いて描かれています。

深い青色の夜を背景に怪物のような人物が見られていて、そこには戦争などミロの置かれた当時の厳しい状況を象徴していると言われています。ミロは〈星座〉シリーズを「今までで最も重要な仕事となる」と位置付けて制作しました。

④《テラス・プラザ・ホテルの壁画》 1947年

戦後、アメリカを訪ねたミロが、1947年にオハイオ州シンシナティのテラス・プラザ・ホテルより依頼を受けて描いた壁画です。横幅9メートルを超える大作で、ホテルの最上階のレストランを飾られ、多くの人々の目を楽しませました。現在はシンシナティ・アート・ミュージアムが所蔵しています。

⑤《太陽の前の人物》 1968年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ

アメリカの抽象表現主義の技法を連想させつつ、日本の画僧・仙厓へのオマージュとして知られる作品です。仙厓が丸、三角、四角で宇宙を表現した作品との関連を見ることができます。20代の頃から日本に興味を抱いていたミロは、2度来日を果たすと、書家らにも刺激を受けて即興的な作品を描きました。

⑥《焼かれたカンヴァス2》 1973年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ

〈焼かれたカンヴァス〉の5点の連作絵画のうちの一つ。ここでミロはカンヴァスに絵具を施したのち、ナイフで切り付け、最後にはガソリンを染み込ませて火をつけました。実にミロが80歳の時の作品で、晩年においても前衛的ともいえる表現を探求していたことが分かります。また絵画が財産や投機の対象になることに対し、ミロは作品を破壊することで、そうした価値観に反発しようとしました。

⑦《スペイン観光局のためのロゴ》 1983年

ミロの遺作となった作品です。太陽と星のモチーフは1967年にピカソへのオマージュ展のために作られた作品から引用されています。ミロは本作を無報酬で制作したものの、完成したロゴを見る前に亡くなってしまいました。このほか、ミロは前年にスペインで開催されたワールドカップのポスターも制作。さらに1974年には、ミロの地元であるFCバルセロナの設立75周年を記念するポスターも手がけました。

ミロの作品の3つの特徴とは?


最後にミロの作品の主な3つの特徴です。

①象徴的なモチーフ:
星、月、鳥、人間の身体の一部などが、抽象的かつシンボリックに描かれています。これらのモチーフは、時に彼の内面の幻想を表現する手段として用いられました。

②鮮やかな色彩:
赤や青、黄色といった原色が大胆に使用され、観る者に強い印象を与えます。色彩のコントラストは、作品に生命感と躍動感をもたらしています。

③遊び心と自由な線:
ミロの描く線は、まるで無意識に描いたかのように自由奔放で、子どもの落書きのような無垢さが漂います。しかし、その線には緻密な計算や意図も込められています。

夢と現実、意識と無意識の間に存在する世界を表現し、観る者に創造の喜びを伝え続けるミロ。す。またコラージュや版画、彫刻など多様な手法を用い、常に新しい表現を切り開くアーティストでした。

現在、東京・上野公園の東京都美術館では、大規模なミロの展覧会も開催中です。(2025年7月6日まで)

バルセロナのジョアン・ミロ財団の監修のもと、本記事で紹介した《オランダの室内I》をはじめ、〈星座〉や〈焼かれたカンヴァス〉シリーズなど、見ごたえのあるミロの作品が世界中からやって来ています。

国内でミロの芸術の真価を味わう絶好のチャンスです。ミロの作品と出会いに、ぜひお出かけください。

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はろるど

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千葉県在住。美術ブログ「はろるど」管理人。主に都内の美術館や博物館に出かけては、日々、展覧会の感想をブログに書いています。過去に「いまトピ」や「楽活」などへ寄稿。雑誌「pen」オンラインのアートニュースの一部を担当しています。

千葉県在住。美術ブログ「はろるど」管理人。主に都内の美術館や博物館に出かけては、日々、展覧会の感想をブログに書いています。過去に「いまトピ」や「楽活」などへ寄稿。雑誌「pen」オンラインのアートニュースの一部を担当しています。

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