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STUDY

2025.4.8

今こそ知りたい木島櫻谷。忘れられた「文展の寵児」の生涯を徹底解説!

木と島と櫻(さくら)と谷。名は体を表すとは、よく言ったものです。

木島櫻谷の作品(《菊花図》(右隻)・《寒月》(左隻)・《駅路之春》(右隻))

木島櫻谷(このしま おうこく、1877-1938)は、動物や自然風景の絵を得意とした日本の画家。きじま、と読みそうになりますが、「このしま」です。

長らく忘れられた画家でしたが、近年再評価が進み、じわじわと人気が出てきている日本画の巨匠でもあります。注目度が高まっている今だからこそ、木島櫻谷について一緒に調べてみませんか?

木島櫻谷ってどんな画家?

Konoshima Okoku 木島櫻谷 (1877-1938), Public domain, via Wikimedia Commons

先にポイントを解説しておきます。

①文展を中心に活躍し、国内外で高く評価される
②櫻谷自身は人付き合いを好まず、穏やかな性格
③長らく忘れられていたが、再評価が進んでおり要注目

ポイントを押さえられたら、櫻谷がどんな生涯を送ったのか、じっくり見ていきましょう。

生粋の文化人、若き日の櫻谷

1877年3月6日、櫻谷は京都の三条室町に誕生。本名は文治郎といいます。曽祖父が狩野派の絵師という木島家の次男に生まれました。

当時の三条室町周辺には多くの芸術家が住まい、子ども時代の櫻谷は画塾を覗いてみたりと、小さい頃から絵に興味があった様子。一旦は商業学校に入学するものの、退学して絵の道へ進みます。

今尾景年《春園双孔雀図》, Public domain, via Wikimedia Commons.

16歳の櫻谷が門を叩いたのは、父の友人であり近くに住んでいた画家、今尾景年(いまお けいねん、1845-1924)でした。特に花鳥画や山水画で名を馳せた人気作家です。

景年は運筆や写生などの基礎を教えつつ、弟子が試行錯誤して自分の絵を開拓しようとすることに寛容でした。当時の絵の勉強といえば師匠の手本を模写する「臨画(りんが)」が主流だったため、個性を閉じ込めない育成方針は稀だったと言えます。

Kikuchi Yoosai / (of the reproduction) Tokyo National Museum, Public domain, via Wikimedia Commons

櫻谷は儒医・本草学者の山本渓愚(やまもと けいぐ、1827-1903)らが運営する平安読書室にも通い、漢籍を学びます。また、菊池容斎(きくち ようさい、1788-1878)への私淑*によって、歴史画への造詣も深めました。

*私淑=直接教えを受けたわけではないが、著作などを通じて傾倒して師と仰ぐこと。

こうした知識や教養と、徹底した写生の積み重ねが結びついたのか、櫻谷は歴史画に花鳥画、山水画など、さまざまなジャンルの絵画で実力を発揮します。20代という若さで頭角を現し、京都では評判の画家に。

浅井忠《春畝》, Public domain, via Wikimedia Commons.

同じ頃、櫻谷は洋画家の浅井忠(あさい ちゅう、1856-1907)とも出会っています。風景の写生に西洋絵画の遠近法らしい捉え方が見られたり、作品に油彩画のような厚いタッチが見られるようになったのは、浅井の影響があるのではないかと言われています。

着々と実力を磨き、評価をものにしていった櫻谷。30代を迎えた彼に、ある転機が訪れます。

「文展の寵児」と称されて

1907年、文部省美術展覧会、いわゆる「文展」が開設されました。日本で最初となった官営の美術公募展です。

木島櫻谷《しぐれ》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

日本画では菱田春草《賢首菩薩》をはじめ実力派の画家たちの出品があるなか、櫻谷が描いた《しぐれ》は二等一席に選ばれました。一等該当なしのため、事実上の主席です。

以降も文展に出品を続けた櫻谷の作品は、動物画、歴史画、風俗画など多岐にわたります。しかも第1回から第6回まで6年連続の上位入賞を達成し、早熟の天才としてその名を世に轟かせました。

木島櫻谷《寒月》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

しかし、第6回文展に出品した《寒月》が賛否両論に晒されます。夏目漱石が「写真屋の背景にした方が適当な絵」と酷評したことが知られているほか、東西画壇の軋轢もあって、本質から離れた議論もあったようです。

(櫻谷のずば抜けた芸術の才への嫉妬もあったのではないか……と私個人としては思います)

当の櫻谷は多くを語らず、漱石の批判にも反論を表すことはありませんでした。自然を見つめ、漢籍を愛した櫻谷は、わざわざ同じ土俵に立つ気になれなかったのかもしれません。

木島櫻谷《駅路之春》(左隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

幸い第7回では審査員になり、出品作は審査を受けなくて済むように。以降、ますます活躍の場を広げ、自身も精力的に作品を発表するほか、帝展などの審査員も継続しました。

同じ頃、櫻谷は衣笠に自邸を構えて移住。自然豊かな環境は櫻谷の性格にも合っていたらしく、絵を描くことはもちろん、読書や古書画の収集といった趣味にものめりこんでいきました。

木島櫻谷《行路難》①, Public domain, via Wikimedia Commons. 木島櫻谷《行路難》②, Public domain, via Wikimedia Commons.

環境が制作に適していたからか、櫻谷を慕ってか、菊池契月や山口華楊をはじめとする画家たちも衣笠へ。同地は「絵描き村」と呼ばれるようになりました。

おうこくさん、画三昧の晩年

50代に入ると、櫻谷は審査員などの業務から身を引き、衣笠でより多くの時間を過ごすように。一方で、依頼に応じて国内外の展覧会に出品したり、美術雑誌に寄稿する文筆家らしい仕事も見られたり、完全な隠居とまでは行かず活動していました。

当時の作品で印象深いのが《画三昧》です。恍惚とした表情を浮かべる老人の目には、いったい何が映っているのでしょうか。絵に没頭した自身の姿とも捉えられる本作には、櫻谷の思想や理想が詰まっているように思います。

画家としても文化人としても、これから深みを増していこうという時期。不幸は突然に訪れました。

1938年、不慮の電車事故により、櫻谷はこの世を去ります。享年62歳でした。

財布も持たず、写生帖と矢立(携帯用の筆記具)だけを手に、ぶらりと出かけては写生に取り組んだ櫻谷。当時も今も、親しみを抱く人々から「おうこくさん」と呼ばれています。

櫻谷が忘れられていた理由とは?

はっきりとコレが理由、とは言い切れないのですが、ガツガツしない性格であったことや、ひっそりと生涯を閉じたことが影響し、歴史に埋もれてしまったのではないかとと考えられます。

また、伝わっている作品が比較的少ないのも理由のひとつとして考えられるそう。近年、泉屋博古館が櫻谷を再評価したことをきっかけに、関心が高まっています。

木島櫻谷の代表作

特に動物画が高く評価され、現在の人気にもつながっていますが、櫻谷は歴史画や山水画などをはじめ幅広いジャンルの絵を描きました。ここでは代表作として《寒月》《しぐれ》《駅路之春》を紹介します。

《寒月》(1912)

木島櫻谷《寒月》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

雪深い竹林とそれを淡く照らす月の風景は、冬の冷たい空気と独特の静けさまでも思わせます。第6回文展二等賞の作品です。

櫻谷は鞍馬で雪に動物の足跡が残っている月夜の光景を見て、本作を着想したそうです。単調になりやすいまっすぐな竹の配置や、動物園で写生した狐の野生らしい緊張感を出すのに苦労した、とのこと。

私は下弦の月に1本だけ竹が重なっている所が大好きです。あえて1本だけ、というのが好き。

木島櫻谷《寒月》(左隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

夏目漱石が酷評したのも本作ですが、狐の描き方……というか、櫻谷の動物の描き方が気に入らなかった様子。前年の《若葉の山》に描かれた鹿まで引き合いに出して批判しました。

《しぐれ》(1907)

木島櫻谷《しぐれ》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

子を連れた鹿の群れが通る様子を描いた作品。鹿が木の葉や枝を踏む乾いた音が聞こえてきそうなほど写実的で、思わず息を呑んでしまいます。本作は第1回文展で日本画の最高位に選ばれました。

優雅な大人の鹿や無邪気な子鹿の描写には、奈良公園での写生が生かされているといいます。詩情豊かな画面にまとめあげられた、櫻谷ならではの作品です。

木島櫻谷《しぐれ》(左隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

はじめは違う鹿の作品を出品するつもりでしたが、気に入らなかったのか締切寸前に破り捨ててしまったそう。その後、本作を一気呵成に描き上げて出品し、最高位へ……と、櫻谷の画才が伺える驚愕のエピソードです。

《駅路之春》(1913)

木島櫻谷《駅路之春》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

茶店で談笑する男女が描かれた左隻と、馬と馬丁が静かに休む右隻。春の日差しの下に描き出された対照的な場面の中で、馬丁の小さな背中が何かを物語ろうとしているように思います。

本作は《寒月》の翌年、第7回文展に出品された作品です。比較すると、彩りが豊かでずいぶん賑やかになった印象を受けます。

木島櫻谷《駅路之春》(左隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

《駅路之春》は、櫻谷の色彩の時代のピークを示す作品のひとつとされています。写生に基づくモチーフの理解と装飾性が融合した本作は、櫻谷芸術の真髄と言っても良いのでは。

木島櫻谷の絵画が見られる(かもしれない)美術館

櫻谷の絵画を所蔵する主な美術館を紹介します。ただし、美術館の展示作品は展覧会ごとに異なるので、常に櫻谷の絵画が見られるとは限らない点は、ご了承ください。

櫻谷の絵を狙って見に行きたい場合は、「木島櫻谷展」といった展覧会が開かれている最中がおすすめです。また、所蔵館が他の美術館に作品を貸し出しており、貸出先で見られることもあります。

①京都市京セラ美術館:《寒月》《和楽》など
②福田美術館:《駅路之春》《嵐山清流》など
③泉屋博古館:《幽渓秋色》《葡萄栗鼠》など
④東京国立近代美術館:《しぐれ》
⑤京都国立近代美術館:《遊鹿図》など
⑥櫻谷文庫:《剣の舞》《画三昧》など

2025年4月26日(土)~7月6日(日)には、福田美術館と嵯峨嵐山文華館で櫻谷の大回顧展『京都の巨匠・木島櫻谷 画三昧の生涯』が開かれます。《駅路之春》をはじめ名品が見られる機会なので、足を運んでみてはいかがでしょうか。

おまけ:『櫻谷文庫』とは?

櫻谷が暮らした衣笠邸は、「櫻谷文庫」として現存しています。当時の暮らしを偲ぶことのできる文化財であるのみならず、櫻谷の絵画や写生帖など貴重な作品を1万点近く所蔵しています。

櫻谷文庫は和館・洋館・画室の3つの棟からなり、いずれも国の登録有形文化財に指定。通常は非公開ですが、定期的に一般公開されています。

あらためて、木島櫻谷ってどんな画家?

木島櫻谷の写生帖より。弟子の熊谷が連れてきた猫とのこと, Public domain, via Wikimedia Commons.

子どもの頃から絵が好きで、その道を極めた木島櫻谷。漢籍にも精通し、教養を活かした画風で、若くして人気画家になりました。

それゆえか、批判に晒されることも多くありました。櫻谷はいちいち戦いませんでしたが、それは逃げでも負けでもなく。他者にどう思われるかではなく、絵を描くことに集中したかったのでしょう。

令和の今、櫻谷の生き方に共感する人は多いのではないかと思います。人生の大先輩、おうこくさんの絵を見に出かけてみませんか?

本記事の執筆にあたり、以下の文献を特に参考にしました。ウェブサイトは数が多く上げきれないので、主な参考サイトを紹介します。

『木島櫻谷 画三昧への道』(2022) 実方葉子著、東京美術
公益財団法人櫻谷文庫(旧木島櫻谷家住宅)
http://www.oukokubunko.org
福田美術館『京都の巨匠・木島櫻谷 画三昧の生涯』
https://fukuda-art-museum.jp/exhibition/202411123879

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明菜

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美術ブロガー/ライター。美術ブログ「アートの定理」をはじめ、各種メディアで美術館巡りの楽しさを発信している。西洋美術、日本美術、現代アート、建築や装飾など、多岐にわたるジャンルを紹介。人よりも猫やスズメなど動物に好かれる体質のため、可愛い動物の写真や動画もSNSで発信している。

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