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STUDY

2026.5.27

「イギリスは女王の時代に栄える」肖像画で読み解く、女王たちのドラマとファッション

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「イギリスは、女王の時代に栄える」という言葉があります。

エリザベス1世が築いた「黄金時代」、ヴィクトリア女王の「大英帝国」。その言葉の通り、女王が統治する時代にイギリスは華々しい歴史を生み出してきました。

Elizabeth_I_(Armada_Portrait)ジョージ・ガヴァー『アルマダ海戦時のエリザベス』, Public domain, via Wikimedia Commons.

しかし彼女たちの人生には、その栄光だけではなく、孤独や悲しみ、そして静かな抵抗の物語が刻まれていたのをご存じでしょうか。

本記事では、個性豊かなイギリスの女王たちを紹介するとともに、彼女たちを描いた肖像画から、ドレスの色やアクセサリー、ポーズのひとつひとつに着目しながらその人生を紐解いていきます。

※本記事における「イギリス」はイングランドを指します。

ジェーン・グレイ|たった9日間の女王様

政権争いに利用された悲劇の少女

Lady-jane-close-up作者不明。生前のジェーン・グレイを描いたとされる肖像画, Public domain, via Wikimedia Commons.

ジェーン・グレイ(1537-1554)は、わずか16歳の若さで処刑された悲劇の女王。イギリスという国に多くの変化をもたらしたヘンリー8世(1491-1547)の血縁者です。

ヘンリー8世の死後には、息子であるエドワード6世が即位したものの、まもなく病死。
次に王位継承権を持っていたのは、ヘンリー8世の長女・メアリー王女でした。

しかし、メアリーは熱心なカトリック教徒でした。当時のイギリスではカトリックとプロテスタントとの宗教的対立が激化していたため、プロテスタントの貴族たちは先王の血を引くジェーンを担ぎあげ、強引に女王へと即位させたのです。


ジェーンが即位してからわずか数日後、メアリー王女は自らを女王だと宣言しました。すると貴族たちは次々とメアリー王女に忠誠を誓い、ジェーンはわずか9日間という短さであっという間に退位させられてしまったのです。そして、その翌年にわずか16歳で(17歳とも)処刑されました。

王家の血を引いていた、ただそれだけの理由で政権争いに利用されたジェーン。

彼女自身に野心はなく、高い教養と知識を持った思慮深い女性だったと言われています。

『ジェーン・グレイの肖像画』荘厳で悲しみに溢れた名画

1280px-PAUL_DELAROCHE_-_Ejecución_de_Lady_Jane_Grey_(National_Gallery_de_Londres,_1834)ポール・ドラローシュ『ジェーン・グレイの処刑』, Public domain, via Wikimedia Commons.

1833年、フランスの画家ポール・ドラローシュによって描かれた『ジェーン・グレイの処刑』。白いドレスを身にまとい、目隠しをされたジェーンは何かを探しているようです。

彼女が探しているのは、自らの首を置く木の台。これから斬首されるのです。向かって右側には鈍く光る斧を持った処刑人が立ち、左側には嘆き悲しむ侍女たちが描かれています。侍女のひとりは、ショックのあまり気絶しているようです。

豊かな美しい金髪、雪のように白いドレス、同じ色の目隠しというファッションは、運命に翻弄されたジェーンの清純な美しさを演出しています。

ドラローシュはこの絵を制作する際、しっかりとした時代考証を重ねていましたが、いくつかのアレンジも加えています。

その一つが、死刑執行人の服装です。当時、死刑執行人は職業差別を受ける存在でした。市場では食べ物に触れてはいけない、教会では一般の人と一緒に座ってはいけないなど、数々の差別を受けてきたのです。

そして、彼らは多色遣いの衣服を身に着けることになっていました。これは忌避されるべき身分の者たちがつける衣裳であると決まっていたためです。

しかし、ドラローシュはこの絵において、死刑執行人の姿を赤と黒を基調とした比較的シンプルな服装で描いています。処刑人を気品ある姿にすることで、ジェーンの最期の瞬間を静かで、厳かなイメージへと仕上げる狙いがあったと考えられています。

メアリー1世|信仰を纏った孤独な女王

「血まみれメアリー」と呼ばれた強硬措置

Mary1_by_Eworth_3ハンス・エヴォルス『メアリー1世』, Public domain, via Wikimedia Commons.

ジェーン・グレイから王位を取り戻したのが、ヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘であるメアリー1世(1516-1558)です。

当時、王妃にとって王の跡継ぎを産むことは死活問題でしたが、ヘンリー8世とキャサリンの間には、子どもがなかなか育ちませんでした。キャサリンは幾度となく死産や流産を繰り返し、子どもたちの中で無事に育ったのはメアリーだけだったのです。

男児が生まれないことに不満を持ったヘンリー8世は、アン・ブーリンという別の女性に恋をしてしまいます。そしてヘンリー8世は、アンとの結婚のためにキャサリンと離婚することを決意したのです。この離婚には多くの反対意見がありましたが、ヘンリー8世は離婚に反対した者たちを次々と処刑していきました。

キャサリンは離婚の2年後に病死し、メアリーは王女から庶子へと身分を落とされてしまいました。その後、メアリーが王女としての地位を取り戻したのは30歳の頃だったといいます。

このように恵まれない少女時代を送ったメアリーは、女王に即位すると強硬的な政治措置を取りました。

彼女が強硬措置をとったのは、主にイギリス国内の宗教についての問題でした。メアリーは熱心なカトリック教徒であったため、対立する立場であるプロテスタント教徒や神職者たちを次々と弾圧していったのです。

短期間に300人を火刑に処すなど、「ブラッディ・メアリー(血まみれメアリー)」として恐れられました。

『メアリー1世像』お見合い写真としての肖像画

Mary_I_of_Englandアントニス・モル『メアリー1世像』, Public domain, via Wikimedia Commons.

アントニス・モルによる肖像画『メアリー1世像』は、現代でいうお見合い写真として機能したものでした。この肖像画はメアリーの夫となったスペインの皇太子フェリペのもとへと贈られたため、現在もスペインのプラド美術館所蔵となっています。

メアリーは暗い色の衣裳に身を包んではいますが、その生地はスペイン風の文様に彩られています。ヘアバンド、指輪、ネックレス、袖飾りなどにふんだんに使われた宝石は、王室の豊かさを強調したものです。

両親の離婚や庶子に落とされるなど、若い頃から心身の苦労を経験したメアリー。フェリペとの結婚話が出たのは37歳の時でしたが、当時の彼女は実際の年齢よりもずいぶん年上に見えたそうです。

肖像画では、頭髪の薄さや眼差しの鋭さ、歯の欠如などを描かず、メアリーの外見のイメージを和らげる努力がなされたようです。しかし、その表情には苦難の色が浮かび、今までの彼女の人生の苦労が滲み出るような雰囲気が漂っています。

女王として即位してからわずか5年後、メアリーは腹部にできた悪性腫瘍のためにこの世を去りました。42歳でした。

エリザベス1世|偉大なる「ヴァージン・クイーン」

庶子から黄金時代を築いた名君へ

Elizabeth_I_(Armada_Portrait)ジョージ・ガヴァー『アルマダ海戦時のエリザベス』, Public domain, via Wikimedia Commons.

メアリー1世の死後女王となったのが、当時25歳のエリザベス1世(1533-1603)でした。エリザベスは、メアリー1世の異母妹です。

ヘンリー8世の2番目の妻であるアン・ブーリンの娘でしたが、アンは男の子を産まなかったため、斬首刑にかけられてしまいました。エリザベスもまた、異母姉メアリー1世と同じように王女から庶子へと身分を下げられてしまったのでした。

その後、メアリー1世の統治時代には女王への反逆罪を疑われ、一時幽閉されるなど不遇な時代を過ごしたエリザベス。女王に即位してからは、宗教的混乱によって疲弊したイギリスを立て直すことに尽力しました。

さらに、当時「無敵艦隊」と呼ばれていたスペインの船がイギリスを侵攻してきた際、自国の海軍によってその侵攻を打ち破りました。それまで海洋貿易をほぼ独占していたスペインに代わり、イギリスが大きな力を得たのです。

この時の勝利を祝って描かれたのが、ジョージ・ガヴァーによる『アルマダ海戦時のエリザベス』です。まるで世界を手に入れたと言わんばかりに、地球儀の上に手を置くエリザベスの姿が印象的な肖像画です。

エリザベスは生涯誰とも結婚せず、「処女王(ヴァージン・クイーン)」と呼ばれました。
彼女の治世には貿易や文化が大きく発展し、イギリスの「黄金時代」を築き上げることとなります。

『エリザベス1世の虹の肖像画』神格化された女王とファッション

Elizabeth_I_Rainbow_Portrait3アイザック・オリヴァー『エリザベス1世の虹の肖像画』, Public domain, via Wikimedia Commons.

アイザック・オリヴァーによる『エリザベス1世の虹の肖像画』には、神格化された女王としてのエリザベスが描かれています。

この肖像画に描かれたエリザベスは、右手に「希望」を象徴する虹を持っています。さらにマントには目や耳などの不思議な模様が描かれており、エリザベスが「すべてを見通す」という意味が込められていたといいます。

また、衣裳には真珠がふんだんにあしらわれています。真珠は「処女性」のシンボルとされ、「処女王(ヴァージン・クイーン)」にふさわしいモチーフとして、エリザベスの多くの肖像画に描かれています。

この肖像画が描かれた頃、エリザベスはすでに70歳近い年齢だったと考えられています。
しかし、絵の中の彼女は若々しく、皺ひとつありません。他のエリザベスの肖像画と比べると、顔立ちも異なっています。

まさに、女王の神格化を表現したイメージ戦略として制作された肖像画と言えるでしょう。

メアリー・スチュアート|エリザベス1世を苦悩させたスコットランドの女王

三度の結婚、イングランドへの亡命と幽閉生活

Mary_Queen_of_Scots_French_School_c_1558-60作者不明『スコットランド女王メアリー・スチュアート』, Public domain, via Wikimedia Commons.

エリザベス1世の在位中、彼女を大いに苦悩させたスコットランドの女王がいました。

彼女の名はメアリー・スチュアート(1542-1587)。父であるジェームズ5世の死によって、生後わずか6日でスコットランドの女王となりました。

6歳でフランスへ渡り、フランス皇太子の花嫁候補として宮廷文化を学んだメアリーは、15歳でフランス皇太子妃、翌年にはフランス王妃となります。しかし、夫フランソワ2世はわずか1年で急逝。

子どものいなかったメアリーはスコットランドへ帰国し、その後2度の再婚を経て男の子を出産しますが、3度目の結婚が国民の大きな反感を買って退位を迫られてしまいます。そこでメアリーは、縁類にあたるエリザベス1世に助けを求めたのでした。

しかし、カトリック教徒であるメアリーの存在は、プロテスタント国家イングランドにとって脅威でもありました。

当時のイングランドでは、反エリザベス1世派の人々がメアリーを利用して女王を王座から引きずり降ろそうと画策していたからです。そこで、エリザベスはメアリーをロンドンから離れた小城に幽閉することにしました。

その生活は20年ほど続きましたが、1587年にメアリーがエリザベス暗殺に関与したことが発覚し、ついにメアリーは処刑を宣告されるのでした。

『メアリー・スチュアートの処刑』断頭台で披露した赤いドレス

Robert_Inerarity_Herdman_(1829-1888)_-_Execution_of_Mary,_Queen_of_Scots_-_812_-_Kelvingrove_Art_Gallery_and_Museumロバート・ハードマン『スコットランド女王メアリーの処刑』, Public domain, via Wikimedia Commons.

メアリーが生きていた時代、フランス宮廷はヨーロッパで最も華やかな場所でした。幼少期に渡仏して以来長くフランスの中心にいたメアリーは、自身の死に際をフランス風の荘厳な儀式へと見事に演出しました。

処刑の日、断頭台に現れたメアリーは黒い絹のマントを羽織り、金の十字架を下げていました。マントを脱ぎ棄てたその下から現れたのは、目にも鮮やかな赤い色のドレスだったのです。

当時、赤は殉教の色とされていました。メアリーは与えられた死の宣告に対し、カトリック教徒として殉じるという強烈なアピールで答えたのでした。

ロバート・ハードマンの『スコットランド女王メアリーの処刑』では、断頭台に向かって毅然と歩くメアリーの様子が描かれています。絵の中の彼女は白いヴェールを被り、黒いマントにその身を包んでいます。

そして、処刑台へと一歩踏み出すその足元から、赤いドレスが覗いているのがわかります。
赤いドレスが現れる寸前の場面が描かれたことで、歴史を知っている鑑賞者は、メアリーの赤いドレス姿を思わず想像してしまうでしょう。

死の間際のエピソードや数奇な運命によって、メアリー・スチュアートは後年の芸術家たちの創作意欲を大いに刺激しました。

ヴィクトリア女王(在位1837〜1901年):愛と喪の衣裳が変えた文化

中産階級の規範となり、大英帝国を築いた女王

Coronation_of_Queen_Victoria_28_June_1838_by_Sir_George_Hayter_(cropped)フランツ・ザヴァー・ヴィンターハルター『ヴィクトリア女王一家(1846年の王室)』, Public domain, via Wikimedia Commons.

エリザベス1世の治世から300年近くが経った1837年、当時18歳であったヴィクトリア女王(1819-1901)が即位しました。ヴィクトリアは1901年に死去するまで、64年という長い在位期間を誇りました。

彼女について特筆すべきは、初恋の人であるアルバートと結婚したことです。同い年のふたりは結婚後も仲睦まじく、9人の子どもたちに恵まれました。

当時のイギリスは、蒸気機関の発明によって世界でもいちはやく産業大国となり、これまでの貴族階級に代わって工場主や投資家などの中産階級が社会の中心となっていった時代でした。

そんな中産階級の人々の道徳的規範となったのが、ヴィクトリア女王一家でした。

夫婦仲は睦まじく、女性は子どもをたくさん産んで家庭を支え、男性が富を増やす。ヴィクトリア朝時代には、このようなジェンダーロールが一般的であったと言われています。

また、クリミア戦争やインドの反乱など、国際情勢が大きく変化した時代でもありました。イギリスは領土を大きく拡大し、大英帝国の名をほしいままにしたのです。

『ヴィクトリア女王の結婚式』ウェディングドレス=白を定着させた?

George_Hayter_-_The_Marriage_of_Queen_Victoria,_10_February_1840_-_WGA11229_(cropped)ジョージ・ヘイター『ヴィクトリア女王の結婚式、1840年2月10日』, Public domain, via Wikimedia Commons.

1840年、結婚式の日を迎えたヴィクトリアは、イギリスの君主としてではなくアルバートの妻として誓いを立てたいと考えました。

そこで彼女は、女王の衣裳である深紅のローブではなく、美徳と豊穣の象徴である白いサテンのドレスを着ることを決めたのです。この「純白の花嫁」というイメージは瞬く間に世界中に広まり、次第に「花嫁=白のドレス」といったスタイルが定着していきました。

やがてアルバートがわずか42歳の若さで亡くなると、ヴィクトリアは悲嘆にくれました。2年間も公務を放棄したのち、公式の場でいつまでも喪服を着続けていたという記録が残っています。

それほどまでに愛し愛された仲睦まじい夫婦を見事に描いたのが、ジョージ・ヘイターの『ヴィクトリア女王の結婚式』です。

結婚式に参列する多くの人々、荘厳な宮殿のその中心部。白いドレスを着たヴィクトリアと正装したアルバートが描かれています。ふたりは手を取り合い、互いに見つめ合っているようです。

ヴィクトリアとアルバートの孫は40人、ひ孫は37人にも及びました。彼らはそれぞれヨーロッパ諸国の王国貴族と婚姻関係を結び、イギリスはますます発展していったのでした。

女王たちのファッションは、彼女たちの人生そのもの

時代も境遇も異なる女王たちが共通して持っていたもの。それは、ファッションを「自分の言葉」として使う意志でした。

この系譜は現代まで続いています。2022年に逝去したイギリスの女王・エリザベス2世(1926-2022)は、ワンカラーのコーディネートと帽子、トレードマークのハンドバックなど、品格あるロイヤルスタイルで国民たちに愛されました。

あなたが彼女らの肖像画の前に立ったとき、そこに描かれたドレスの色や宝飾品の意味を知っていれば……女王たちの「声」が聞こえてくるかもしれません。

◆参考書籍一覧

石井美樹子『図説|エリザベス1世』(河出書房新社)
石井美樹子『図説 イギリス王室1000年史 辺境の王国から大英帝国への飛翔』(新人物往来社)
カーリン・ブラットフォード『九日間の女王さま』(すぐ書房)
中野京子『絵画で読み解く イギリス王室12の物語』(光文社)
中野京子『残酷な王と悲しみの王妃』(集英社文庫)
内村里奈『名画のコスチューム 拡大でみる60の職業小辞典』(創元社)

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糸崎 舞

糸崎 舞

元舞台俳優。現役時代、さまざまな演劇作品に出演した経験を通じて、世界中の歴史や文化、芸能への深い理解を培いました。俳優としての経験を活かし、アートの中に息づく文化や歴史を解説します。 好きなアーティストは葛飾北斎とアルフォンス・ミュシャです。

元舞台俳優。現役時代、さまざまな演劇作品に出演した経験を通じて、世界中の歴史や文化、芸能への深い理解を培いました。俳優としての経験を活かし、アートの中に息づく文化や歴史を解説します。 好きなアーティストは葛飾北斎とアルフォンス・ミュシャです。

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