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STUDY

2024.9.19

【葛飾北斎】娘・葛飾応為は父の代筆者だった?『吉原格子先之図』も解説

葛飾北斎の娘であり絵師でもあった葛飾応為(生没年不詳)。しばしば、彼女が北斎の代筆者であった可能性がささやかれることがあります。

葛飾応為はどのような環境で絵を学び、父・北斎を支えるようになったのか?その経緯を探りながら彼女の代表作とも言われる『吉原格子先之図』の魅力とともに考察していきます。

新吉原遊廓の夜の情景を描いた『吉原格子先之図』

葛飾応為『吉原格子先之図』1818-60年 太田記念美術館所蔵

応為自身の代表作とも言える『吉原格子先之図』は、新吉原遊廓の夜の情景を描いた作品であり、その舞台背景と深く関わっています。新吉原は江戸時代に浅草の千束村(現在の台東区千束付近)に移転した後、「新吉原」として知られるようになりました。新吉原は日本でも有名な遊郭街として栄え、特に夜間の営業が許可されてからは、さらに賑わいを見せました。

遊女たちが華やかに着飾り、格子越しにそれを眺める男たちの様子が細かく描かれています。一人の遊女が格子に近づき馴染みの客と会話しているように見えますが、黒いシルエットのため表情はわかりません。静かな遊女たちと動きのある男たちが対比され、場面に緊張感が生まれています。

葛飾北斎の娘であり絵師でもあった葛飾応為

応為が育った葛飾家は、芸術に深く根ざした家庭でした。父親の葛飾北斎は、浮世絵の巨匠として知られており、応為やその姉妹たちは、幼少期から絵画や芸術に囲まれて育ちました。

葛飾家では、姉妹たちは結婚して夫の家に入るまで、家業として父の絵の制作を手伝うことが期待されていたそうです。応為もその一環として、父のアシスタントとして仕事に携わりながら、絵の技術を習得していきました。

応為は工房の他の弟子たちと共に働き、応為は、木版画のデザインから肉筆画まで、多岐にわたる技術を習得します。さらに父の作品制作に深く関わることで、実践的な経験を積んでいきました。
 
1824年、応為は北斎の弟子の一人である南沢等明と結婚し、一時的に工房を離れましたが、3年後に離婚し再び工房に戻ります。針仕事にはほとんど関心がなく、父譲りの画才と気性から、等明の絵の未熟さを笑ったことで、二人の関係が悪化したとも。

1828年、母の琴女が亡くなった後、応為は年老いた父の介護を引き受けます。二人は協力して絵本や版画、絵画を制作し、応為は家業の一部としても北斎の作品を支え続けることになりました。

北斎も応為も、家事にはほとんど興味を持たず、むしろ絵を描くことに情熱を注いでいたようです。作品制作に夢中になるあまり、家事や片付けを疎かにしていたと言われており、そのため家が散らかりすぎると何度も引っ越しを繰り返したという話が残っています。引っ越しの回数は、なんと93回にも及んだそうです。

北斎と応為、当時の暮らしぶりを映し出す一枚

露木為一『北斎仮宅之図』国立国会図書館所蔵

北斎の弟子だった露木為一が、1840年代に北斎と応為と住む借家を訪ねた時の様子を描いたスケッチでは、この頃、応為は40代で、スケッチには父が仕事をするのをパイプに寄りかかりながら見守る姿が描かれています。

80代の北斎は、こたつに入りながら、眠りに落ちても目が覚めては再び絵を描くという生活を送っていました。


応為の表情からは、父の制作過程を見守り、会話を交わしながらも、邪魔にならないよう近くに座っている様子が伺えます。彼女は父と生涯を共にし、北斎の「あと10年だけ、あと5年だけ生きさせてくれ」という最後の言葉を見届けたのです。

周囲から見た葛飾応為の画家としての評価

葛飾応為『夜桜美人図』19世紀中頃 メナード美術館所蔵

応為は北斎の晩年の20年間、父・北斎の支えとなり、彼の協力者として活動していましたが、応為も当時から画家として高い評価を受け、名声を得ていました。

北斎は娘である応為の画才を非常に高く評価していました。彼は「美人画に関しては、娘には敵わない」と語ったと伝えられており、応為の才能が父親にとっても認められていたことがわかります。

また、北斎の門人であった渓斎英泉も、応為の画才を評価していた人物の一人です。英泉は彼女を「父の跡を継ぎ、プロの画家として成功した」と評価しており、応為が当時の画壇においても認められていたことが考えられます。

明暗の対比を巧みに表現した『吉原格子先之図』

葛飾応為『吉原格子先之図』1818-60年 太田記念美術館所蔵

『吉原夜景図』は、単なる夜の遊廓の風景画ではなく、光と影、動と静を通して、吉原の独特の雰囲気や遊女たちの内面を描き出した作品です。夜の吉原を行き交う人々や遊女たちの姿が描かれ、提灯の光を巧みに利用して、暗闇の中で陰影や明暗の対比が際立っています。

美しく着飾った遊女たちが、格子の中に並んで座っていますね。彼女たちは単なる装飾品ではなく、背後にある哀愁や苦しみがほのかに漂っており、無名の存在としての遊女たちの人生の影が感じ取れます。

この絵は絹に描かれ、豊富な顔料が使用されており、どちらも高価な画材だったことから、この絵が裕福なパトロンによって依頼されたものであることがわかります。依頼主は不明ですが、彼女の評判やスキル、そして優れた色使いが、この依頼につながったのかもしれません。

作品には落款がありませんが、大きな提灯や登場人物が持つ提灯に「應」「為」「栄」の文字が隠し落款として記されており、これが応為の作品であることを示唆しています。

画中の提灯に「應」「為」「栄」のそれぞれの文字が記された隠し落款

『吉原格子先之図』の奇跡の来歴をたどる

『吉原格子先之図』は、1929年に雑誌『浮世絵志』で初めて紹介されました。その後、版画家の高橋弘明らによって複製版画が制作され、この作品は広く知られるようになります。しかし、戦時中に作品の消息が途絶え、1946年以降は行方不明とされ、多くの人々が焼失や散逸を懸念していました。

1982年、集英社の出版物『肉筆浮世絵第七巻 北斎』において、この作品が岡山県の旧家で保管されていたことが判明し、再発見されました。翌1984年には、朝日新聞社が主催した展示会「肉筆浮世絵名作展 咲き薫る江戸の女性美」で初めて一般公開され、その価値が再認識されます。

現在、この作品は東京都の浮世絵専門の美術館である太田記念美術館に所蔵され、2-3年ごとに『吉原格子先之図』を含む展覧会が開催されており、多くの人々の目を楽しませています。

父・北斎の晩年の作品は、応為が代筆?それはなぜ?

北斎が80歳を過ぎてから描いた肉筆画には、非常に若々しい彩色や精密な描写が特徴的です。この年齢の北斎がこれほど細部まで鮮やかに描くのは不自然ではないかという見方から、これらの作品は実際には娘の応為が代筆したのではないかと指摘されています。

また、応為が70歳近くまで生きたにもかかわらず、彼女自身の名義で残された作品は極めて少ないため、北斎名義で発表された作品の中には、実際には応為が手がけたものが含まれているのではないかとも考えられています。

葛飾応為『三曲合奏図』1818–1844年頃 ボストン美術館所蔵

なぜ、代筆をしたかということについてですが、北斎の名声は家業の中心であり、その名声を守り続けることが優先されました。応為が父のスタイルを忠実に再現し、代筆することで作品の質を保ち、家業を支えたと考えられます。

また、北斎と応為は長年にわたり共同で絵画を制作してきました。応為が父の技術やスタイルを継承し、作品を一緒に仕上げることは自然な流れであり、代筆というよりも共同制作の一環だった可能性も否定できません。


エピソードを通じて見える晩年の応為の絵へのアプローチ

葛飾応為は、父同様に多くの弟子を抱えており、そのほとんどが商家や旗本の娘でした。晩年、応為は特定の場所に住まず、各地の弟子を訪ねて絵を指導していました。彼女が懇切丁寧に浮世絵を教えていたことがわかる書状も長野県小布施に残っています。

ある逸話では、北斎の弟子が絵に自信を失っていた際、応為は「何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と励まし、その言葉に北斎も同意したと伝えられています。このエピソードから、応為が真摯に絵に取り組み、弟子たちにも温かく接していた姿がうかがえます。

父・北斎を公私ともに支えてきた葛飾応為の存在は、葛飾応為は、晩年の北斎にとって不可欠な存在であり、その半生は後の創作物にも影響を与えました。特に、杉浦日向子の漫画「百日紅(さるすべり)」や、朝井まかての小説「眩(くらら)」は、映画化やドラマ化され、その存在は、もうひとりの葛飾北斎とも言える存在で、現在でも語り継がれています。

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つくだゆき

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東京美術館巡りというSNSアカウントの中の人をやっております。サラリーマンのかたわら、お休みの日には、美術館巡りにいそしんでおります。もともとミーハーなので、国内外の古典的なオールドマスターが好きでしたが、去年あたりから現代アートもたしなむようになり、今が割と雑食色が強いです。

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