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2025.6.4

ギュスターヴ・クールベ|揺るがぬ自負と反骨心でリアリズムを描く男

ギュスターヴ・クールベの魅力は、絵の素晴らしさはもちろんのこと、画家としての「カッコよさ」と「生き様」にあります。19世紀フランスに生きた画家で、写実主義(リアリズム)という新しい絵画スタイルを確立した革命的存在です。

彼の名前を聞いたことがある人は少なくないかもしれません。しかし、具体的にどんな人物で、どんな作品を描いたのか…となると、少し難しく感じますよね。

クールベについてまず知ってほしいのは、彼がとにかく「自分に正直な人」だったということです。

「天使なんて見たことがないから描かない」

そんな名言を残した彼は、目の前にある“リアル”を徹底的に描き続けました。貴族や聖書ではなく、農民や労働者、さらには自分自身の姿までも堂々と描いたその姿勢は、当時の常識を打ち破るものでした。

この記事では、

・クールベの人物像
・自画像に込めた思いと表現手法
・波紋を呼んだ「世界の起源」など問題作の背景
・「画家のアトリエ」に見るクールベの美学
・革命と自由を貫いたその激動の人生

についてわかりやすく説明します。

記事を読み終える頃には、「クールベってなんか好きかも!!」と感じているはずです。
ぜひ最後まで読んでみてください!!

クールベの人生と性格:時代に反逆したリアリスト

ギュスターヴ・クールベギュスターヴ・クールベ:Gustave Courbet, photo Atelier Nadar, c. 1860s., Public domain, via Wikimedia Commons.

ギュスターヴ・クールベは1819年、フランス東部の田舎町オルナンで生まれました。

地主で村長も務めた父と、美しいと評判の母のもとに育ち、恵まれた環境の中で少年時代を過ごします。親から将来は法律家になることを望まれパリの大学に進学します。しかし、彼の心はすでに「絵を描くこと」に向かっていました。

クールベはルーブル美術館で名画の模写を重ねながら、ほぼ独学で画家としての道を切り開いていきます。

しかし、当時の美術界の中心「サロン(国の公式展覧会)」を保守的なアカデミズムが支配していました。クールベは何度も落選を経験します。その頃の自画像には「絶望」とタイトルが付けられるほど、苦しい時期が続きました。

転機は1849年に訪れます。クールベが描いた『オルナンの食事』がサロンで二等賞を受賞し、国に買い上げられることになったのです。これにより彼は“無審査”で出品できる特権を得て、名実ともに注目の画家となりました。

田舎の様子を描いた作品がなぜ急に評価されたのでしょうか。それは、前年の1848年の労働者革命により「労働者が偉い」という価値観が広まった時代背景があったからです。

クールベはこの作品の入賞だけで満足するタイプではありませんでした。もっと立派な作品を描こうと『オルナンの埋葬』を制作します。農民たちの葬式という「庶民的」なテーマを、幅6メートル以上の巨大なキャンバスに、まるで歴史画のように描きました。

しかしこの作品が発表された時には、ナポレオン3世がのし上がってきて、保守派が政権を巻き返しにきていました。そのため、せっかく描いた大きな絵画は「庶民は小さく、英雄は大きく描くべき」という価値観に真っ向から反抗するものとみなされ、激しい批判を浴びます。

反骨的なクールベは、世間からの反発にまったく動じません。「羽の生えた人間なんて見たことがないから、天使は描かない」と言い放ち、あくまで「現実」を描くことにこだわったのです。

その性格はまさに破天荒といえます。ナポレオン3世に「見にくい」と絵を批判されれば、「弁償してもらうために、破れやすいキャンバスで描けばよかった」と皮肉を飛ばしました。パリ万博への出品を拒否されたら、万博会場の目の前で個展を開き、そこに自らの代表作をずらりと並べて見せつけたのです。

彼は「芸術は生き様である」という信念のもと、常識や権力に抗い続けました。人々に迎合せず、あくまで自分の目と感覚を信じて絵を描き続けたクールベ。その姿勢こそ、彼が「リアリズムの旗手」「革新の画家」と称される理由です。

この“ぶれなさ”は、今の私たちに共感や勇気を与えてくれる最大の魅力ではないでしょうか。

クールベの芸術スタイル:リアルって、こんなに力強い

『オルナンの埋葬』(1849-1850年)『オルナンの埋葬』(1849-1850年):Gustave Courbet - A Burial at Ornans - Google Art Project 2.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

ギュスターヴ・クールベが美術史に刻んだ最大の功績、それは「リアリズム(写実主義)」という新たなジャンルを確立したことです。「リアリズム」と聞くと、「ただ写真みたいに上手に描くこと?」と感じる方が多いかもしれません。クールベが目指したリアルは、見たものを描くことだけではありませんでした。

彼の描く「リアル」とは、「現実の生活の真実」を見つめることといえます。歴史や神話、理想の美ではなく、自分が生きている今の時代、人々の感情や社会の矛盾までをも絵にしていこうという強い意思に満ちていました。その代表例が『オルナンの埋葬』です。

当時、大きなキャンバスに描かれるのは、神話や宗教画が主流でした。しかし、クールベは田舎の村で行われる「普通」の葬儀の光景を、幅6メートル超という巨大サイズで描いたのです。

もう一つ注目すべきは、人物の描き方です。当時は、神々や貴族が大きく、庶民は小さく描かれるのが「美術のマナー」とされていました。そのような常識をクールベは完全に無視します。庶民を堂々とした大きさで、しかも一切理想化せず、しわも重みもそのままに描いたのです。

美術界にとって衝撃が走りました。「こんなものを大きく見せるなんて、常識外れだ!」と激しく非難されましたが、クールベは世間からの反発に屈しません。

他にも、彼の作品には他にもリアルを貫いた象徴的なものがあります。

*写実主義については、こちらの記事も参考にしてください。

クールベの代表作

クールベが残した作品のなかで、いくつか代表的なものを紹介します。

『黒い犬を連れた自画像』(1844年)

『黒い犬を連れた自画像』(1844年)『黒い犬を連れた自画像』(1844年):File:Gustave Courbet - Self-Portrait with Black Dog - WGA05480.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

絵の中で不敵な笑みを浮かべる彼自身は、すでに「世の中に媚びないぞ」という意志を感じさせます。

『水浴する女たち』(1853年)

『水浴する女たち』(1853年)『水浴する女たち』(1853年):File:Gustave Courbet - The Bathers.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

理想化された裸体ではなく、実在する女性の肉体をリアルに描き、そのボリュームや肌の質感に「ありのままの美」を追求しました。

『画家のアトリエ』(1855年)

『画家のアトリエ(私の芸術的人生の7年間を要約する現実的寓意)』部分1855年『画家のアトリエ(私の芸術的人生の7年間を要約する現実的寓意)』部分1855年:File:Gustave Courbet - The Studio of the Painter - WGA05465.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

「現実的寓意」と副題がついたこの作品では、社会の分断とクールベ自身の立場を比喩的に描いています。右側には彼を支持する知識人や芸術仲間、左側には商人や聖職者といった「体制側」の人々。そして中央には静かに絵を描くクールベ自身がいます。「リアリズムとは何か」を体現したような一作と言えるでしょう。

クールベの芸術スタイルは、技術力の高さだけでなく、「なにを、どう描くか」という視点の鋭さにあります。当時のルールに抗いながらも、「誰の人生にも意味がある」という人間愛にあふれたまなざしが、彼の作品をより力強く魅力的なものにしているのです。

『世界の起源』の衝撃:アート史を揺るがした禁断の一枚

『世界の起源』(1866年)『世界の起源』(1866年):File:Gustave Courbet-L'Origine du Monde-1866.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

ギュスターヴ・クールベの名を世界的に知らしめた、そして今なお語り継がれる問題作が『世界の起源(L’Origine du monde)』。タイトルだけを聞くと、まるで哲学書のようにも思えますが、実際に描かれているのは、なんと「女性の下半身のクロースアップ」です。

顔もなく、視線もない、ただ生々しく描かれた「生命の源」。この絵が完成したのは1866年のことでした。

そもそも、なぜこんな絵を描いたのか?

クールベは「現実しか描かない」と公言していた画家です。天使も神話も、見たことのないものは信じない。だからこそ、「生きている人間の身体や感情や社会の姿」を描くことにこだわり続けていました。

この『世界の起源』は、彼にとって究極のリアリズムの表現だったとも言えるでしょう。「命が始まる場所」「人間の出発点」というテーマを、比喩でも象徴でもなく、ストレートに「ありのまま」の形で描いた、それがこの作品の本質です。

なぜそこまで問題視されたのか?

この作品が問題視されたのには、2つ理由があります。

1つ目に、その「リアルすぎる」描写があげられます。身体の一部を非常にアップして切り取るという構図自体が当時の常識ではありえませんでした。あからさまな性的描写と受け止められました。

2つ目には画面から「視線」が消えていることです。この絵にはモデルの顔がありません。観る者はただ、視線を受けることなく、凝視する側になります。この構図は当時の「見る/見られる」という美術の構造を根底から揺さぶるものでした。

作品は長らく「封印」されたような状態で、個人コレクターの手から手へと渡り歩き、公の場に出ることはほとんどありませんでした。フランスのオルセー美術館に正式に収蔵されたのは、なんと1995年。完成から約130年後のことです。
でも、ただ“衝撃的”なだけじゃない
『世界の起源』は、多くのアーティストに影響を与えました。デュシャンやカプーアなどがこの絵を意識した作品を発表しています。

クールベ自身はこの作品を、単なるエロティシズムとは思っていませんでした。「人間の真実を描く」という自分の芸術信念を突き詰めた結果が、たまたまこのような絵となったのです。

自画像に込められた“自分らしさ”:見つめる瞳の奥にあるもの

クールベ自画像(1843年)クールベ自画像(1843年):Gustave Courbet - Le Désespéré (1843).jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

アートの世界で自画像は、画家が「自分自身」をどう見ていたかを知る重要な手がかりになります。ギュスターヴ・クールベにもいくつかの自画像が残されており、それぞれが彼の時代背景や心の内をリアルに映し出しています。

特に有名なのが、1844年頃に描かれた『黒い犬を連れた自画像』です。当時25歳のクールベは、まだ無名でありながらも強い信念を持ち、パリの美術界で名を上げようとしていました。絵の中の彼は、山道にたたずむ姿でこちらをじっと見つめ、まるで「これから自分がなにをするか、よく見ていろ」と語りかけてくるようです。

『黒い犬を連れた自画像』(1844年)『黒い犬を連れた自画像』(1844年):File:Gustave Courbet - Self-Portrait with Black Dog - WGA05480.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

鋭い目つき、やや反抗的にも見える口元、堂々としたポーズ。彼の自画像からは一貫して、「他人の評価に依存しない自分らしさ」がにじみ出ています。

興味深いのは、自画像においても彼が「理想化を避けた」点です。当時の画家たちは、自分を「英雄」や「知識人」のように描くのが通例でした。しかし、クールベはあくまでもリアルに、自分の肌や髪、表情の曖昧さまでを描き込みました。これは、彼が「どんな場面でもリアルを貫く」姿勢の一端といえるでしょう。

さらに彼の自画像には、「見る/見られる」というテーマも含まれています。鑑賞者の視線に対して、クールベは真正面から視線を返します。「私はこういう人間です」と一方的に見せるのではなく、「あなたは、私をどう見るのか?」と問いかけるような仕掛けになっているということですね。

クールベは自分自身を誇張も飾りもせず、ただそのままに描くことで、「リアルな自分を描くこともまた、リアルな社会を描くことと同じ価値がある」と示しました。

クールベの芸術作品を所蔵している日本の美術館

『傷ついた男』(自画像)(1844年)『傷ついた男』(自画像)(1844年):File:Gustave Courbet - Der Verwundete - 2376 - Österreichische Galerie Belvedere.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.

クールベの作品は本場フランスだけでなく、実は日本でも鑑賞することができます。
日本国内の美術館をご紹介します!

国立西洋美術館(東京都)

馬小屋(1873年)、肌ぬぎの女(1867年)、罠にかかった狐(1860年)、もの思うジプシー女(1869年)など

*展示中の作品があります。公式HPで確認の上、ぜひ足を運んでみてください。

山梨県立美術館(山梨県)

川辺の鹿(1864年)、嵐の海(1865年)
「『腐食銅版画家協会:近代の腐食銅版画』誌」村の娘たち(1862 - 1867年)

東京富士美術館(東京都)

水平線上のスコール(1872-1873年)

*現在、名古屋市美術館で開催されている「西洋絵画の400年」にてこの作品がみられます。(2025年6月8日まで開催中)

メナード美術館(愛知県)

デズデモーナの殺害(1866年)

まとめ

彼はただの「写実的な絵を描いた画家」ではありませんでした。自分の目で見たもの、自分の信じる価値観、そして社会への思いを、筆に込めてキャンバスにぶつけた「魂のリアリスト」です。

・誰も描かなかった庶民の日常を、歴史画のように堂々と描いた『オルナンの埋葬』
・自分自身の姿すら飾らずにリアルに見せた自画像
・美術史に衝撃を与えた『世界の起源』

どの作品も、見る人に問いを投げかけてきます。

彼は1877年、58歳でスイスにて生涯を閉じました。晩年、パリ・コミューン(※1871年にパリの労働者や市民たちが権力を掌握して樹立した、史上初の社会主義政権。わずか2か月で崩壊したが、後世に大きな影響を与えました)に関与した責任を問われ、財産没収と巨額の賠償金を課せられます。亡命生活を余儀なくされました。

不思議なのは、賠償金の初回支払い期限日だった1877年12月31日に彼はこの世を去ったのです。最後まで権力に屈することなく、自分の信念を貫き通したクールベ。彼のリアルを求める姿勢は、今も私たちに強いインスピレーションを与え続けています。

時代の常識に抗い、権威に逆らい、自分の信念に正直に生き抜いたクールベの姿は、現代を生きる私たちへのメッセージのようにも感じられますね。

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加藤 瞳

加藤 瞳

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本の執筆をメインに活動中。イロハニアートでは「難しい言葉をわかりやすく。アートの入り口を広げたい」と奮闘する。幼い頃から作品を作るのも見るのも好き。40代の現在も、自然にある素材や家庭から出る廃材を使って作品を作ることも。美術館から小規模のギャラリーまで足を運んで、アート空間を堪能している。

本の執筆をメインに活動中。イロハニアートでは「難しい言葉をわかりやすく。アートの入り口を広げたい」と奮闘する。幼い頃から作品を作るのも見るのも好き。40代の現在も、自然にある素材や家庭から出る廃材を使って作品を作ることも。美術館から小規模のギャラリーまで足を運んで、アート空間を堪能している。

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