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2024.8.22
【エゴン・シーレ】夭折の天才画家が遺した「魂の絶叫」と愛の傑作
エゴン・シーレ、28年の短い生涯で魂の叫びを描いた天才画家。独特の線と色彩で人間の内面を表現し、今なお世界を魅了しています。本記事では、シーレの生涯、代表作、そして彼の芸術に込められた愛と葛藤を詳しく解説し、シーレの魂の軌跡をたどります。
目次
エゴン・シーレとは? 夭折の天才画家が遺した「魂の絶叫」
Egon-schielePublic domain, via Wikimedia Commons.
エゴン・シーレ(1890-1918)は、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーン近郊にあるトゥルン出身。28歳という短い人生の中で、後世に名を残すほど影響力のある作品を描いた、夭折の天才画家です。
幼少期から絵の才能を発揮してきたシーレは、
・グスタフ・クリムトを中心に結成された、過去の形式にとらわれない自由な表現の「ウィーン分離派」
・フランス・ベルギーで流行した象徴主義を支持する「象徴派」
・激しい筆致で独特な色彩を使い、感情を表に出す「表現主義」
などの影響を受けながらも、独自の新しい画風を確立していきました。
世紀末ウィーンの背景
Schiele - Stadtende - Krumau Häuserbogen Public domain, via Wikimedia Commons.
世紀末ウィーンとは、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、オーストリアのウィーンで起こった社会や文化の変化の時代を指します。この時代、ウィーンでは経済的な発展が進む一方で、社会的には多くの問題がありました。
・多民族国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内では民族対立が激化。政治的な緊張や経済的な格差が広がる
・都市化が進む中で住宅不足や衛生問題が深刻化し、生活環境が悪化
・「伝統的な価値観」と「新しい芸術や思想」との間で対立
このように、世紀末ウィーンでは経済的繁栄と社会的混乱が同時に進行し、退廃的な雰囲気が漂っていたのです。この環境がシーレの芸術に大きな影響を与えました。シーレは「既成概念にとらわれない新しい芸術」を追求していったのです。
「魂の絶叫」と表現主義
Den Künstler hemmen ist ein Verbrechen, es heisst keimendes Leben morden!Albertina, Wien
世紀末ウィーンの時代に、エゴン・シーレは特に「人間の内面や感情」を強烈に表現した作品を数多く描きました。独特な線描と大胆な色使い、歪んだ人体表現が特徴的です。
特に「自画像」や「ヌード作品」において、彼の内面的な葛藤や人間の本質を探求する姿勢が顕著に表れています。シーレの作品は当時の社会に大きな衝撃を与え「魂の絶叫」と評されるようになりました。今でも、多くの人々の心に強い印象を残しています。
エゴン・シーレの作品は「人間の内面を深く掘り下げ、哲学的な探求を行った結果」として鑑賞できます。混沌とした現代においても、非常に魅力的な作品です。彼の生涯と作品を理解することで、人間の本質に気づけます。
エゴン・シーレの生涯 - 愛と葛藤、そして早すぎる死
幼少期の鉄道への関心、父の死と絵画への傾倒
シーレには、2人の姉と4つ下の妹がいます。シーレ家の唯一の男の子として大切に育てられました。父は、鉄道員として働き、後にトゥルン駅の駅長をつとめました。
幼少期から絵画に興味を持っていた彼は、身近に見える鉄道の絵を描いています。早くから絵の才能を発揮していた彼は、両親や学校の先生からも評価されていました。学業よりも絵ばかりを描いていました。先生に注意されていたほど、描くことが好きだったのです。
シーレが15歳の時、そんな彼の最大の理解者であった父を病気で亡くします。彼の生涯の中で、父が亡くなった精神的ダメージは非常に大きかったようです。
父の逝去後、シーレは伯父に引き取られます。伯父は、シーレに「絵だけではなく、学業にも力を入れてほしい」と思っていましたが、シーレは絵を描くばかりで思うように勉強をしませんでした。しかし、伯父は芸術へ強い興味を持つシーレを理解し、愛情深く育てたようです。
ウィーン美術アカデミー時代:クリムトとの運命的な出会い
グスタフ・クリムトPublic domain, via Wikimedia Commons.
シーレは、1906年(16歳)でウィーン工芸アカデミーに最年少で入学し、歴史や肖像画を学びました。この頃、ウィーン分離派の中心人物である「グスタフ・クリムト」と運命的な出会いをします。
翌年の1907年(17歳)にはウィーン美術アカデミーに進学するも、保守的な古典主義を継承するアカデミーに価値を見出せず、授業から離れていきます。この頃のアカデミーは「サロンに出展し、偉い人から評価されると一人前」と認められる風習があり、自由に表現することを許されませんでした。
この頃から、既にシーレは「自由に表現したい」という想いが強かったのでしょう。「ウィーン分離派」の考え方に強く惹かれます。そして、分離派の中心である工芸アカデミー時代の先輩クリムトに弟子入りを志願しました。
ウィーン分離派は「時代には芸術を、芸術には自由を」をモットーとし、この言葉を1898年に建てた展示施設の分離派会館の入り口に、金文字で掲げました。
保守体制から分離した造形美術協会として、過去の様式にとらわれない、自由な芸術表現を追求しています。ドイツ圏内で盛んに芸術革新運動が行われていた頃の派閥として、20世紀のモダンデザインに大きな影響を及ぼしました。
クリムトはシーレの才能を評価し、モデル代の立て替えやウィーン工房への推薦など色々面倒をみました。シーレが早くに父親を亡くしていたこともあり、クリムトに精神的な父親像を求めていたとも言われています。ウィーン分離派と繋がりのあった「ウィーン工房」へも、クリムトの紹介で入りました。
この時期、シーレの作品はクリムトの影響を強く受けており、装飾的でエレガントなスタイルが見られます。
1908年(18歳)、クリムトの支援を受け、シーレは最初の個展を開催。はじめてにも関わらず、パトロンができるほど、彼の作品には才能が溢れていました。彼は後援者がでたことで、18歳にして経済的な心配なく、作品を創り続けられたのです。
保守的な美術界への反発と、「新芸術家集団」の結成
シーレは、1909年(19歳)にアカデミーを正式に退校。アカデミーを脱退した友人らと交流会「新芸術家集団」を結成し、本格的に独自スタイルを追求するべく動き出しました。
自己の表現を追い求める中、彼は衝撃的な作品たちに出会います。それは、クリムトが分離派の源泉とも言える「フランス印象派」の展覧会を開いた時のことです。「ゴッホ」や「ムンク」の作品をみて、シーレの魂は大きく揺さぶられました。自身の芸術感が目覚めた時だったと言えるでしょう。
シーレは、作品により激しい感情表現を試みるようになりました。
ヌード作品と社会からのバッシング
1910年から1911年(20歳〜21歳)のシーレの作品には、女性だけでなく、子どものヌードや自画像が急増しています。
シーレはタブー視されていた性の部分なども作品に取り込み、「死」「性行為」など、倫理的に避けられるテーマをむしろ強調し、露骨なヌードを大胆な色使いで表現しました。世間からは「非常に過激すぎる」ということで、受け入れてもらえませんでした。
ワリーとの出会い、逮捕・投獄という苦難
1911年(21歳)、シーレは17歳のワリーと同棲をはじめました。彼は当時、ヌードデッサンのモデルでもあり、近親相姦関係にあったとされている妹ゲルティとの関係が行き詰まっていたのです。
モデルを求めて街や家の前で女性に声をかけていたシーレに、クリムトがワリーを紹介しました。実は、ワリーはクリムトのモデルとしても有名で、以前はクリムトとも愛人関係だったとも言われています。
シーレは、静かな場所で自由に作品を手がけたいと思ったのでしょうか。シーレとワリーの二人は喧騒を離れ、シーレの母方の故郷である、チェコのチェスキー・クルムロフ市へ移住します。
シーレ家と繋がりが深いチェスキーは、非常に保守的な田舎でした。斬新的な考えなど、到底受け入れてもらえません。そんなところに住んだにも関わらず、シーレは街の女にヌードモデルの仕事を持ちかけます。
やがて、家に娼婦などが出入りして、ヌードモデルをしていることが近隣の人に知られてしまいました。閉鎖的な田舎町では彼らは歓迎されず、評判は悪くなる一方。二人は街から追い出されるようにして、ウィーンへ戻ることになります。
その後、ウィーン近郊のノイレングバッハにアトリエを開き心機一転します。しかし、ここでも
下町の子どもを誘い込んでモデルにしたり、庭でモデルを裸にして絵のデッサンを描くなどしたため、周囲からの評判は悪かったようです。
それでも、彼は諦めずに自分の芸術を追求し描き続けました。
Ich werde für die Kunst und für meine Geliebten gerne ausharren!Albertina, Wien
しかし、そんなシーレにさらに困難が訪れます。1912年(22歳)、彼は「14歳の少女を誘拐」した容疑で逮捕されます。当時、家にはシーレ、ワリー、少女の3人でいたにもかかわらず、少女は警察に「家にはシーレと2人でいた」と言ったそうです。少女は家出していた子のようで、シーレが本当に彼女を誘拐したのか、真実はわかっていません。
シーレは、24日間拘留されます。裁判所は、シーレの作品を「汚らわしいポルノ画」だとし、猥褻物として押収。その中には、彼の目の前で燃やされた作品もあるそうです。
目の前で自身の芸術を燃やされるというのは、どれほど屈辱的だったでしょうか。
ワリーとの別れ、エディトとの結婚
Egon Schiele und Edith HarmsPublic domain, via Wikimedia Commons.
ワリーとの同棲開始から3年経過した1914年(24歳)、シーレはアデーレとエディトという姉妹に恋をします。彼は、中産階級職人の娘である彼女たちのうちのどちらかと結婚をすれば、社会的な信用を得られると思ったのでしょうか。エディトと結婚をします。
シーレは、長年連れ添ったワリーともいい距離感を保ちながら関係を続けたかったようですが、そのような関係にワリーは納得がいかず、彼の前から去ってしまいました。
結婚して三日後、幸せな時間がはじまったにも関わらず、シーレは第一次大戦下のオーストリア軍に入隊し、プラハへ行くことになってしまいます。
しかし、賢いシーレは、隊の上層部に自分が「画家として活動している」と説明したのです。軍は芸術家としての彼を認め、前線での活動を免除しました。なんと、シーレは戦時中もスケッチを描いたり構想を考えたりすることができたのです。
戦争が終わってからは、芸術活動に専念します。
シーレは、家庭生活を持つようになり、妻との関係は彼に安心感をもたらしましたが、その一方で、彼の心には依然として不安や孤独感がありました。また、戦争の影響で心に不安や絶望感が増していきました。これらにより、彼の創作活動に新たな葛藤をもたらします。
結婚後、シーレの作品にはこれまでの不安や孤独だけでなく、愛や家庭生活に対する複雑な感情が反映されるようになりました。この時期の作品は、より成熟した表現が見られ、愛や死といったテーマが深く描かれています。
悲劇的な死
Portrait of Edith (the artist's wife) Public domain, via Wikimedia Commons.
1918年(28歳)、クリムトによる「第49回ウィーン分離派展」にシーレは招待されます。この展覧会は、ウィーン分離派が主催した最後の公式展覧会であり、当時の重要な芸術家たちが多数参加していました。
この展覧会ではシーレは50点以上を出展し、展示会のポスターデザインもしました。展示会は成功をおさめ、これによりシーレの評判が大きく上がったのです。彼の絵の価値は上がり、次々と依頼が舞い込むようになりました。
芸術家として多くの人に認められ、これからという時に悲劇が訪れます。スペイン風邪が猛威をふるい、妻のエディトが感染してしまったのです。シーレの思いは届かず、彼女はシーレの子どもをお腹に宿したまま、10月28日に死亡しました。
悲しみに打ちひしがれたシーレに、さらに不幸が訪れます。シーレも同じ病に倒れ、10月31日この世を去ることになったのです。
もし、彼がもう少し長く生きていたならば、さらに多くの傑作を生み出していたかもしれません。
エゴン・シーレの代表作 - 「自画像」と「愛」をテーマに作品を解説
エゴン・シーレの作品は、独特な線の描き方や、わざと形をゆがめた表現、鮮やかな色使いが特徴的です。彼は自分自身を見つめたり、人間の心の奥にある感情をテーマにして、見る人に強い印象を与えています。
彼の代表作を通じて、シーレがどのようにして自らの内面を表現し、愛という普遍的なテーマをどのように捉えたのかを探ってみましょう。
縞のシャツを着た自画像(1910年)
シーレが不思議そうに世界を見つめているようです。高い額、大きな頭、ふさふさの髪に対して首は細く描かれています。シーレはこの対比を活かし、自信の精神的な不安や疑問を表現しているようです。色使いも工夫されており、額の灰色と頬の赤、髪の毛には茶色に紫が加わり、独特な味を出しています。
自分を見つめる人2(死と男)(1911年)
この作品には、自己の分裂や生と死のテーマが表現されています。生と死の主題は当時の画家たちが繰り返し取り上げた人気のテーマでした。
画面中央に描かれた男は黒い服を着ており、その背後には灰色の幽霊のような人物が抱きつくように描かれています。男の顔は赤く、生命力を感じさせますが、背後の人物は死の影のように見えます。シーレは、頭や腕を引き伸ばして描くことで、自己の曖昧さや内面的な葛藤を表現し、自己探求のテーマを深く探っています。
ほおずきの実のある自画像(1912年)
Self-Portrait with PhysalisPublic domain, via Wikimedia Commons.
この自画像は、エゴン・シーレの中でも特に人気のある作品の一つです。
1912年は、シーレが表現主義的なスタイルを確立し、自身の内面世界を深く探求していた時期です。この頃、彼は社会との摩擦や個人的な孤独感に苦しみながらも、自分自身の芸術を確立しようと努めていました。
この作品には、シーレが「死」の影と「生命力」の対比を強く意識していることが込められています。ほおずきの実は、彼にとって生命の象徴であると同時に、そのはかなさも示唆。シーレ自身の内面的な葛藤や、死への恐怖とそれを乗り越えようとする意志が反映されています。
死と乙女(1915年)
Death and the MaidenPublic domain, via Wikimedia Commons.
この作品は、シーレがエディトと結婚した後、第一世界大戦で徴兵される前夜に制作されたものと言われています。
シーレ(死神)の胸にワリー(乙女)が顔をうずめ、別れる前の最後の抱擁と言えます。シーレが作品のために数々の女性を連れ込んだり、少女までも誘ったことで逮捕されてもなお、連れ添ったワリー。
エディトとの結婚が社会的信用を得るためと言っても、心の整理をつけられなかったのでしょう。
ここまでの自分を受け止めてくれたワリーが去った驚きを、死神は隠せないようです。
家族(1918)
The FamilyPublic domain, via Wikimedia Commons.
エゴン・シーレの最晩年の作品「家族」は、彼が亡くなる直前に描かれた未完の絵です。この作品には、シーレ自身、妻エディト、そしてまだ生まれていない子供が描かれています。
作品には、暗い背景の中で希望と悲しみが交錯しており、シーレが人生の終わりを予感していたようにも感じられます。エディトは妊娠中にスペイン風邪で亡くなり、シーレ自身もその3日後に同じ病気で亡くなりました。この作品は、彼の最も静かで悲しい作品の一つとして知られています。
エゴン・シーレをもっと深く知る - 関連情報
エゴン・シーレは、さまざまな人との関わり・環境にいたことで感じた思いを独特な表現で絵に表してきました。
ここでは、シーレの作品やその背景をより深く理解し、楽しむための手助けとなり、初心者でもシーレの世界に触れることができるよう、分かりやすくまとめました。
レオポルド美術館
レオポルド美術館は、ウィーンにある美術館で、エゴン・シーレの世界最大のコレクションを所蔵しています。その他にも、クリムトやココシュカなど、オーストリアの現代美術の代表的な作品が展示されており、20世紀前半のオーストリア芸術の流れをたどることができます。
所蔵作品:装飾的な背景の前で様式化された花(1908年)、菊(1910)、ワリーの肖像画(1912)など多数
レオポルド美術館公式ウェブサイト
豊田市美術館(愛知県)
愛知県豊田市にある豊田市美術館には、エゴン・シーレの作品が所蔵されています。
所蔵作品:レオポルト・ツィハチェックの肖像(1907)、カール・グリュンヴァルトの肖像(1917)、第49回分離派展のポスター(1918)など多数
豊田市美術館公式ウェブサイト
日本での展覧会情報
現在、日本での展示会は残念ながらありません。直近では、2023年東京都美術館で30年ぶりに「レオポルド美術館 エゴンシーレ展 ウィーンが産んだ若き天才」が開催されました。
関連書籍など
画集:表現主義とエゴンシーレ物語:(世界の名画シリーズ)
単行本:エゴン・シーレ:二重の自画像(平凡社ライブラリー さ 5-1)
DVD:エゴン・シーレ(死と乙女)
まとめ
エゴン・シーレは、短い生涯にもかかわらず、今なお時代を超えて愛され続ける画家です。
彼の作品は、鋭い描線、歪んだフォルム、鮮烈な色彩を駆使し、人間の内面や感情を深く掘り下げています。シーレの作品には、彼自身の内なる葛藤や苦悩が色濃く反映されており、それが観る者に強い感情的なインパクトを与えます。
シーレの作品は、単なる絵画としての価値を超え、人間の本質や存在の問いを投げかける力を持っているのです。
この機会にぜひ彼の作品に触れ、その深い魅力を感じ取ってください。
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本の執筆をメインに活動中。イロハニアートでは「難しい言葉をわかりやすく。アートの入り口を広げたい」と奮闘する。幼い頃から作品を作るのも見るのも好き。40代の現在も、自然にある素材や家庭から出る廃材を使って作品を作ることも。美術館から小規模のギャラリーまで足を運んで、アート空間を堪能している。
本の執筆をメインに活動中。イロハニアートでは「難しい言葉をわかりやすく。アートの入り口を広げたい」と奮闘する。幼い頃から作品を作るのも見るのも好き。40代の現在も、自然にある素材や家庭から出る廃材を使って作品を作ることも。美術館から小規模のギャラリーまで足を運んで、アート空間を堪能している。
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