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2025.11.4
生首を写生!?「画鬼」河鍋暁斎の作品と生涯を解説。狩野派から浮世絵まで
狩野派の正統な技法から浮世絵、風刺画、妖怪画まで、あらゆるジャンルを描き分けた河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)をご存じですか。
異常なまでの画業への執念と、幕末から明治という激動の時代を生き抜いた強靭な精神力を持つ暁斎の作品は、一度観れば忘れられない強烈なインパクトを残します。
暁斎の作品はいくつもの独特の魅力が相まって、後世の私たちの心を魅了し続けているのです。本記事では、暁斎の強烈な生き様と、異なるジャンルごとの名作たちをご紹介します。
目次
「画鬼」と呼ばれた河鍋暁斎。どんな絵師だった?
狩野派と浮世絵のハイブリッド絵師
河鍋暁斎『応需暁斎楽画 第九号 地獄太夫がいこつの遊戯をゆめに見る図』, Public domain, via Wikimedia Commons.
河鍋暁斎(かわなべきょうさい。1831-1889)は、日本の伝統画法である狩野派から、浮世絵、そしてユーモアあふれる戯画まで、さまざまなジャンルを手がけた天才絵師として知られています。
暁斎は1831年、下総国古賀(現在の茨城県古河市)に生まれました。
定火消同心の父に連れられ江戸に出た暁斎は、数え7歳の頃、歌川国芳に入門し、その後10歳で駿河台狩野派の前村洞和へ弟子入りしました。
才能が認められ、19歳という若さで狩野派の修行を終えた暁斎は、狩野派の画法に加えて浮世絵の制作も始めました。それが瞬く間に話題を呼び、人気絵師の地位を獲得したのでした。
生首を写生、戦場跡を見学……驚きのエピソード
河鍋暁斎, Public domain, via Wikimedia Commons.
暁斎の画業人生には、常軌を逸したエピソードがいくつも残されています。
・9歳の時、河原で拾った人間の生首を写生した
・16歳の時、火事場の様子を写生した
・38歳の時、上野戦争の戦場跡を見に行った
これらのエピソードは、絵の研鑽のためなら生首を拾い、戦場跡で大量の死体を写生するなど、狂気とも思えるほどの情熱で画業に打ち込む暁斎の生き様がよくわかるものです。
洞和は、暁斎の類まれな才能を評価して「画鬼(がき)」と呼んでいました。
40歳の時には、書画会で酔った時に描いた戯画が問題となり、投獄される事件もありましたが、破天荒で型破りな、まさに「画鬼」にふさわしい人生を送りました。そして1889年(明治22年)に、胃癌のため病没しました。
※定火消同心……江戸幕府によって設置された消防組織のこと。
暁斎が活躍したのは?日本が大きく変化した激動の時代
河鍋暁斎『閻魔大王浄玻璃鏡図』, Public domain, via Wikimedia Commons.
絵師としての暁斎は、幕末から明治にかけての激動の時代を生きていました。
彼が多彩な才能を発揮した背景には、急激な時代の変化が大きく関係していたのです。
それまでの日本では、狩野派・琳派と呼ばれる絵師たちが、長く日本の伝統画法を守ってきました。
彼らの主な顧客は、幕府や公家など高位の身分にある人々でしたが、明治維新によって身分制度が廃止され、狩野派や琳派の絵師たちは顧客を失うことになります。
しかし暁斎は、狩野派の肉筆画はもちろん、歴史画、戦争画、動物画、七福神などの縁起物、そして幽霊や地獄絵図といった多岐にわたるジャンルの作品を描き続けました。
あらゆる画法を学んで血肉にし、そこに独自の奇想的な個性を見出すことで、唯一無二の存在となったのです。
海外の人々に人気の高い暁斎
ジョサイア・コンデル, Public domain, via Wikimedia Commons.
また、暁斎の作品は海外の人々にも人気が高く、広く世界へ知られることになりました。
1873(明治6)年には書画会を主催した暁斎は、1日に200枚の絵を描いたという逸話も残っています。万国博覧会へも精力的に出展しており、これらの経験から多くの外国人と親交を深めることになりました。彼らは競うようにして暁斎の作品を求めた、という記録が残っています。
明治維新によって苦しい時代に直面した絵師たちでしたが、暁斎は来日する外国人に作品を提供し、巧みに世の中を渡っていったのでした。
1881(明治14)年には、イギリス人の建築家であるジョサイア・コンデル(1852-1920年)が暁斎の弟子として入門しました。コンデルは浮世絵だけではなく、日本のあらゆる文化に傾倒し、日本舞踊や華道など、日本文化を学び、多数の英文著作を執筆して、日本文化を海外に発信しました。
暁斎の描く多岐にわたる作品
ここからは、暁斎の描いた、多岐にわたる作品を観ていきましょう。
それぞれのジャンルごとに作品を鑑賞すると、暁斎がいかに多才で、異なる分野の中でも独自の世界観を表現していたのかがよくわかります。
狩野派の伝統技術で表現した独自の世界観
河鍋暁斎『花鳥図』, Public domain, via Wikimedia Commons.
まずは、暁斎が幼少期から学び、彼の画法の基礎を支えることになった「狩野派」について解説します。
狩野派とは室町時代に誕生した流派で、当時は将軍・足利家の御用を務めていました。
その後戦乱の時代に突入した後も、織田信長や豊臣秀吉などの為政者に愛され、徳川家康によって幕府御用絵師へと任命されました。
狩野派は長い歴史の中で、水墨画を基本としつつ、やまと絵の彩色法を取り入れるなど、狩野派独自の画法を確立したのです。
暁斎による『花鳥図』では、狩野派の伝統である彩色法が使用されています。
狩野派の技法を駆使した本画。しかし、雉に巻きついた蛇が樹上の鷹とにらみ合う不気味な雰囲気は、暁斎独特の緊張感を生み出しています。
※やまと絵……中国由来の「唐絵」に対し、日本独自の絵画様式を指す言葉。
浮世絵の「美人画」では「醜」も描く
河鍋暁斎『地獄太夫と一休』, Public domain, via Wikimedia Commons.
人気を博した暁斎の作品で紹介しておきたいのが、浮世絵の人気ジャンルのひとつである「美人画」です。
特筆すべきは、美人とともにこの世のものではない存在を描いていること。この「美」と「醜」との対比が、暁斎の持つ唯一無二の世界観を表しています。
『地獄太夫と一休』では、地獄太夫と連歌問答をした一休和尚が、太夫を悟りに導いたという伝説をモチーフに描かれました。
高い身分から没落したというこの遊女は、自分が前世で悪い行いをした報いであると、自らを「地獄太夫」と呼んでいたそうです。当時人気の画題であり、暁斎も本画のほかに『応需暁斎楽画 第九号 地獄太夫がいこつの遊戯をゆめに見る図』などを描きました。
暁斎の愛するモチーフは「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」
河鍋暁斎『新富座妖怪引幕』, Public domain, via Wikimedia Commons.
古くから、日本には地獄絵や百鬼夜行(びゃっきやこう)といった、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界を描く伝統があります。暁斎は自分の作品の多くに、魑魅魍魎を取り入れたり、地獄のものどもを積極的に描きました。
『新富座妖怪引幕』は、幅17メートルにも及ぶ歌舞伎舞台の「引幕」です。
これは「いろは新聞」の社長・仮名垣魯文(かながきろぶん)が新富座に贈ったもの。依頼を受けた暁斎が、わずか4時間で完成させてしまったという逸話が残っています。
葛籠(つづら)からたくさんの妖怪が飛び出していますが、妖怪たちをよく見てみると、それぞれ歌舞伎役者たちの似顔絵である、という仕掛けです。
短時間で完成させたからこその、荒々しい筆致と勢いが現れている作品です。
※引幕……舞台などで、横に引いて開閉する幕のこと。
※葛籠……植物の蔓(つる)で編んだ、衣服などを入れる箱状のカゴ。
風刺の効いた大判錦絵、『暁斎楽画』シリーズ
暁斎の大判錦絵「暁斎楽画」シリーズは、1874(明治7)年に刊行された浮世絵シリーズです。
この当時、急激に西洋化し、次々と導入されていく新しい制度に、日本はめまぐるしい変化の時を迎えていました。
暁斎はそんな国内の様子を風刺し、明治初期の文明開化の風俗を作品に取り入れつつ、独特のユーモアで描き出しました。
河鍋暁斎『応需暁斎楽画 第二号 榊原健吉山中遊行之図』, Public domain, via Wikimedia Commons.
暁斎と同じ時代を生きた剣客、榊原健吉(1830-1894)を描いた『応需暁斎楽画 第二号 榊原健吉山中遊行之図』。
榊原は、明治維新後に将軍と共に静岡に移り住みましたが、日本の剣術の衰退を憂いて1873(明治6)年に江戸へ戻り、「撃剣会」を開いて剣術の普及に励んだ人物です。
伝説的存在として知られる榊原の青年時代を描いた本作では、榊原の周囲をおどろおどろしい妖怪たちが取り囲んでいます。妖怪は暁斎らしいモチーフですが、榊原の表情は涼しげで、凛とした格好よさが伝わってきます。
また、暁斎は多くの作品に「カエル」を描きました。カエルは暁斎が3歳の頃に初めて写生した生き物であり、多くの作品の中で、体制批判や時事問題を語らせています。
まとめ
暁斎は、正統な狩野派の技術と、世間を風刺する鋭い視点、そして諸外国の人々との交流という柔軟な姿勢を持って、日本が急激に変化した時代の荒波を泳ぎ切りました。
暁斎の作品に興味を持たれた方は、埼玉県蕨市にある河鍋暁斎記念美術館を訪ねるのはいかがでしょうか。
同館は、暁斎のひ孫である河鍋楠美氏がご自身の自宅を改装して創設した美術館です。
3000点余りの所蔵作品の中から、1~2ケ月ごとにテーマを変えて企画展を開催しており、暁斎やその弟子たちのさまざまな作品を目にすることができます。ぜひ、暁斎の遺した作品からほとばしるエネルギーに触れてみてください。
河鍋暁斎記念美術館
所在地
〒335-0003 埼玉県蕨市南町4-36-4
TEL 048-441-9780
最寄駅
・JR蕨駅西口より、蕨市コミュニティバスぷらっとわらび「南ルート」(毎時15分発)乗車、⑫「河鍋暁斎記念美術館前」下車すぐ
・JR京浜東北線 西川口駅(西口)より徒歩20分
休館日
・火曜日、木曜日
・毎月26日~末日
・年末年始
各展覧会情報など、詳しくは公式ホームページをご覧ください。
公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館
参考書籍一覧:
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師 超絶技巧と爆笑戯画の名手』監修:安村敏信(平凡社)
『傑作浮世絵コレクション 戯画と笑いの天才絵師 河鍋暁斎』編集協力:河鍋暁斎記念美術館(河出書房新社)
『代表作でわかる 浮世絵BOX』編集・著:太田記念美術館
注:
「ジョサイア・コンデル」の名前表記は『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師 超絶技巧と爆笑戯画の名手』監修:安村敏信(平凡社)を参照。
暁斎の生誕地は「古賀」と記載。『代表作でわかる 浮世絵BOX』編集・著:太田記念美術館を参照。
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糸崎 舞
元舞台俳優。現役時代、さまざまな演劇作品に出演した経験を通じて、世界中の歴史や文化、芸能への深い理解を培いました。俳優としての経験を活かし、アートの中に息づく文化や歴史を解説します。 好きなアーティストは葛飾北斎とアルフォンス・ミュシャです。
元舞台俳優。現役時代、さまざまな演劇作品に出演した経験を通じて、世界中の歴史や文化、芸能への深い理解を培いました。俳優としての経験を活かし、アートの中に息づく文化や歴史を解説します。 好きなアーティストは葛飾北斎とアルフォンス・ミュシャです。
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