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2026.10.6

顧愷之《女史箴図》とは?中国絵画の至宝がわずか25ポンドで売られた理由

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1903年4月8日、ある一巻の古い絵巻が、25ポンドで売られました。現在の貨幣価値に直しても、80万円ほどにしかなりません。買い手はロンドンの大英博物館、売り主はクラレンス・ジョンソンという名のイギリス軍大尉でした。

この巻物が《女史箴図》です。1600年ほど前の作品と伝えられ、宮中に生きる女性たちの姿が絹の上に描かれています。日本でいえば古墳時代、まだ法隆寺も建っていない時期です。

伝顧愷之《女史箴図》(部分)。絹本着色、大英博物館蔵。, Public domain, via Wikimedia Commons.

これほど古い中国の絵はほとんど現存していません。そのため《女史箴図》は、中国絵画の始まりを知る上で欠かせない作品とされています。歴代の皇帝にも受け継がれ、歴代王朝の宝として大切に守られてきました。

なぜそれほどの絵が中古車ほどのわずかな値段で、北京からロンドンへ渡ったのでしょうか。


皇后を諫めた「女史箴」


絵の題材になったのは、西晋の官僚・張華が292年に書いた「女史箴」という文章です。「女史」とは宮中の女性たちを教え導く女官、「箴」とは過ちを戒める言葉を意味します。

なぜ、このような文章が書かれたのでしょうか。

当時の中国では、長く続いた戦乱がようやく終わり、西晋が国を統一したばかりでした。ところが二代皇帝の恵帝には政治を取り仕切る力が乏しく、代わって妻の賈皇后とその一族が朝廷で大きな権力を握ります。皇族や有力者が主導権を争い、できたばかりの王朝は早くも不安定になっていました。

張華が「女史箴」を書いたのは、こうした時代です。表向きは、宮中の女性たちに慎み深い振る舞いを教える文章でした。しかし本当に読ませたかった相手は、権力を振るう賈皇后だったとされています。皇后を正面から非難するのではなく、歴史上の女性たちの逸話を示しながら、君主を支える者の心得を遠回しに説いたのです。

その文章には命懸けで皇帝を守った女性の故事や、夫婦の間にも節度が必要だという教えが並びます。身なりを美しく整えるだけでなく、心も正さなければならないとも説きました。

このあと「女史箴」は一場面ずつ絵にされました。それが《女史箴図》です。巻物を少しずつ開くと、戒めの文章と、それを演じる宮中の女性たちが交互に登場します。文字だけでは捉えにくい教えを、人物の表情や身ぶりによって目に見える物語へ変えたのです。

作者として伝わるのは、4世紀の東晋を生きた顧愷之です。人物画の名手として外見だけでなく、人物の内面まで描き出そうとしたことから、その画名は後世まで残り「画聖」と仰がれています。

こうした人物表現は《女史箴図》の随所に見られます。

たとえば、檻を破った熊が皇帝に襲いかかる場面。居並ぶ女性たちがわれ先に逃げるなか、馮媛という女性だけは逃げません。武器も持たず、皇帝を守るように熊の前へ進み出ます。逃げる女性たちの裾は大きく翻り、その横で馮媛は静かに立っています。「動」と「静」を対照的に描くことで、一人の勇気を際立たせる構図です。


《女史箴図》熊の場面(部分)。馮媛が皇帝を守るように熊の前へ進み出る。, Public domain, via Wikimedia Commons.

別の場面では女性たちが鏡をのぞき込み、髪を整えています。添えられた言葉は「人は顔を飾ることは知っていても、心を飾ることは知らない」。見た目ばかりを気にして、心を磨くことを忘れてはいけないという戒めです。


《女史箴図》化粧の場面(部分)。女性たちが鏡をのぞき込み、髪を整える。, Public domain, via Wikimedia Commons.

女性たちの手もとにある小さな鏡には、のぞき込む顔まで描かれています。説教のための絵でありながら宮中で暮らす人々の姿が、細やかな動作とともに瑞々しく表現されているのも《女史箴図》の特徴です。


紫禁城からロンドンへ


この巻物は歴代の皇帝や収蔵家の手を渡り歩いてきました。所蔵した者たちは余白に自分の印を捺し、感想を書き込んだので、絵自体が持ち主たちの記録簿になっています。そのなかでも、この絵をこよなく愛したのが清の乾隆帝でした。いくつもの印を残し、至宝として紫禁城の建福宮に収めています。


《女史箴図》の巻頭部。歴代の所蔵者が残した印や書き込みが並ぶ。, Public domain, via Wikimedia Commons.

ところが1900年に発生した義和団事件の最中、北京が八カ国連合軍に占領され、各地で略奪が横行したのです。混乱のなかで《女史箴図》は紫禁城を離れ、イギリス軍のジョンソン大尉の手に渡りました。大尉がどのように入手したのかは分かっておらず、現在この絵を所蔵する大英博物館も「正確な経緯は不明」としています。

それから3年後の1903年、ジョンソン大尉は巻物を大英博物館へ持ち込みました。目的は絵を売ることではなく、巻物に付いていた玉の留め具を査定してもらうことだったと伝えられています。ところが学芸員の目に留まったのは、玉ではなく絵の方でした。博物館はその場で巻物の買い取りを決めています。


コピーかもしれない最高傑作


しかしながら、現在残っている《女史箴図》が顧愷之本人の筆によるものかついては、実際のところ分かっていません。顧愷之が生きたのは4世紀ですが、この巻物は5〜8世紀に描かれたとみる研究者が多く、失われた原画を後世に写したものとも考えられています。

そのため今も議論が続いていますが、それでも《女史箴図》の価値が揺らぐことはありません。仮にコピーだとしても千年以上前に絹へ描かれた人物画が、これほどまとまって残る例はほとんどないからです。

しかし残念ながら当時の姿で残っているわけではなく、ロンドンに渡った後の1914年、大英博物館は絵の部分と、後世の所蔵者が書き加えた文章を切り分け、それぞれを板に貼り付けてしまいます。

本来の絵巻はすべてを一度に眺めるものではなく、片方の手で少しずつ開き、見終えた部分をもう片方の手で巻き取りながら、一つずつ場面を追っていきます。場面が現れては消え、物語が少しずつ進んでいく感覚こそが絵巻の魅力です。

板に貼られたことで保存や展示はしやすくなりましたが、こうした絵巻本来の体験が失われてしまったため、巻物の性質を十分に理解しない処置だったという批判もあります。


盗まれたから、生き残った?


1923年6月、紫禁城の建福宮一帯で大火が起こりました。建物はそこに収められていた膨大な宝物とともに焼失します。出火の原因は確定していませんが、盗みの発覚を恐れた宦官(役人)が、証拠を隠すために火を放ったともいわれています。


1923年の紫禁城の火災。建福宮一帯が宝物とともに焼失した。, Public domain, via Wikimedia Commons.

建福宮はかつて《女史箴図》が収められていた場所でした。もし1900年に紫禁城から持ち出されず、そのまま建福宮に残っていたら、ほかの宝物とともに焼けていた可能性があります。皮肉にも奪われたことで火災を免れたのです。

もちろん絵が残ったからといって、略奪が正当化されるわけではなく、中国では返還を求める声があります。こうした割り切れない思いを残したまま《女史箴図》は、今もロンドンで展示されています。

現在《女史箴図》が公開されるのは、年に6週間だけです。千数百年を経た絹はあまりにも脆く、光にさらす時間が厳しく制限されているからです。

25ポンドで買われた絵は値段のつけられない宝物となり、一年の大半を暗い場所で過ごしています。


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大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。西洋哲学史の書籍『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』(ナツメ社)の執筆も担当した。立場や考え方の違いを越えて、芸術には人と人をつなぐ力があると信じている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。

大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。西洋哲学史の書籍『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』(ナツメ社)の執筆も担当した。立場や考え方の違いを越えて、芸術には人と人をつなぐ力があると信じている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。

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