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STUDY

2025.3.27

【展示開催中】ビアズリーの人生と代表作紹介。退廃の美学、絶望の中から生まれた線

美しく、そして毒を孕んだ線。
オーブリー・ビアズリーの描く世界は、幻想的で耽美的、そしてときに目を背けたくなるようなグロテスクさをたたえています。
ビアズリーは、イギリスのアール・ヌーボーを牽引したひとりと言われ、活躍した期間はわずか数年と短かったのですが、日本の文学や漫画界にも影響を与えた人物です。

1-Oriental_Dancer_by_HS_NicholsOriental DancerPublic domain, via Wikimedia Commons.

品行方正なヴィクトリア朝時代のイギリスで、センセーショナルに登場、性的な描写を繰り返し、どこか反逆的な言動をしたビアズリーは、変わり者としても名を馳せていました。ですが、彼の描く線の奥には、7歳で結核を患い、死と隣り合わせで生きた彼の人生が、確かに刻まれていました。

死を意識せざるを得なかった少年が、なぜあれほど退廃的で挑発的な美を描いたのか。この記事では、代表作を時系列でたどりながら、その裏にある彼の人生と内面を見つめてみたいと思います。

2-The_Yellow_Book_-_Volume_1_-_Plate_7The Yellow Book - Volume 1 - Plate 7Public domain, via Wikimedia Commons.

ビアズリーの生い立ち―病とともに育った少年

オーブリー・ビアズリー Aubrey Beardsley by Frederick Hollyer, 1893Public domain, via Wikimedia Commons.

1872年、イギリス・ブライトンに生まれたビアズリーは、7歳で結核を患います。当時、結核は“不治の病”とされ、本人も家族も「この子は長く生きられない」と思ったことでしょう。

彼は病気と闘いながら学校に通い、芸術と文学に親しみました。10代になる頃には、体調が安定する時期もありましたが、それでも病の影は常に心の奥に残っていたはずです。

16歳で保険会社に就職し、事務員として働き始めます。地味で淡々とした仕事の傍ら、彼は夜ごとに小説を書き、絵を描き続けました。「こんなふうに終わりたくない」「自分の才能で世間を驚かせたい」——そんな切実な思いが、彼の中で強まっていったのかもしれません。

18歳のとき、初めて雑誌に短編が掲載され、わずかながら原稿料を得ています。イラストレーターとして有名なビアズリーですが、文壇デビューの方が先でした。とはいえ、その後、文学作品を手がけたのは晩年だったので、やはり、絵の才覚のほうが際立っていたのでしょうね。

時代に一石を投じたビアズリーの3つの代表作

代表作① 長編小説『アーサー王の死』の挿絵(1893年)

代表作① 長編小説『アーサー王の死』の挿絵(1893年)The Holy Grail is Achieved, the frontispiece for the book, Le Morte d'ArthurPublic domain, via Wikimedia Commons.

19歳のとき、ビアズリーは自作の絵を持ってラファエル前派の画家バーン=ジョーンズのもとに押しかけ、その才能を認められます。

そしてある日、彼が懇意にしていたロンドンの書店の店主が、たまたま出版社のJ.M.デント社と知り合いだったことから、ビアズリーの作品を紹介する機会が生まれます。ビアズリーはその書店で、絵を描いては本と交換してもらっており、店主はその才能を高く評価していました。

当時、デント社はトマス・マロリーの長編作品『アーサー王の死』の出版を計画しており、その挿絵を担当できるアーティストを探していました。条件は、バーン=ジョーンズのような装飾的な挿絵が描けて、なおかつ報酬の安い若手アーティスト。ビアズリーはまさにその条件にぴったりの存在だったのです。

こうしてビアズリーは、『アーサー王の死』の挿絵という大きな仕事を任されることになります。

5-Arthur_and_the_strange_mantleAubrey Beardsley (1872-1898) for Le Morte d'Arthur, book IV, chapter XVI - Publisher: J. M. Dent & Co., London, 1893-1894.Public domain, via Wikimedia Commons.

6-How_King_Marke_found_Sir_TristramAubrey Beardsley for Le Morte d'Arthur, book IX, chapter XXI - Publisher: J. M. Dent & Co., London, 1893-1894Public domain, via Wikimedia Commons.

中世の騎士道物語に、耽美と死の香りを纏わせたその挿絵は、まさにビアズリーの世界の幕開けでした。黒と白の洗練されたコントラスト、幾何学的で装飾的な構図、そして空白の使い方。それらが組み合わさり、美しくも不穏な空気を生み出しています。

この作品によって、彼は一気に時代の寵児となりました。

代表作② 『サロメ』(1894年)

オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の英訳版に挿絵をつけるという大役を、ビアズリーは21歳で任されます。
当初、ワイルドは彼の才能に大いに感銘を受け、称賛の手紙を直々に送り、その絵筆に期待を寄せていました。

『サロメ』(1894年)Aubrey Beardsley: Die Apotheose, Illustration für Salome von Oscar Wilde, veröffentlicht in "The Studio", Vol. 1, Nr. 1, 1893.Public domain, via Wikimedia Commons.

しかし、制作が進むにつれて両者の芸術観にずれが生じていきます。ワイルドが望んだのは、作品の象徴性や劇的な雰囲気を補完する挿絵でしたが、ビアズリーは自分の世界観を押し出し、性的な暗喩や、どこにも出てこない登場人物を描き込んだ挿絵を次々に提出していきます。

時代考証を無視した衣装やポーズ、極端に引き伸ばされた手足などが目立つそのスタイルに、ワイルドは徐々に不満を募らせ、両者の関係は冷え込んでいきました。

『サロメ』(1894年)The original drawing of "The Peacock Skirt", an illustration by Aubrey Beardsley for Oscar Wilde's play Salomé (1894). Black ink and graphite on white wove paper.Public domain, via Wikimedia Commons.

さらにビアズリーは、挿絵の中にワイルドを戯画化した人物像を密かに紛れ込ませるという“報復”とも取れる行動に出ます。この皮肉な応酬を通じて、彼は自らの美学とユーモアを貫いたのです。

中でも有名な「孔雀の裳裾」には、ホイッスラーの『孔雀の間』やジャポニズムからの影響が色濃く表れています。この作品で彼は“美と毒の使い手”としての地位を確立します。

『サロメ』(1894年) Aubrey Beardsley(化粧をするサメロのワンシーン)Public domain, via Wikimedia Commons.

代表作③ 『イエロー・ブック』時代(1894年〜)

その年、彼は前衛文芸誌『イエロー・ブック』のアート・エディターに就任し、装丁や挿絵を手がけました。
この雑誌は、当時の保守的な価値観に挑むアーティストたちの発表の場でもあり、ビアズリーはその象徴的存在となり、美術界以外の一般大衆にも注目される存在になります。

『イエロー・ブック』時代(1894年〜)The Yellow Book - Volume 1 - Front CoverPublic domain, via Wikimedia Commons.

彼はこの雑誌で、古典や神話を題材にしたイラスト、風刺や寓意を含む作品を数多く掲載しました。
ページの余白を巧みに使い、テキストとの美しい融合を図ったそのレイアウトは、書物としての美を引き上げる革新的なと評判に。
特に、挿絵の中にユーモアや皮肉を潜ませる手法は、彼ならではの“毒気”を漂わせていました。

また、同誌を通じて若い作家や画家たちとの交流も盛んになり、ビアズリーは芸術家コミュニティの中心人物として一目置かれる存在になります。しかしその一方で、彼の作品に漂うエロティシズムや風刺精神は、スキャンダルと隣り合わせでもありました。

『イエロー・ブック』時代(1894年〜)Yellow Book Vol 3 Back CoverPublic domain, via Wikimedia Commons.

1895年、オスカー・ワイルドが同性愛の罪で逮捕されると、ビアズリーも『サロメ』の挿絵を描いたことからその関係性を取り沙汰され、保守層から激しい非難を浴びます。編集部は彼の更なる関与を避けるため、やむなく彼を解任。名声は一転して悪評へと変わり、ビアズリーは表舞台から姿を消すこととなりました。

その他、晩年の作品(1897〜)

病状は次第に悪化し、ビアズリーはイギリスを離れて南フランスで静養生活を送ります。1896年には、雑誌『サヴォイ』のアート・エディターにも就任しました。これは『イエロー・ブック』に続く新たな芸術雑誌として期待されていたもので、出版元はビアズリーに再び前衛的な誌面づくりを託します。

その他、晩年の作品(1897〜)The Savoy 1Public domain, via Wikimedia Commons.

しかし、ビアズリーの作風はすでに変化していました。かつてのような毒や挑発を前面に出すよりも、より緻密で静謐な表現へと移行していたのです。精彩に欠いた『サヴォイ』はその方向性が読者に受け入れられず、不発に終わり、1年も経たずに廃刊となりました。

その他、晩年の作品(1897〜)llustration ("the fruit bearers") by Aubrey Beardsley (1872-1898) from Savoye, a London-based magazine edited by Arthur Symonds. 1896Public domain,

そしてカトリックに改宗したビアズリーは死の間際、版元に宛てた手紙で「私の卑猥で不道徳な作品をすべて破棄してほしい」と懇願します。

この「卑猥で不道徳な作品」とは、戯曲『リューシストラテー』(1896)収録の作品のことを指しているようです。あらすじは、男たちが躍起になって続けている戦争をやめさせようと、女性たちが敵味方関係なく結託し、セックスストライキを決行して、性欲に負けた男性が戦争をやめる、というもの。そのため、挿絵も性的表現が満載だったのです。

しかし、晩年の性的表現が極端になくなり、良識的な作風に変化していたことを鑑みれば、若き日に自らの名を世に知らしめた絵も、破棄の対象だったのかもしれません。

いずれにせよ、その願いは叶わず、作品は後世に残され、私たちはいまなおその魅力に触れることができます。

初期には余白を大胆に活かしていた彼の構図は、晩年には余白がほとんど消え、細密な線によって画面全体が埋め尽くされるようになっていきます。まるで空白を拒むかのように、繊細な装飾が隙間なく描きこまれているのです。

それは祈りではなく、執念に近いような、死を目前にした者の「描き残したい」という衝動だったのかもしれません…。

線に宿る技と絶望——ビアズリーの表現世界

ビアズリーの作品には、技術的にも芸術的にも多くの魅力が詰まっています。白と黒のモノクロームで描かれる彼の挿絵は、色彩を使わずとも圧倒的な表現力を持ち、強烈な印象を残します。

彼の線は装飾的で流麗、そして時に鋭く攻撃的でもありました。細く繊細な線と、大胆に塗りつぶされた黒との対比。線と余白、あるいは“余黒”とも言える空間処理が、画面に独特のリズムと緊張感を生んでいます。

影響を受けたのは、ラファエル前派の抒情性、ホイッスラーの装飾感覚、そして日本の浮世絵や春画から学んだ線の大胆さと平面的な構成。ジャポニスムの流行の中で育まれたこれらの要素は、ビアズリーの中で融合され、まったく新しい美のスタイルへと昇華されていきました。

彼の作品に漂う退廃とグロテスク、そして耽美的な官能性。それらは、彼の技術とセンス、そして内に抱えた絶望が織りなす、まさに“黒と白の美学”だったと言えるのではないでしょうか。

まとめ:美は、絶望からも生まれる

オーブリー・ビアズリーの生涯は、わずか25年という短いものでした。彼が描いた線、描き残した美の数々は、今なお私たちの心を打ちます。

死と隣り合わせだったからこそ見えた世界、そして絶望の中でしか生まれなかったであろう挑発的な美。その線は、美しいだけでなく、ときに怖く、ときに挑戦的で、今もなお時代を超えて生き続けています。

奇才は、絶望から生まれた。

そして、その絶望は、美へと変わったのです。

ビアズリーの作品を見られる場所(日本)

現在、東京でビアズリー展が開催され、その後、福岡、高知を巡回します。ビアズリーの世界観を間近で体感できる絶好のチャンスです♪ ぜひ、彼のコケティッシュな線に触れてみてください!

そのほか、日本国内でビアズリーの作品を所蔵している代表的な美術館をご紹介します。お出かけの際は、事前に各美術館の情報をご確認ください。

三菱一号館美術館(東京都)

「異端の奇才ビアズリー展」

「異端の奇才ビアズリー展」
2025年2月〜5月にかけて「オーブリー・ビアズリー展」が開催。『アーサー王の死』や『サロメ』などの代表作が一堂に会する貴重な展覧会です。

<開催概要>
異端の奇才ビアズリー展
会期:2025年2月15日(土) ー 2025年5月11日(日)
開館時間:10:00-18:00
祝日を除く金曜日と会期最終週平日、第2水曜日、4月5日は20時まで
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日
但し、[トークフリーデー : 2月24日、3月31日、4月28日]、5月5日は開館
会場:三菱一号館美術館(https://mimt.jp/)
〒100-0005 東京都千代田区丸の内2-6-2
観覧料金:一般|当日 2,300円、前売 2,100円
大学生|当日 1,300円、前売 1,000円
高校生|当日 1,000円、前売 設定なし
巡回先:2025年5月24日~8月31日 久留米市美術館(https://www.ishibashi-bunka.jp/kcam/)
2025年11月1日~26年1月18日 高知県立美術館(https://moak.jp/)

神奈川県立近代美術館(神奈川県)

神奈川県立近代美術館(神奈川県)
数点のビアズリー作品を所蔵。企画展で紹介されることもあります。

住所:神奈川県立近代美術館 葉山
〒240-0111 神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
Tel. 046-875-2800
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-1
Tel. 0467-22-5000
開館時間:午前9時30分から午後5時(入場は午後4時30分まで)
休館日:月曜日(ただし、祝日及び振替休日の場合は開館)
年末年始:(12月29日–1月3日)

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国場 みの

国場 みの

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建築出身のコピーライター、エディター。アートをそのまま楽しむのも好きだが、作品誕生の背景(社会的背景、作者の人生や思想、作品の意図…)の探究に楽しさを感じるタイプ。イロハニアートでは、アートの魅力を多角的にお届けできるよう、楽しみながら奮闘中。その他、企業理念策定、ブランディングブックなども手がける。

建築出身のコピーライター、エディター。アートをそのまま楽しむのも好きだが、作品誕生の背景(社会的背景、作者の人生や思想、作品の意図…)の探究に楽しさを感じるタイプ。イロハニアートでは、アートの魅力を多角的にお届けできるよう、楽しみながら奮闘中。その他、企業理念策定、ブランディングブックなども手がける。

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