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STUDY

2025.4.18

オスカー・ワイルドとオーブリー・ビアズリーの出会いと別れ。禁断の戯曲『サロメ』も詳しく紹介!

19世紀末のヨーロッパ。芸術と文学の世界では、伝統と革新、官能と抑圧、光と影がせめぎ合っていた。そんな時代に、二人の異才が運命的に出会う。

ひとりは、鋭利な言葉で世相を切り裂き、英国社交界を沸かせた劇作家、オスカー・ワイルド。
もうひとりは、黒と白の線のみで耽美の宇宙を描き出した若きイラストレーター、オーブリー・ビアズリー。

彼らはたった一度の共演で、芸術史に永遠の爪痕を残した。

オスカー・ワイルド──華麗なる挑発者

1854年、アイルランドのダブリンに生まれたオスカー・ワイルドは、詩人であり、劇作家であり、審美主義の旗手でもあった。美を至上とする彼の哲学は、「芸術のための芸術(L'art pour l'art)」という思想に根差していた。

オスカー・ワイルド、ナポレオン・サロニー撮影、1882年オスカー・ワイルド、ナポレオン・サロニー撮影、1882年, Public domain, via Wikimedia Commons.

オックスフォード大学で古典文学を学び、若くして詩人として注目を集めると、その後はサロンや講演会で名声を高めていく。彼の会話術は伝説的で、鋭い皮肉と洗練された言い回しで人々を魅了した。

ロンドンを中心に活躍したワイルドは、当時の厳格なモラルに背を向け、自由で享楽的な美学を貫いた。彼の作品は、道徳を重んじる保守的な階級からは忌避されたが、若き芸術家たちには熱烈に支持された。

オーブリー・ビアズリー──黒い線の詩人

1872年、イングランド・ブライトンに生まれたビアズリーは、幼少期から結核を患い、健康とは無縁の人生を歩んだ。しかしその虚弱な肉体とは裏腹に、彼の筆は想像力と挑発に満ちていた。

オーブリー・ビアズリー、フレデリック・ホリアー撮影、1893年オーブリー・ビアズリー、フレデリック・ホリアー撮影、1893年, Public domain, via Wikimedia Commons.

ビアズリーは、日本の浮世絵、ギリシャ神話、ルネサンス美術、そして師であるエドワード・バーン=ジョーンズからの影響を受け、異常なまでに繊細な線と大胆な構図を武器に独自の世界を築いた。

1892年、『ザ・スタジオ』誌に掲載された挿絵で一躍有名となり、21歳にしてロンドン芸術界の寵児となる。そのスタイルは、優雅でありながら背徳的。黒インクだけで表現されたその世界は、どこか夢の中のような、あるいは悪夢のような美しさをたたえていた。

ビアズリーはまた、風刺のセンスにも長けており、しばしば当時の文化や人物を皮肉るようなモチーフを作品に忍ばせていた。その作品はただの装飾ではなく、時に観る者を不快にさせるほどに、現代社会の裏側を抉り出していた。

出会い──運命の戯曲『サロメ』

1893年、ワイルドが執筆したフランス語の戯曲『サロメ』が、ふたりを結びつける。

この戯曲は、聖書に登場する王女サロメが、預言者ヨハネの首を求め、ついにはその生首に口づけするという、禁忌と欲望の物語だった。当時のイギリスでは、聖書の人物を舞台に登場させることが禁止されていたため、上演は見送られた。

オーブリー・ビアズリー『サロメ』挿絵 クライマックスカート 1894年オーブリー・ビアズリー『サロメ』挿絵 クライマックスカート 1894年, Public domain, via Wikimedia Commons.

出版を決めたワイルドは、挿絵を描くアーティストを探していた。そして『ザ・スタジオ』でビアズリーの作品を目にし、即座にその異才に惹きつけられる。まだ21歳という若さだったが、その表現力は群を抜いていた。

共鳴と衝突──絵が言葉を超えた瞬間

ビアズリーにとって『サロメ』は、ただの仕事ではなかった。それは挑戦であり、自らの美学をぶつける舞台だった。

描かれた挿絵は、細密で妖艶。サロメの髪は蛇のようにうねり、流れる血はユリの花を育て、男と女の境界は曖昧だった。すべてが暗喩に満ちており、視線を逸らせない。

オーブリー・ビアズリー『サロメ』挿絵 ダンサーズ・リワード 1894年オーブリー・ビアズリー『サロメ』挿絵 ダンサーズ・リワード 1894年, Public domain, via Wikimedia Commons.

その大胆さに、ワイルドは当初戸惑いを見せた。彼は「このままでは、戯曲が絵の説明に成り下がってしまう」と苦言を呈したという。絵が語りすぎることに対して、作者としての威厳が揺らいだのかもしれない。

しかし最終的には、彼はビアズリーの感性を全面的に受け入れた。フランス語版の『サロメ』に記された献辞には、彼の尊敬の念が込められている。

「私以外で、『七つのヴェールの踊り』が何であるかを知り、
 それを目に見えないまま描ける唯一のアーティストに。」

緊張する友情──理解と距離感

二人の関係は、最初こそ創造的な刺激に満ちていたが、やがてすれ違いが生じるようになる。

ワイルドは文学という言語による美を重視した。一方、ビアズリーは視覚芸術の力を信じており、挿絵を単なる補助的なものとして扱うことを拒んだ。

オーブリー・ビアズリー『サロメ』挿絵 ピーコックスカート 1894年オーブリー・ビアズリー『サロメ』挿絵 ピーコックスカート 1894年, Public domain, via Wikimedia Commons.

ある挿絵では、ワイルドの風貌を模した人物が登場するなど、ビアズリーの皮肉はますます鋭さを増していく。そうした描写はワイルドを喜ばせると同時に、困惑させることもあったという。

それでも二人の間には、芸術に対する熱い情熱が通っていた。彼らは異なる道を歩みながらも、同じ「美」という山を目指していたのである。

破局──スキャンダルの奔流へ

1895年、ワイルドはアルフレッド・ダグラス卿(通称ボージー)との関係を告発され、「甚だしいわいせつ行為」の罪で逮捕される。イギリス社会はこのスキャンダルに沸き返り、ワイルドは社会的地位も名誉もすべてを失った。

この騒動に巻き込まれる形で、ビアズリーもまた被害を受ける。当時、彼がアートディレクターを務めていた雑誌『ザ・イエロー・ブック』は、ワイルドと無関係だったにもかかわらず非難の的となる。

ビアズリーによるイエロー・ブック第2号表紙 1894年7月ビアズリーによるイエロー・ブック第2号表紙 1894年7月, Public domain, via Wikimedia Commons.

マスコミはワイルドがホテルから出るときに黄色い本を小脇に抱えていたと報じたが、実際にはフランスのエロティック小説だった。しかし『ザ・イエロー・ブック』の名は傷つき、ビアズリーは解任される。

ビアズリーは精神的にも経済的にも大きな打撃を受け、居場所を失い、フランスへと移住する。そこで彼は静かに、しかし燃えるような意志で制作を続けた。

終幕──信仰と孤独の果てに

獄中生活の末に出所したワイルドは、パリで暮らしながらも精神的に疲弊し、1900年に46歳でその生涯を閉じた。彼は最期にこう残している。

「我々は皆、溝の中にいる。しかし、幾人かは星を見上げている。」かつての社交界の寵児は、芸術界からも遠ざけられ、孤独に死んだ。

一方のビアズリーは、病と闘いながらも制作を続けた。晩年にはカトリックに改宗し、死の直前には「自分のエロティックな作品をすべて破棄してほしい」と手紙で願い出ている。

しかし彼の願いとは裏腹に、作品は後世に引き継がれ、“退廃の美”の象徴として再評価されていく。1898年、わずか25歳でこの世を去った。

美と背徳に殉じた魂

オスカー・ワイルドとオーブリー・ビアズリー。時代を逆撫でするように現れ、社会の道徳や規範に挑戦しながら、それぞれの表現で「美」の限界を追求したふたり。

彼らの出会いが生んだ『サロメ』は、ただの戯曲でも、ただの挿絵でもない。文字と線が対等に語り合い、ひとつの芸術として昇華された、まさに禁断の傑作であったことは間違いないだろう。

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つくだゆき

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東京美術館巡りというSNSアカウントの中の人をやっております。サラリーマンのかたわら、お休みの日には、美術館巡りにいそしんでおります。もともとミーハーなので、国内外の古典的なオールドマスターが好きでしたが、去年あたりから現代アートもたしなむようになり、今が割と雑食色が強いです。

東京美術館巡りというSNSアカウントの中の人をやっております。サラリーマンのかたわら、お休みの日には、美術館巡りにいそしんでおります。もともとミーハーなので、国内外の古典的なオールドマスターが好きでしたが、去年あたりから現代アートもたしなむようになり、今が割と雑食色が強いです。

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