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STUDY

2026.3.13

画家との恋、そして薬物の過剰摂取。『オフィーリア』のモデルの栄光と影

シェイクスピアの悲劇『ハムレット』のヒロインの哀しくも美しい最期を描いた、ミレイの<オフィーリア>は、ラファエル前派の代表作であり、日本でも人気が高い。

この作品に限らず、名画とは画家一人の手からなるものではない。画家のためにポーズを取ることで、モデルも創作に「参加」しているとも言える。

ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉、1851年頃、テート・ブリテン, Public domain, via Wikimedia Commons.

実際に、この<オフィーリア>でモデルを務めた女性エリザベス・シダルも、ミレイをはじめラファエル前派のメンバーのため、言われるままにポーズをとるだけではなく、自らも詩作や水彩画など創作に強い関心を持ち、積極的に参加していた。

ヴィクトリア朝イギリスにおいて、それは決して楽な道ではなかったが、それでも彼女は創作への思いを諦めることはなく、あがき続けたのだ。

今回は、美術史上でも「美神(ミューズ)」としてよく知られた一人であるエリザベス・シダルを取り上げ、その生涯を掘り下げてみたい。

①エリザベスとラファエル前派の出会い

エリザベス・エレノア・シダルは、1828年にロンドンで刃物職人として働く父のもとに8人兄弟の3番目として生まれた。

当時の女性は正規の学校教育を受ける機会が限られており、家で読み書きなどの教育を受けることも少なくなかった。エリザベスも家で学びながら、次第に文学の世界に憧れを抱くようになった。

仕事に従事しながらも、美しい文学の世界への憧れや何かを表現したいという思いは消えることなく、エリザベスの中で燻り続けていた。

しかし、1849年、そんな彼女の運命を変える出会いがあった。ロセッティの友人でラファエル前派のメンバーでもある画家ウォルター・デヴェレルに、モデルとしてスカウトされたのだ。

当時、ヴィクトリア朝イギリスで、理想の女性のイメージは、ルネサンス三大巨匠の一人ラファエロの描く聖母だった。

ラファエロ・サンティ、<美しき女庭師>ラファエロ・サンティ、<美しき女庭師>、1507~8年、ルーヴル美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、<エリザベス・シダル>ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、<エリザベス・シダル>、1854年、デラウェア美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

小柄で華奢な体格に、金髪碧眼で色白の瓜実顔のつつましい良妻賢母タイプの女性像に対し、長身でほっそりした体つきに豊かな赤毛を持つエリザベスは、まさに対極だった。

しかし、それこそが、モデルスカウトの決め手だった。

ロイヤル・アカデミーが「美の規範」として称揚するラファエロの様式に反発し、「新たな美」を模索していたデヴェレルらは、それにふさわしい新たな「絶世の美女(スタナーズ)」を探していた。既成の理想像とは異質な美を備えるエリザベスは、まさにその条件にふさわしい存在だったのだ。

エリザベスも、「美しい」と言われて悪い気はしなかっただろう。何よりも、デヴェレルの申し出は、エリザベスが憧れてやまない美術や文学といった文化の香り高い世界に参加するチャンスでもあった。

エリザベスは、平凡な日々が繰り返されるだけの生活から、憧れの世界へと続く蜘蛛の糸を自分の手でしっかりと掴み取ったのだ。

②〈オフィーリア〉のモデルに

ラファエル前派に迎え入れられたエリザベスは、デヴェレルの<十二夜>やハントの〈ヴェローナの二紳士〉など、グループのメンバーの作品のモデルを務めていく。

ウォルター・デヴェレル、<十二夜>ウォルター・デヴェレル、<十二夜>、1850年、個人蔵, Public domain, via Wikimedia Commons.

そして、1852年には、ミレイの〈オフィーリア〉のためにポーズを取った。

ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉、1851年頃、テート・ブリテン, Public domain, via Wikimedia Commons.

シェイクスピアの悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフィーリアの最期の様子は、舞台の上では直接演じられず、王妃ガートルードの台詞で語られるのみだ。

恋人ハムレットに突き放され、目の前で父親を殺されたオフィーリアは正気を失ってしまう。そして、自ら作った花冠を枝にかけようとして小川に転落し、そのまま流され、最後は水の底へと消えていく。

この様子を、ミレイはできる限り原文に忠実に画布の上に再現しようとした。そのために、まずは舞台探しから始めた。

「柳の木が小川の上に斜めに身を乗り出し鏡のような流れに銀の葉裏を映している」(出典:『ハムレット(シェイクスピア全集1)』、ちくま文庫、p.223)

という原文のイメージに適合する場所として、サリー州のホグズミル川の流域を見いだした彼は、何か月もかけてその風景を、文字通り草花の一枚にいたるまで丹念に写生した。

そして12月、ロンドンのアトリエに戻ると、今度はバスタブを用意し、そこにモデル役のエリザベスを浮かべて、オフィーリアの姿を描き始めたのだ。

エリザベスも、ただ言われるがままにポーズを取ったのではあるまい。

ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉(部分拡大)ジョン・エヴァレット・ミレイ、〈オフィーリア〉(部分拡大)、1851年頃、テート・ブリテン, Public domain, via Wikimedia Commons.

オフィーリアの顔をよく見てみると、半目気味の目は虚ろで焦点が合わず、口はうっすらと開いている。「古い歌をきれぎれに口ずさんでいた」という原文の描写とも一致する。

何も知らないまま、悲劇に巻き込まれて心を壊し、死と生の間をたゆたいながら流されていく。

そんなオフィーリアの内面を、エリザベスは想像力によって引き寄せ、自らの身体で表現したのではないだろうか?

そして、そんなエリザベスの姿は、ミレイの創作意欲をより強くかきたてたのではないだろうか。

途中、バスタブを温めるための火が消えて、エリザベスがひどい風邪を患うというアクシデントもあった。しかし、ミレイもエリザベスも折れなかった。制作は続けられ、ついにラファエル前派を代表する傑作の誕生に至ったのである。

それはまさに画家とモデル、二人の人間による共作であると同時に、情熱のぶつかり合いでもあっただろう。その火花こそが作品のパワーとなったことは想像に難くない。

③ロセッティとエリザベス

<オフィーリア>の後、エリザベスはロセッティ専属のモデルとなった。

父親の影響でイタリア文学に傾倒していたロセッティは、エリザベスにイタリアの詩人ダンテの作品に登場する「永遠の恋人」ベアトリーチェのイメージを重ね、深く心酔した。

エリザベスもまた、ロセッティから詩作や絵の指導を受け、才能を開花させていく。

エリザベス・シダル<「サー・パトリック・スペンス」より淑女たちの哀歌>エリザベス・シダル<「サー・パトリック・スペンス」より淑女たちの哀歌>、1856年、テート・ブリテン(パブリックドメイン), Public domain, via Wikimedia Commons.

この水彩画<「サー・パトリック・スペンス」より淑女たちの哀歌>は、ロセッティやその仲間の間で流行していたスコットランドのバラッドに取材したもので、スペンスとスコットランド王の帰還を海辺で待ちわびる女性たちの姿が繊細な色遣いで描き出されている。

文学という主題や中世風のやや硬質な描き方からは、ロセッティらラファエル前派の影響を感じられる。一方で、ただ待つことしかできない女性たちの心情の襞に目を向けた点にエリザベスの独自性がうかがえる。

そんな彼女の才能をラスキンは評価し、年間150ポンドもの支援を申し出ている。1857年のラファエル前派展には、エリザベスの作品も出品された。

そして、師でもあるロセッティとは、創作を通じて互いに心を通わせあい、特別な関係となっていく。この頃が、エリザベスにとって最も充実した時期であったのかもしれない。

④結婚、そして……

ロセッティと恋仲となり、婚約を交わしたとはいえ、なかなか結婚には至らなかった。エリザベスが労働者階級出身であることを理由に、ロセッティの両親が反対していたのだ。

半同棲生活を続けながら、エリザベスは詩や水彩画を描いていたが、不安は拭えなかった。1854年頃からは体調を崩しがちで転地療養を繰り返すようにもなる。

しかも1856年、エリザベスが不在の間に、ロセッティの近くには新たな女性が現れた。ファニー・コンファースである。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、<ボッカ・バチアータ>ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、<ボッカ・バチアータ>、1859年、ボストン美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

豊かな金髪と、肉感的な唇、豊満な体つきのファニーは、ロセッティの新たな霊感源となる。一方、自分にはない魅力を持ったライバルに、エリザベスは激しい嫉妬を抱いた。心身は衰弱し、創作も次第に手がつかなくなっていった。

さすがに見かねたロセッティは、1860年、ついにエリザベスと正式に結婚する。長く待ち望んでいた瞬間に安堵したエリザベスは、どうにか小康状態を取り戻し、子供を妊娠する。

しかし、ロセッティはファニーをはじめとする女性たちとの関係を断つことはなかった。それは、どれほどエリザベスを打ちのめしたことだろう。せっかく授かった子供も、1861年に流産してしまう。

絶望したエリザベスは、心身の安定を求めて阿片チンキに手を伸ばし、服用量も次第に増えていった。ついに1862年2月10日、過剰服用が原因で、エリザベスは31歳の若さでこの世を去った。

⑤<ベアタ・ベアトリクス>ー鎮魂の思いをこめた一枚

この悲劇的な結末に、さすがのロセッティも衝撃を受けた。

なぜ、こんなことになってしまったのか。後悔は尽きず、ロセッティ自身も次第に心身を病んでいった。

そして、1864年〜70年にかけて、ロセッティは一枚の絵を描き上げる。それが<ベアタ・ベアトリクス>である。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、<ベアタ・ベアトリクス>ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、<ベアタ・ベアトリクス>、1864~70年、シカゴ美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

ベアトリクスとは、イタリアの詩人ダンテの「永遠の恋人」ベアトリーチェのことだ。これまでにも、ロセッティはしばしばエリザベスをこのベアトリーチェに重ねて描いてきた。

薄明りに照らされる中、灰色の衣と緑色の上着をまとい、バルコニーに座ったベアトリーチェは、目を閉じ、恍惚とした表情を浮かべている。

上に向けた掌には、愛を象徴する赤色で描かれた鳩がケシの花を届けようとしている。このケシの花は、死と眠りの象徴であり、阿片チンキの過剰服用による死をほのめかしている。

背景左手に立つ赤い衣の人物はダンテで、その手にはベアトリーチェの消えゆく命が炎となって揺らいでいる。日時計が指す「9」は、ベアトリーチェが世を去った「1290年6月9日の9時」を示す。

そして、奥に描かれたフィレンツェのポンテ・ヴェッキオは、天上へとつながる「橋」を象徴している。

こうした様々な暗示をちりばめたこの作品を通して、ロセッティは、自身を名前にも含まれる詩人ダンテに、そして、エリザベスをベアトリーチェに重ね、彼女の記憶と魂を永遠の存在として昇華しようとした。それこそが、ロセッティがエリザベスにできる「鎮魂」の形だった。

エリザベス・シダルは、ただ画家たちの創作意欲を刺激する「美神」ではなかった。様々な制約に直面しながらも、自らの創作や表現への情熱を捨てることはなく、必死に足掻き、選択した。そして、ラファエル前派へのモデルとしての参加や、自身の創作を通して、短い時間ではあっても、自分の「夢」を実現した。

もし、人生をやり直せるとしたら、エリザベスは、平凡な日常にとどまることと、夢に賭けること、どちらを選ぶだろうか?

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ヴェルデ

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アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。

アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。

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