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2024.9.20

「色彩の魔術師」ピエール・ボナールを理解するための3つのポイントを解説

印象派の登場以後、多くの画家たちが、伝統に縛られない新たな自分だけの表現を追求するようになった。その中でも近年特に注目されている一人が、「色彩の魔術師」ピエール・ボナールである。

彼は、若い画学生たちが結成したグループ「ナビ派」の中核メンバーであり、日本美術に影響を受けた平面的な表現と、大胆な色彩で、家族や友人、飼っている犬や猫、風景など身近に親しんでいるモチーフを描き、「親密派(アンティミスト)」とも呼ばれている。

ピエール・ボナール、『猫と女性、あるいは餌をねだる猫』、1912年頃、油彩・カンヴァス、78×77.5㎝、オルセー美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

2015年に、彼の展覧会がパリのオルセー美術館で開催された時には、歴代企画展入場者数が第2位を記録した。その翌年には、日本でも国立新美術館で、大規模な「ボナール」展が開かれた。そして2024年9月からは、ボナールと妻マルトの関係に焦点をあてたフランス映画『画家ボナール ピエールとマルト』が公開される。

映画「画家ボナール ピエールとマルト」 公式サイト – 2024/9/20(金)より シネスイッチ銀座他にて全国順次公開

今回は、「日本かぶれのナビ」「妻マルト」「輝く色彩」の3つのキーワードと共に、そんな彼の画業と、作品の魅力を紹介しよう。

①日本かぶれのナビ

ピエール・ボナールは1867年に生まれた。最初は父の希望もあって、大学の法学部に進学したものの、前々から興味を抱いていた絵画への思いも捨てがたく、19歳の時に画塾アカデミー・ジュリアンに登録する。そこで出会ったのが、ポール・セリュジエやモーリス・ドニら仲間たちだった。

そして1888年、夏期休暇中にブルターニュ地方ポン=タヴェン村に旅行したセリュジエが、現地で出会った画家ゴーギャンの指導のもとに制作した一枚の風景画〈愛の森〉を見たことで、彼らの運命は大きく動き始めるのである。

描かれているのは、地元の人から「愛の森」と呼ばれる実在する場所の風景である。しかし、木の幹は青く、葉も赤や黄色で塗られているなど、いずれも現実にはありえない色ばかりが用いられている。何より、この絵からは空間の奥行きというものがほとんど感じられず、少し離れて見ると、カラフルなパッチワークの布のようでもある。

ルネサンス以来、西洋美術の根幹は、現実を「再現」することだった。しかし、ゴーギャンがセリュジエに教えたのは、目に見える色に囚われず、自分の心に感じた色を使って描くことだった。

その結果生まれた、この縦横30センチ足らずの小さな板絵は、ボナール達にとって、今まで見たことのない全く「新しい世界」とその可能性を垣間見せてくれるものとなった。

学校で教えられる「当たり前」から離れ、自らの手で「新しい」表現を切り開け。

絵から、そのようなメッセージ(啓示)を受け取った画学生たちは、自らを神の「啓示」を解釈し、人々に伝える「預言者(ナビ)」になぞらえ、「ナビ派」を結成。それぞれのやり方で、「新しい表現」を追求していくことを決意する。

ボナールの場合は日本美術にそのヒントを求めた。彼は国貞や国芳、広重らの作品を熱心に集め、その表現を研究し、仲間から「日本かぶれのナビ」と呼ばれるほどだった。

その研究成果が如実に現れた作例『庭の女性たち』を見てみよう。

関連記事:フランス・ポスト印象派画家ゴーギャンの人生は?特徴と見どころ解説

ピエール・ボナール、『庭の女性たち』(全4点連作)、デトランプ・カンヴァスで裏打ちされた紙、各160.5×48㎝、1890~91年、オルセー美術館『白い水玉模様の服を着た女性』(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

ピエール・ボナール、『庭の女性たち』(全4点連作)、デトランプ・カンヴァスで裏打ちされた紙、各160.5×48㎝、1890~91年、オルセー美術館『猫と座る女性』(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

ピエール・ボナール、『庭の女性たち』(全4点連作)、デトランプ・カンヴァスで裏打ちされた紙、各160.5×48㎝、1890~91年、オルセー美術館『格子柄の服を着た女性』(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

ピエール・ボナール、『庭の女性たち』(全4点連作)、デトランプ・カンヴァスで裏打ちされた紙、各160.5×48㎝、1890~91年、オルセー美術館『ショルダー・ケープを着た女性』(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

この作品は、洒落たファッションに身を包んだ女性を描いた全4枚の画面から構成され、ボナールは当初は日本風の屏風の形にまとめることを構想していた。柔らかな曲線で表された女性の体は単純化され、凹凸がほとんどない。彼女たちのまとう水玉や格子模様の衣服は、周囲の自然と一体化し、華やかな装飾文様と化している。

また、極端に縦に長い画面の形は掛け軸を連想させるし、『猫と座る女性』の背景を埋めるパターン化された葉は、日本の伝統模様「青海波」とよく似ている。「日本かぶれのナビ」の日頃の研究ぶりを伺わせる、名刺がわりにもなりうる作品と言えよう。

②妻マルトーーー身近な存在への親密な眼差し

1893年、ボナールはパリの街で一人の女性と出会う。彼女の名はマルト・ド・メリニー、年齢はボナールの10歳下の16歳と称していたが、実際は24歳だった。病弱で、人づきあいが苦手な彼女は、神経質な面もあり、一日のうち長い時間を浴槽で過ごす日も珍しくなかった。

が、そんなエキセントリックで謎めいた部分もあるマルトをボナールは繰り返し描いた。一糸まとわぬ姿でしどけなくベッドに横たわる姿、食卓につく姿。そして特に多いのが、この『逆光を浴びる裸婦』をはじめとする浴室での姿である。

ピエール・ボナール、『ベッドでまどろむ女』、1899年、油彩・カンヴァス、96.4×105.2 cm、オルセー美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

ピエール・ボナール、『猫と女性、あるいは餌をねだる猫』、1912年頃、油彩・カンヴァス、78×77.5㎝、オルセー美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

ピエール・ボナール『逆光の裸婦』、油彩・カンヴァス、124.5×109㎝、1908年頃、ベルギー王立美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

部屋の中央に立ち、窓から差し込む光を全身に浴びながら、湯上りと思われるマルトは手にしたオーデコロンの瓶の中身を、自分の体に吹きつけようとしている。その表情はよく見えないが、リラックスしきっているのが想像できる。自分が見られている、とは夢にも思ってはいまい。

光の中で薔薇色や黄色など明るい色彩が際立つ長椅子や壁紙に対し、マルトの裸身は逆光で暗く見える。が、そのコントラストが、彼女の体にまるで彫刻のようなボリュームと存在感を付与している。そして、この工夫こそが、日常の何気ない一場面を一枚の作品たらしめ、ボナールとマルトの間にある親密な空気を彷彿とさせる。

ボナールとマルトは、出会ってから30年以上経ってからも、「恋人」同士の関係を続けていた。

しかし、1916年、その関係に危機が訪れる。ボナールはマルトの友人でもある金髪の女性ルネ・モンシャティと知り合う。最初は画家とモデルとしての関係だったが、次第に愛人関係になっていく。1921年には彼女と共に2週間ローマに滞在している。

マルトは当然平静ではいられない。ずっと一緒だったのに。しかも、友人に取られるなんて。嫉妬に狂った彼女は、ボナールに「正式な結婚」を迫り、ボナールもそれを受け入れた。

1925年、二人は結婚式を挙げる。彼がマルトの本名「マリア・ブルサン」と、本当の年齢とを知ったのはこの時だった。式から数週間後、ボナールに捨てられたルネは自ら命を絶った。

その後も、ボナールはマルトを、特に浴槽で湯あみする姿を描き続ける。この『浴槽の裸婦』もその一つで、1940年に描き始め、その2年後、マルトがこの世を去ってからも、手を加え続けた。

カラフルなタイルに彩られた浴室の中で、年齢を感じさせないマルトの身体は重みを失い、水の中に静かに溶けて行こうとしているようにも見え、幻想的な雰囲気を醸し出している。

ピエール・ボナール、『浴槽の裸婦』、油彩・カンヴァス、122.56 × 150.50 cm、カーネギー美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

ボナールが生涯の中で描いた作品は全部で約2000点あり、そのうち3分の1にマルトが登場している。出会ってから、彼女と死別するまでの39年の間、彼女はボナールのインスピレーションを掻き立てる存在だった。共に過ごす中で、喜びも、悲しみも、後悔してもしきれないこともあった。

そんな彼女がいなくなった後、彼が一筆一筆に託したのは、ただただ過ぎ去った時間への愛しさだったのかもしれない。

③輝く色彩

ゴーギャンからの「啓示」のもとに、「新しい表現」を求めたナビ派は、1900年代に差し掛かる頃には自然消滅していた。

ボナールも、新たな道を求めて1899年からパリを離れ、各地を旅するようになっていた。
1909年、そんな彼の新たな画風を切り開くカギとなる出会いがあった。

一つは、南フランスのサン=トロペを訪れたこと。これまでにも新印象派のシニャックら先輩画家たちを惹き付けた明るい陽光と色彩は、ボナールの中に強烈な印象を残した。

もう一つは、パリのデュラン=リュエル画廊で、モネの睡蓮の連作を目にしたことだった。12月、ナビ派の仲間で親友でもあるヴュイヤールと共にジヴェルニーにモネを訪問。さらに翌年には、ジヴェルニーから約5キロ離れたヴェルノンに家を借り、1912年には本格的に移住した。以来、二人は、自家用車で互いの家を行き来し、ボナールは制作中の絵についてモネにアドバイスを求めることもあった。

実のところ、それまでのボナールは「印象派」については「まったくと言って良いほど知らなかった」。しかし、だからこそ、より新鮮な気持ちでモネの描く世界と向き合い、魅せられたのだろう。

モネの影響のもと、ボナールは自然の光の効果に目を向けるようになり、色彩も明るくなっていく。

ピエール・ボナール、『棕梠の木』、1926年、油彩・カンヴァス、114.3 cm x 147 cm、フィリップス・コレクション(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

この『棕梠の木』は、1925年に南フランスのル・カネに別荘「ル・ボスケ」を購入してから間もない頃に描かれた。手前の茂みと大きなヤシの葉が形作る輪の中から風景を覗き見る構図になっている。

南フランスのまばゆい陽光は、木々の緑や連なる家並みの屋根の赤を鮮やかにし、海面を煌めかせる。それらは、前景中央に静かに佇むマルトの存在があるからこそ、より明るさや開放感が際立っている。


若き日に「啓示」を受け取って以来、ボナールは生涯にわたって自らの描き方を追求し続けた。20世紀初頭には、パリで生まれたキュビズムやフォーヴィスムなど新たな潮流が多くの画家に影響を与えていたが、それにはほとんど関心を持たなかった。

そしてヨーロッパ全土を巻き込む大戦が勃発すると、自宅「ル・ボスケ」に引きこもって、自宅の室内や庭の自然、妻マルトなど、身近な存在を描くことにひたすら没頭していった。

そんな彼の絶筆とされるのが、この『花咲くアーモンドの木』である。

ピエール・ボナール、『花咲くアーモンドの木』、1946~47年、油彩・カンヴァス、55×37.5cm、オルセー美術館(ポンピドゥー・センター、国立近代美術館委託)(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia), via Wikimedia Commons

彼はこの絵に1946年の春に着手し、並行して他の作品に取り組みながらも、アトリエの壁にピンでとめ、くり返し手を加えていた。

そして翌年の1月、すでに自ら筆を取ることすらできなくなっていた彼は、甥に指示して、画面左下の地面の緑色の部分を黄色で覆わせた。

そして、その数日後の1月23日、ボナールは息を引き取る。79歳だった。彼はまさに最後まで、自分の世界を自分のやり方で描くことを貫いたのである。

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ヴェルデ

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アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。

アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。

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