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STUDY

2024.11.5

日本が誇るシルクロード画家・平山郁夫とは。生涯歩んだ祈りの旅路(前編)

星が千々に瞬く月夜の砂漠に、パルミラ遺跡を横切るラクダの隊列。夜の帷が下り、空も、遺跡も、砂も、群青色に染まり、密やかに旅路を進める一向を描いた一枚の画《パルミラ遺跡を行く・夜》。戦後を代表する日本画家・平山郁夫の代表作のひとつです。

シルクロードの交易の中継点として栄華を極めたオアシス都市・パルミラ。しかし、3世紀後半、ローマからの独立を企てたため、街は破壊され、首謀者の女王ゼノビアは捕まり、ローマの街を引きまわされました。平山郁夫は、祖国奪還を図った悲劇の女王へ敬意を込め、この画を描きました。

平山郁夫はシルクロードの巨匠として知られていますが、仏教や日本文化・風景を題材にした画も多く残しています。また、世界の文化遺産、特に東洋で生まれた歴史的建造物の保護活動にも積極的に参画し、貢献しています。

平山郁夫の世界的評価は、作品はもとより活動に対しても高いことが特徴といえますが、日本画家・平山郁夫とは、どのようにして誕生したのでしょうか?

この記事では、彼の生涯に影響を与えた被曝体験も含め、平山郁夫についてご紹介します。


瀬戸内の風光明媚な場所で育つ

首相官邸ホームページ, CC BY 4.0 , via Wikimedia Commons

平山郁夫は1930年、瀬戸内にある生口島(現在の広島県尾道市瀬戸田町)の由緒ある家に生まれました。彼の両親は信仰心が篤く、特に寺院などに率先して寄進していた父親の影響を大きく受けたようです。

そして、瀬戸内の温暖な気候、歴史ある古刹、色鮮やかな青い海に囲まれ、平山少年は伸び伸びと育ちました。後年、平山ブルーと称される鮮やかな群青色を平山は好んで使いましたが、この色は故郷の瀬戸内の海が背景にあります。

幼い頃から、絵を描くことが好きで、尋常高等小学校(旧制の小学校。尋常小学校と高等小学校の課程を履修できる学校)時代、友人から紙を渡されると、すぐに鉛筆で絵をささっと描いて渡したりしていたようです。

1945年8月6日、広島で被曝。15歳

1943年、小学校を卒業し、広島市の私立中学校に進学。寄宿舎生活が始まりましたが、第二次世界大戦戦時下の食事の貧しさによって体調を崩し、下宿生活に切り替えます。

寄宿舎よりはましだったとしても、物資が少なくなっていく時代背景もあり、空腹と孤独を紛らわすために画を描くことが唯一の楽しみだったようです。

1944年には学徒勤労動員方策が定められ、平山郁夫は病弱であったにも関わらず志願して働いていました。翌1945年7月から、広島市霞にあった広島陸軍兵器補給廠(現在の広島大学医学部)に通うことに。

そして、8月6日午前8時過ぎ。朝の点呼を終えて、たまたまひとりで空を眺めていると、空襲警報も鳴らない中でB29を目撃します。

続いて、B29から落下傘が落とされたのを見て、急いで補給廠に知らせに入った途端、背後から大閃光とともに爆風に襲われます。

爆心地から4キロメートル弱という近さ。その後、爆心地から2キロメートルの下宿先に戻ったり、市街の様子を見に行ったりなどして、地獄絵さながらの凄惨な光景を目の当たりにします。

そして、ここにいてはどうにもならないと悟り、故郷の生口島に戻るために歩き始めます。
夜更けまで歩き、暗闇の中で無人列車を見つけ、とにかく乗り込んで倒れるように眠ってしまいます。

ふと気づくと日が登り、車内は人でいっぱい。故郷近くまで運ばれていて、無事、実家に戻れました。

この時の体験を後年になって平山郁夫自身が語っています。
「原爆投下直後の広島の惨状は、十五歳の中学生には強烈過ぎた」

引用:平山郁夫シルクロード美術館

この体験は生涯、平山郁夫の心身に影響を与え、日本画家・平山郁夫が生涯追い求めた「平和への祈り」を描くという画家としての信念を形成した原点とも言えるでしょう。

大伯父、清水南山の教え。東京美術学校入学まで

実家に戻った平山郁夫は、しばらく体調を崩していましたが、現在の竹原市忠海町の中学に転校することになりました。そこには母方の祖母の兄(大伯父)で彫金家の清水南山の疎開先があり、平山は南山宅に下宿することになったのです。

南山は東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫金科の教授を長く勤めたのち、退官して故郷に戻ってきていました。齢、70歳。孤高の芸術家という雰囲気の南山は畑で汗を流すのが日課で、平山も南山の手伝いをしていました。

畑の南山は、ポツリポツリと岡倉天心や菱田春草の思い出話や、芸術論を語ります。「芸術とは美しいものを表現すること」と、平山に何度となく語っていたそうで、この南山の思想は日本画家・平山にも受け継がれています。

しかし、平山の進路について、南山は何も言いません。平山は平山で、被曝した時もスケッチブックを肌身離さず持っているほど画が大好きな少年だったにも関わらず、進学先は法科か経済に進むつもりでいたので、猛勉強をしていました。

いよいよ願書提出の段になり、南山は突然「東京美術学校の日本画科を受けろ」と言いだします。びっくりした平山は、なぜ今頃と問い詰めると、南山は悠然とした態度で答えたそうです。

「お前が小さい時から絵が好きだったのは知っている。しかし、腕はあっても頭がないと早く行き詰まる。そういう例をいくらもみてきた。だからまず、高校に入れるぐらいの学力をつけてもらいたかったのだ」

引用:平山郁夫シルクロード美術館

畑での絵画講義、教養をつけるための勉強、満を持してのアドバイス(というより命令(笑)?)、すべて南山の大きな愛だったのですね。

人一倍、研鑽を積む日々。苦悩しながらも日本画の道を歩む

1947年、東京美術学校日本画科予科に入学した平山郁夫は、小林古径、安田靫彦教授らの指導を受けました。1952年、美術学校を卒業と同時に、改組された東京藝術大学の副手となって新任の前田青邨教授につき、その後助手となります。

こう書くと順風満帆のように見えますが、平山自身は最年少かつ、美術学校に入るまでまともに日本画を学んだことがなかったので、周囲の技量に圧倒されてしまったようです。

さらにこの時代は、「日本画滅亡論」なる伝統的日本画否定の風潮が起きたこともあり、一時は研究者になろうと悩みました。

しかし、美術史の教授が親身になって説得してくれたことで自信を取り戻し、猛烈な研鑽を積み、卒業時は次席となり、作品は学校が買い上げるまでに頭角を現しました。

卒業作品は、瀬戸内の故郷を舞台にした《三人姉妹》。実はテーマを決める際、知人に被曝体験をテーマにすることを勧められました。

しかし、8月6日を思うだけでも悪夢に苛まれるような状況かつ、大伯父である南山から教わった、美しい感動を造形化する、という観点からも愛する故郷をテーマにすることにしました。

ちなみに、首席で卒業したのは、後に平山と結婚した松山美知子です。

前田青邨の影響と未知子夫人のサポート

前田青邨の副手となった平山郁夫は青邨について「厳しい」先生と語っていますが、まずは画家の心得を叩き込まれたようです。どんな時でもお金のために描いてはいけない、日々の研鑽を怠ってはいけない……。青邨自身も自らの言葉通り、日々実践していました。

平山は2009年12月、79歳で亡くなりましたが、2009年も精力的に何枚も画を描いています。文字通り、死ぬまで日本画家として在り続けた平山の生き方は、青邨の影響を受けているのでしょう。

そして青邨は、1955年の平山と松山美知子の結婚にも影響を与えています。首席で卒業した美知子は、いわば平山より有望視されていたことになります。また、当時、女性が美術学校に入学し、日本画家を志すというのは、並大抵の覚悟ではなかったかもしれません。

そんな美知子と平山に青邨は、「一家に二人の画家は並び立たない」とさとし、美知子は結婚を機に筆を折ります。そして、一生涯、筆を取ることをせず、文字通り平山のサポート役に回るのです。
平山と未知子夫人との間でどのような話し合いがなされたか、わかりませんが、お互い覚悟の上での決断だったのでしょう。

美知子夫人は生涯に渡り、平山のよき理解者であり、共同事業者だったのだと思います(2024年11月現在もご健在です)。平山の作品を生み出したのは、紛れもなく本人自身ですが、美知子夫人という最高の伴侶がいなくては、平山芸術はここまで花開かなかったのでは、とさえ思ってしまいます。

美知子夫人のサポートは家庭の切り盛り、子育てだけに留まりません。平山は1960年代から毎年のように海外に赴いて取材や調査を行いますが、その数、なんと150回以上! そのほぼ全てに美知子夫人も同行しています。

彼が足を運ぶ場所は砂漠や中国の敦煌莫高窟など、遺跡を巡ることが多く、治安も安定していない、気候も厳しく、衛生面も食生活も日本と大きく異なる地域です。

平山が炎天下、スケッチを始めると、すっと日傘をさし、かたわらで色鉛筆を削り、タイミングよく平山に渡す、という細やかな配慮。なおかつ、旅行日誌を毎日書いて、事細かに記録しています。

こうした美知子夫人の行動やその後の活動を見ても、平山と同じ志を共有し、ビジョンをともに描いていたからこそ、だと思えてきます。


原爆後遺症で死を覚悟。平和への祈りを込めた《仏教伝来》

東京藝術大学で助手を務めていた1959年(昭和34)頃の29歳、原爆症と思われる兆候が現れます。白血球が通常の半分以下になり、極度の貧血状態が断続的に続きました。

戦争という不条理、死への恐怖と絶望、1953年に院展に初入選してから落ち続け、画家として芽が出ない数年間。この時代が一番、辛く暗闇の中を彷徨っている状況だったのかもしれません。

「死ななければならないのなら、平和を祈る作品をひとつでも残したい」

平山の切なる願いは募っていきました。

そんなある日、新聞を読んでいると東京オリンピックの聖火に関する小さな記事を見つけます。その記事には、聖火をシルクロード経由で運んではどうかというアイデアが紹介されていました。

このとき、まさに天啓が下りたかのように平山の脳裏に、シルクロードの砂漠を旅する僧侶が、オアシスに辿り着く情景が浮かんだのです。

そして描き上げたのが、中国・唐代の求法僧、玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)法師をテーマにした《仏教伝来》です。この作品は従来の仏教画のルールに捉われず、自由な表現が特徴です。輪郭線を意図的に省略し、幻想的な雰囲気を醸し出しています。


《仏教伝来》を1959年の院展に出展し、入選。なおかつ、新聞紙上で美術評論家の院展評に初めて取り上げられました。わずか二行の評論は、当時の平山にとって一筋の光明となったのです。

《仏教伝来》は、平山の「仏伝」と「シルクロード」という絵画シリーズの出発点でもあり、平山郁夫という画家の原点でもあったようです。原画は佐久市立近代美術館に所蔵されていますが、小下図は、終生、手元に置いていました。

※ 平山は岩絵具を使って制作をしていました。日本画で使われる岩絵具は制作途中で塗り直したりすることが困難なため、本番制作の前に必ず正確な下図を制作します。下図も原画を縮小した小下図、それより少し大きい中下図、原画と同じ大きさの大下図、と段階を経ながら描いていきます。

絵画に祈りを込める日本画家・平山郁夫の誕生

1959年の入選を皮切りに、1960年入選、1961年に《入涅槃幻想》で日本美術院大賞(大観賞)受賞、1962年に《受胎霊夢》で日本美術院大賞(大観賞)受賞、と新進気鋭の日本画家としてブレイクが始まった平山郁夫。仏教をテーマにした画をどんどん発表していきます。

1962年の春の院展では《行七歩》で奨励賞も受賞しています。この作品は、「仏伝シリーズ」の代表作のひとつです。


仏教をテーマにした背景には、日本の精神の源流は仏教の影響を受けているという認識もあります。西洋思想や西洋美術を考えたとき、その背景にはキリスト教が大きく影響を与えています。

翻って日本を含む東洋では、西洋のキリスト教と同等の立ち位置は仏教であり、そうであるべきだ、という認識が平山の根底にあるのです。

そこに、魂の救済、心の安寧、信仰心、平和への祈りなどが重なったのでしょう。平山の作品には、仏教、シルクロード、人々の暮らし、風景……、何を描いても彼の優しい眼差しと、いのちに対する尊厳と敬意が込められているように感じます。

では、日本画家・平山郁夫が誕生し、その後、どのように変化し、どのような活躍を見せるのでしょうか?

この先は、後編でお話ししますので、ぜひ、後編もお読みください!

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国場 みの

国場 みの

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建築出身のコピーライター、エディター。アートをそのまま楽しむのも好きだが、作品誕生の背景(社会的背景、作者の人生や思想、作品の意図…)の探究に楽しさを感じるタイプ。イロハニアートでは、アートの魅力を多角的にお届けできるよう、楽しみながら奮闘中。その他、企業理念策定、ブランディングブックなども手がける。

建築出身のコピーライター、エディター。アートをそのまま楽しむのも好きだが、作品誕生の背景(社会的背景、作者の人生や思想、作品の意図…)の探究に楽しさを感じるタイプ。イロハニアートでは、アートの魅力を多角的にお届けできるよう、楽しみながら奮闘中。その他、企業理念策定、ブランディングブックなども手がける。

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