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2026.3.20
いつの時代もおしゃれは本能?縄文人を虜にした宝石から、人生を刻む「耳飾り」まで
縄文人が今の私たちと同じように、アクセサリーを身に付けていたことをご存じでしょうか。それは、多くの人がイメージするおたまじゃくしのような「勾玉(まがたま)」だけではありませんでした。
数千年前の遺物には、素材も形もさまざまなネックレスや耳飾り、髪飾り、ブレスレットなどが見られます。
④朝日山(1)遺跡「ヒスイ製玉類」 出典:JOMON ARCHIVES(青森県埋蔵文化財調査センター所蔵、田中義道撮影)
今回はその中でも多くの縄文人が身に付けた、ネックレス(玉)と耳飾りについてお話しします。
始まりは貝のビーズだった
まずはアクセサリーの起源を見てみましょう。
世界で初めてのアクセサリーは、今から遡ること約12万年前のヨーロッパで見つかった、巻貝や二枚貝に孔(あな)を開けたビーズです。
その後、約10〜7万年前になると、アフリカで1cm足らずの小さな貝のビーズが数多く作られました。
日本では約2万年前の旧石器時代の末に、北海道のピリカ遺跡から、「かんらん岩」という石でできたビーズの首飾りが見つかっています。くすんだ緑色の小指の先ほどの石に孔が開けられ、そこに紐を通したと考えられるものです。
同じ時期の沖縄のサキタリ洞遺跡からは、二枚貝やツノガイのビーズが見つかっており、それらを複数組み合わせて首飾りにしていたと想像されています。
このように世界各地で文化が栄える以前、人々は洞窟や岩陰などを点々として獣を追いかける暮らしの中で、必需品とはいえないアクセサリーを作っていました。
人が自ら「装う」ための道具を求めることは、もはや本能に近いということなのかもしれません。
「装身具」が意味することとは
縄文時代になると、石や貝、動物の牙や骨、粘土などを材料に、さまざまなアクセサリーが作られました。
上尾駮(1)遺跡「玉類」 出典:JOMONARCHIVES(青森県埋蔵文化財調査センター所蔵、田中義道撮影)筆者にて一部改変
それらは、「人間の身体に直接つけるもの」という意味で「装身具」と呼ばれます。
現在のアクセサリーは主にファッションとして捉えられますが、「装身具」はそれ以外にも何らかの意味や役割を持つと考えられています。
例えば、
・呪術的な意味を持ち、悪い霊から身を守るための護符(アミュレット)としての役割。
・自分の権力や身分の高さ(ステータス)を周囲に示す、威信財(いしんざい)としての役割。
・「私はこの集団の一員だ」というアイデンティティを証明し、帰属意識を高める役割。
このように「装身具」は単なる飾りではなく、明確な社会的な機能を持った「道具」でもありました。
同時に、それらの多くは「葬送儀礼」とも深く結びついています。事実、「装身具」の多くは墓から見つかります。人骨にネックレスや耳飾りが装着されていたり、副葬品(ふくそうひん)として供えられている例も多く、当時の死生観や埋葬のルールを現代に伝える貴重な資料となっています。
ところで、縄文人は実際にこれらをどのように身につけていたのでしょうか。そのヒントは、当時の姿を写し取ったとされる「土偶」に見ることができます。
真福寺貝塚「みみずく土偶」 出典:Wikimedia Commons
この「みみずく土偶」を観察すると、耳の丸は耳飾りを、大きな頭は結った髪や櫛を、首にはネックレスを表現しているように見えます。遺跡から見つかった実際の装身具と重なる部分も多く、縄文人の装いを想像する手がかりとなっています。
「玉(たま)」で装う
縄文時代の「装身具」の中で、特に多く見られるのが「玉(たま)」です。今でいうネックレスにあたります。石などを材料に紐を通すための孔を開け、1個から数個、あるいは小さな玉をたくさん連ねて作られました。
亀ヶ岡石器時代遺跡「土坑墓出土玉類」出典:JOMON ARCHIVES(つがる市教育委員会撮影)筆者にて一部改変
材料は石が圧倒的に多く、そのほか貝殻、動物の歯・牙・骨、粘土を焼いた土製、木材や木の実なども使われました。精巧な細工や、漆で鮮やかな赤を施したものもありました。
当初は身近な材料だけで作られていましたが、やがて特定の地域でしか採取できない貴重な石を交易によって手に入れ、「玉」を作るようになります。
それらは現代のペンダントトップにあたる「垂飾(すいしょく)」として、連なる「玉」の中央に据えられました。大きく美しい「翡翠(ひすい)」などを吊り下げることで、象徴(シンボル)としての意味を強めたのです。「翡翠」のほか、黄金色の輝きを持つ「琥珀(こはく)」や、翡翠に似た緑色で加工しやすい「滑石(かっせき)」なども愛用されました。
朝日山(1)遺跡「ヒスイ製玉類」 出典:JOMON ARCHIVES(青森県埋蔵文化財調査センター所蔵、田中義道撮影)
また「垂飾」にはしばしば「勾玉」が用いられました。「勾玉」は「曲玉」とも書き、その多くは石で作られました。形の由来については、動物の牙に孔を開けた「牙玉(きばたま)」から発展したという説や、胎児や月の形を模したとする説などがあります。
このユニークな造形は、世界の装飾史の中でも類例がほとんどなく、日本独自の美意識が凝縮されたものだと言われています。
「翡翠」に潜む魅力
数ある美しい石の中で、縄文人が最も心酔したのが「翡翠」です。当時の「翡翠」は、現代のダイヤモンドを凌駕するほど稀少であったと考えられ、交易によって列島各地へと広がりました。
南は九州から北は北海道まで、大規模な集落跡からは一、二点、多くても数点が見つかりますが、小さな集落から出土することは殆どありません。まさに「選ばれし者の石」だったのです。
ヒスイ製大珠、他 出典:Sanmaru Search(三内丸山遺跡センター撮影)
「翡翠」は光にかざすと、内包された色彩がきらめく石。縄文人はその神秘的な輝きに、霊的な力や特別な意味を見出していたのでしょう。それゆえに、「翡翠」は集落の権威を示すステータスシンボルでもありました。
中でも「大珠(たいしゅ)」と呼ばれる5cmを超える大ぶりの「翡翠」は、地域の中核をなす巨大なムラだけが所有を許された、極めて特別な品でした。
「翡翠」の産地は全国に10か所ほどありますが、中でも新潟県の「糸魚川産の翡翠」は最高級の質を誇り、縄文社会に広くその名が知れ渡っていたと考えられています。
糸魚川周辺は上質な「翡翠」の産地であると同時に、極めて高度な加工技術を有していました。「翡翠」は非常に硬く、加工が困難な石です。糸魚川周辺の遺跡からは、原石や加工品のほか、製作途中の未完成品も多く見つかっており、ここが一大生産拠点であったことを物語っています。
また、中には一目で特定の集落で作られたとわかる、先端が尖った独特のデザインを持つものもあります。単なる「糸魚川産」という枠を超え、その集落が手がけた「ブランド品」のような付加価値を持つ「翡翠」も存在していたようです。
耳飾りの変遷ー「玦(けつ)」から「ピアス」へ
縄文時代の耳飾りには、大きく分けて二つの潮流があります。縄文時代の前期に出現した「玦状(けつじょう)」タイプと、中期以降に主流となった「耳栓(じせん)」タイプです。
三内丸山遺跡「装身具」 出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵、田中義道撮影)筆者にて一部改変
「玦状耳飾」は、円環の一部に切れ目を入れた形をしており、その切れ目を耳たぶに開けた孔に差し込んで装着したと考えられています。多くは石で作られ、その形状が古代中国の玉「玦」に似ていることからそう名付けられました。
主に墓から発見されるこの耳飾りは、男女を問わず身に付けていたようですが、出土数は決して多くありません。当時、これを持てたのは限られた「特別な人」だけだったと推測されています。
一方でその後に出現した「耳栓」タイプの耳飾りは、殆どが粘土を焼いた土製品で、人々に広く愛用されました。これらは一般に「土製耳飾」と呼ばれます。
「土製耳飾」は、耳たぶに開けた孔にピアスのようにはめこんで装着するもので、基本は円形です。中央に孔が開くものや、繊細な透かし彫りが施されたものなど、芸術性の高い意匠が数多く見られます。
興味深いのは、その多岐にわたるサイズ展開です。1cm超の小さなものから、8cmを超える大きなものまで存在します。人々は幼少期に小さなサイズを装着し、成人式などの「通過儀礼(イニシエーション)」を迎えるたびに、より大きなサイズへと付け替えていったと考えられています。
また、中には10cm近くに達する、到底耳たぶには収まりきらないサイズも存在します。それらは日常の装身具という枠を超え、何らかの特別な儀式に用いられた道具であったようです。
1100年の沈黙を経てー「装う」本能のゆくえ
縄文時代に花開いた「玉」の文化は、弥生時代になると大陸由来のガラスなどを取り入れ、より精緻で色鮮やかな姿へと進化を遂げます。古墳時代には水晶や瑪瑙などの石や金を使った勾玉が作られるなど、「装身具」の彩りはさらに豊かさを増していきました。
このように「玉」の姿形は時代ごとに少しずつ変化しながら、その時々の人々を魅了してきました。そんな中で変わることなく愛されたのが「翡翠」でした。その神秘的な美しさや特別な意味は、時代を超えて人々の心を捉え続けたのです。
しかし一方で、「耳飾り」は弥生時代に入るとその姿を消してしまいます。古墳時代には大陸から新たな装飾品として持ち込まれましたが、そこには縄文時代の「耳飾り」の意味は宿っていませんでした。
そして不思議なことに、古墳時代が終わると「装身具」全般は姿を消していきます。7世紀前後から玉が徐々に姿を消し、残されたのは実用性が重視された櫛や簪(かんざし)くらいでした。
長く時代を超えて愛された「翡翠」さえも、人々から忘れ去られてしまいました。
それから江戸時代末期まで、じつに1100年もの間、日本人が「装身具」を身につけた形跡はほとんど見られなくなります。
安土桃山時代に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスも、著書『ヨーロッパ文化と日本文化』の中で、「日本の女性は一切指輪はつけず、また金、銀で作った装身具も用いない」と驚きをもって記しています。
世界的にも稀なこの「空白期間」の理由は、未だ謎に包まれています。一説には、装身具が担っていた意味や役割が、「着物文化」における生地の紋様や色使いへと取って代わられたから、とも考えられています。
かつて人間の本能として始まり、社会的な意味をまとって発展した「装身具」。長い沈黙を経て再び現れた現代のアクセサリーもまた、単なる「美」を超えて、この時代の何かを映し出しているのかもしれません。
参考資料
『日本の美術2 No.369縄文時代の装身具』土肥隆(至文堂)
『指輪の文化史』浜本隆志(河出書房新社)
『縄文人の装い』北杜市考古資料館
『アクセサリーから見た縄文時代~石製装身具の様相~』五十嵐陸(神奈川県考古学講座資料)
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縄文ライター。10数年前に偶然出会った縄文土器の美しさに魅了され、以来全国の博物館や遺跡を廻っています。堅苦しく思われがちな縄文時代の土器や土偶、装飾品などを、ちょっと斜めから、アートの1つとして楽しんでいただけるように紹介していきます。
縄文ライター。10数年前に偶然出会った縄文土器の美しさに魅了され、以来全国の博物館や遺跡を廻っています。堅苦しく思われがちな縄文時代の土器や土偶、装飾品などを、ちょっと斜めから、アートの1つとして楽しんでいただけるように紹介していきます。
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