STUDY
2025.9.18
連作《サント=ヴィクトワール山》に見るセザンヌの哲学ーー映画『セザンヌと過ごした時間』とともに
ポール・セザンヌが愛し、生涯のモチーフとした山があるのを知っていますか?
その名は「サント=ヴィクトワール山」。南仏エクス・アン・プロヴァンスで、セザンヌはこの山を幾度となく描き続けました。一見すると穏やかな風景画。しかしそこには、自然との対話を通じて美学を追究した、セザンヌの執念が刻まれています。
目次
南仏, サント・ヴィクトワール山, Montagne Sainte Victoire (Réserve naturelle nationale de Sainte-Victoire), Public domain, via Wikimedia Commons.
この記事では、代表作である連作《サント=ヴィクトワール山》を手がかりに、セザンヌの哲学をひもときます。あわせて、人間としての苦悩に迫る映画『セザンヌと過ごした時間』も参考にしながら、彼の芸術家人生を探ってみましょう。
セザンヌがサント=ヴィクトワール山を愛し、描き続けた理由
そもそもサント=ヴィクトワール山は、フランス南部のエクス・アン・プロヴァンスの南東に位置する山です。標高1000メートルほどの頂上、左側のなだらかな斜面、右側の急降下する斜面で構成されています。古代ローマ時代の戦役における勝利を記念して、「勝利の聖なる山」と名付けられたそうです。
セザンヌ以前にも、フランソワ・マリウス・グラネ、エミール・ルーボン、ポール・ギグーなど、エクスの先輩画家たちがこの山に心惹かれ、作品のモチーフとしてきました。
セザンヌがサント=ヴィクトワール山を初めて描いたのは1870年。初期の作品内では、山は鉄道の切り通し(山や丘を切り開いて通した線路)の背景に過ぎませんでした。
ポール・セザンヌ《切土》(1870)/ノイエ・ピナコテーク, Public domain, via Wikimedia Commons.
その後、1880年代半ば以降、セザンヌは山を重要なモチーフとして連作に取り組み始めます。サント=ヴィクトワール山は眺める場所によって風景が変わるため、画材も変えて油絵、水彩、素描と、数十点のバリエーションに挑戦したそうです。
彼が特に魅力を感じたのは、その雄大な姿、重々しい量感と光を受けて移り変わる白い山肌の美しさでした。1870年代に印象派の技法を習得した後、対象物の確固とした存在感が置き去りになりやすいことに不満を感じたセザンヌ。古典的構築性を追求する中で、その思想にふさわしいモチーフとしてサント=ヴィクトワール山を選んだのです。
セザンヌの作風の変化については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
サント=ヴィクトワール山の作品群に込められたセザンヌの哲学
ここでは、サント=ヴィクトワール山の作品群をもとに、セザンヌの芸術観を探っていきます。
《大きな松のあるサント=ヴィクトワール山》
ポール・セザンヌ《大きな松のあるサント=ヴィクトワール山》(1883-7)/コートールド・ギャラリー, Public domain, via Wikimedia Commons.
1887年頃に描かれた《大きな松のあるサント=ヴィクトワール山》は、1880年代半ばに彼が好んで描いたピラミッド型で、峰から峰へ続く線に呼応するように、手前の松の曲線が関連づけられています。この松の配置は、葛飾北斎《富嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二》の影響を受けているそうです。
葛飾北斎《富嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二》(1830-2)/東京富士美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.
最大の特徴は、構成要素と自然界の色彩的な統一感です。松の幹も葉っぱも存在感があるものの、空や田畑と調和するように色が調整されています。さらに、下地の明るい灰黄色を活かし、色彩を淡白かつ平坦に抑えている点は、セザンヌの画家としての飽くなき挑戦欲、故郷の風景に抱いていた深い敬愛が感じられます。
この作品について、セザンヌは息子への手紙でこう述べています。
「同じ題材を異なったアングルから見てみると、とても興味深い研究題材が見つかるよ。それに変化もあるから何カ月だって同じところで描いていられる。今度はもう少し右に向きを変えてとか、次はもっと左を向いて描いてみようとかね」
若手画家や批評家の間では徐々に評価が高まっていた時期。セザンヌは故郷で心の赴くままに、ますます独創的な道を突き進もうとしていたのです。
《サント=ヴィクトワール山とシャトー=ノワール》《ローヴから望むサント=ヴィクトワール山》
1904~6年に制作された《サント=ヴィクトワール山とシャトー=ノワール》は、より近い距離から山肌をとらえ、色彩の斑点を大胆に使っています。セザンヌが肺炎で亡くなったのは1906年なので、晩年の作品です。
前方には鬱蒼とした森があり、画面に奥行きを生み出しています。また、近い種類の色合いが用いられた絵の中で、黄土色の建造物シャトー=ノワールが画面を引き締めます。色合いのハーモニーを活かすことで、近くのものと遠くのものを同じように描いているのに、決して平べったくない作品が仕上がったのです。
ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山とシャトー=ノワール》(1904~6)/ブリヂストン美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.
《ローヴ街道から見たサント=ヴィクトワール山》(個人蔵)も、晩年の1906年に描かれました。エクス・アン・プロヴァンス郊外に続くローヴ街道沿いにアトリエがあり、そこから眺めた景色です。大海原をゆったりと進む船のように、抽象的な筆遣いがリズミカルかつ秩序を持って表現されました。
サント=ヴィクトワール山に魅了されてから、山や建物の存在感を出そうと、セザンヌは試行錯誤を続けます。その結果、彼はパサージュ(線の内側に色を置かず、線を自由に描き、色もはみ出す技法)を得意としました。
光や影、重み、形、空間を同時に表現するため、線と色を区別しなくなったセザンヌにとって、閉じた輪郭線は自然に存在しない抽象的な存在にすぎません。重要なのは、自然が持つ秩序やリズムをそのまま画面に移し替えることでした。色と形が溶け合う筆致は、対象の存在感と画面全体の調和を同時に成立させています。
映画『セザンヌと過ごした時間』と、芸術に生きた男の苦悩
参照:『セザンヌと過ごした時間』
2016年公開の映画『セザンヌと過ごした時間』は、セザンヌと作家エミール・ゾラの40年以上にわたる友情と確執を、史実や彼らの著作をもとに描いた作品です。
少年時代、エクス・アン・プロヴァンスで出会った2人は、お互いの才能を信じ、励まし合いながら芸術の道を歩み始めます。しかし、性格や価値観、成功の速度の違いが、少しずつ深い溝を生み出してしまいました。
エミール・ゾラの肖像(マネ作), Edouard Manet 049, Public domain, via Wikimedia Commons.
評価されない苛立ち、モデルや家族との関係の破綻、そして「描くことをやめない」という強い意志。成功を収めたゾラに対し、セザンヌは羨望と反発を抱き続けます。一方でゾラもまた、自身の文学にセザンヌの姿を投影し、そのことが友情を決定的に壊す要因となるのでした。
映画では、セザンヌの孤独と執念を、ゾラとの対話や衝突を通して浮かび上がらせます。芸術にすべてを捧げた男の誇りと痛みが、繊細な人間ドラマとして表現され、正直胸が詰まるシーンもありました。しかし、2時間に濃縮された2人の関係性が、わたしたちのセザンヌ像をより濃くするのです。
そして晩年、セザンヌはただ1人、故郷のサント=ヴィクトワール山に向き合い続けました。ゾラとの関係に終止符が打たれた後、山が彼の揺るがぬ友であり、芸術の核心を問い続ける原点となったのではないでしょうか。
完璧ではないからこそ描き続けたセザンヌ
ポール・セザンヌにとって、サント=ヴィクトワール山は単なる風景ではなく、生涯をかけて探求し続けた芸術の原点でした。色と形、光と影、遠近と量感。それらを1枚で同時に成立させようとする試みは、何十点もの連作となって実を結びます。彼は自然の中に幾何学的な秩序を見出し、閉じた輪郭から飛び出し、色彩の響き合いで形を浮かび上がらせました。
映画『セザンヌと過ごした時間』では、その飽くなき追求の背景に、作家ゾラとの友情と確執が描かれます。理解されず、時に孤立しながらも、セザンヌは完成に到達することを求めず、むしろ不完全さの中にこそ真実を見出しました。連作《サント=ヴィクトワール山》を描き続けた日々は、彼の哲学そのものであり、芸術は終わらない対話であることを証明しています。
◆参考文献
・永井隆則(2012)『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたいセザンヌ 生涯と作品』東京美術
・スージー・ブルックス(著)、Babel Corporation(訳出協力)(2016)『世界の名画 巨匠と作品 ポール・セザンヌ』六耀社
・アレックス・ダンチェフ(著)、二見史郎・蜂巣泉・辻井忠男(訳)(2015)『セザンヌ』みすず書房
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ライター。若手社会人応援メディアや演劇紹介メディアを中心に活動中。ぬいぐるみと本をこよなく愛しています。アート作品では特に、クロード・モネ《桃の入った瓶》がお気に入りです。


