STUDY
2026.8.11
【一瞬を永遠で包む絵】クリムト《接吻》──金に埋もれた二人はなぜこれほど親密に見えるのか
グスタフ・クリムトの《接吻》を見たとき、最初に飛び込んでくるのはキスではなく、金色です。画面を覆う光の中に、顔と手だけがかろうじて浮かんでいる。男が女の頬にそっと口づけをしていること、女が目を閉じて身を預けていること。
それはわかります。けれど、その先がわからない。
グスタフ・クリムト《接吻》(1907-1908年、ベルヴェデーレ宮殿、ウィーン)。縦横ともに約180センチ、ほぼ等身大の油彩・金箔。装飾と人物が一体化したクリムト「黄金時代」の頂点とされる作品。, Public domain, via Wikimedia Commons.
二人の身体はほとんど見えないのです。男は黒と金の直線模様に、女は丸い花柄の衣にすっぽり覆われて、肌が出ているのは顔と手だけ。
残りは装飾に溶け、どこまでが人で、どこからが背景なのかさえ判然としません。これほど姿が隠されているのに、この絵は驚くほど親密に感じられます。
それはなぜでしょうか。
輪郭を奪われる親密さ
グスタフ・クリムト《接吻》(1907-1908年、ベルヴェデーレ宮殿、ウィーン)。縦横ともに約180センチ、ほぼ等身大の油彩・金箔。装飾と人物が一体化したクリムト「黄金時代」の頂点とされる作品。, Public domain, via Wikimedia Commons.
《接吻》が描かれたのは、1907年から1908年にかけてのことです。実物は縦横ともに180センチほどあり、ほぼ等身大の大きさがあります。
美術館で目の前に立つと、二人を外から眺めるというより、自分までその金色の中へ引き込まれていくように感じられます。親密な場面を描くなら、表情や視線、身体の重なりを細かく見せたくなるはずです。
しかしクリムトは、あえて反対のことをしました。二人を金色で覆い、身体の境目を曖昧にしたのです。
そのため私たちは、二人との距離感をうまく保つことができません。身体の輪郭がはっきり見えないからこそ、二人の「近さ」だけがより強く伝わってきます。
過ぎ去るものを永遠で覆う
なぜクリムトはここまで金を使ったのでしょうか。古くから金は「変わらないもの」を示す素材でした。錆びず、色褪せず、長い時間が経過しても光を失いません。
だからこそ人類は、仏像や教会のモザイク、王冠、結婚指輪のように、永遠であってほしいものに金を重ねてきました。
クリムトもまた、イタリア・ラヴェンナの教会でビザンティンのモザイク画を目にしています。そこでは、神に近い存在として大切にされてきた聖人たちの背後が、金色で埋め尽くされていました。
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂《殉教処女の行列》モザイク(6世紀、ラヴェンナ)。金色の地に聖女たちの行列が並ぶ。背景の金は、聖人たちを地上の時間から切り離し、永遠に近い世界の住人として示すための光だった。クリムトはイタリア旅行でこうしたビザンティン美術に直接触れている。, Public domain, via Wikimedia Commons.
その金色は画面を綺麗にするためではなく、聖人たちを私たちの日常とは違う、永遠に近い世界の存在として見せるための光でした。クリムトはその光を借りて、聖人ではなく恋人たちのキスを包みました。
唇が触れて、離れる。
キスは一瞬で終わります。どれほど大切な時間でも、次の瞬間にはもう過ぎ去ってしまいます。だからこそクリムトはその消えていく一瞬を、変わらない金で覆いました。
まるで「この時間だけは、このまま残ってほしい」と願うように。《接吻》の金色とは、過ぎていくものを繋ぎ止めようとする光なのです。
揺らぎはじめた永遠
こうした金色の光は、クリムトが生きた時代に広がっていた不安とも重なっています。
もし永遠を約束してくれるものが最初からなかったとしたら…。
19世紀末のヨーロッパでは、まさにその不安が現実になりつつありました。神が世界を見守っている、正しく生きれば死後に救われる。何世紀ものあいだ社会を支えてきた前提が、科学の発展とともに揺らぎはじめていたのです。
そのきっかけは進化論でした。1859年、ダーウィンが『種の起源』を発表します。
チャールズ・ダーウィン『種の起源』初版扉ページ(1859年)。人間も含めた生物が長い時間をかけて変化してきたとする進化論を提示し、聖書の天地創造を前提としてきた西洋世界の世界観を大きく揺さぶった。, Public domain, via Wikimedia Commons.
人間は神が特別につくった存在ではない。長い時間をかけて、他の動物から少しずつ変化してきた一匹の生き物にすぎない。
そのように告げる本でした。また同じころ地質学は、地球の年齢が聖書の言う数千年ではなく、何十億年にも及ぶことを明らかにしていきます。神が六日で世界をつくったという聖書の物語は、文字通りには信じにくくなっていた時代だったのです。
永遠を約束してくれる力がなくなったとき、人は何を支えに生きていけばいいのか。クリムトと同じ時代を生きた哲学者のニーチェは、その課題に正面から向き合いました。そして、ある思考実験を提示します。
もう一度、自分の人生を生きたいと思えるか
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)。19世紀末ドイツの哲学者。「神は死んだ」という言葉でも知られ、宗教的な世界観が崩れていく時代に、いかに自らの人生を肯定して生きられるかを考え続けた。, Public domain, via Wikimedia Commons.
ニーチェはこう問いかけました。
もし自分の人生がまったく同じ形で、何度でも繰り返されるとしたら。それでも「もう一度、同じ人生を送りたい」と言えるだろうか。
「永劫回帰」と呼ばれる思考実験です。神が永遠の救いを約束してくれないなら、人生の意味は外から与えられるものではなく、自分で探さなくてはいけません。
だからこそニーチェは、自らの人生を「自分自身で肯定できるのか」と問いました。辛かったことや恥ずかしい失敗、思い出したくもない後悔まで含めて、「それでもこの人生でよかった」と言えるかどうか。
そこに彼の考える新しい生き方があったのです。
「一瞬」を肯定する金色
《接吻》の金色も、同じことを語っているように見えます。二人が膝をついているのは、小さな花々が咲く崖のふちです。その先に何があるのかは描かれていません。
時間や場所もはっきりしませんが、やがて終わる一瞬だからこそ、二人はそこにすべてを預けているように見えます。
《接吻》部分。金の装飾に包まれた二人の顔と手だけがそっと浮かび上がっている。男の直線模様と女の花模様が重なり合い、抱き合う姿は金色の装飾に溶け込んでいる。, Public domain, via Wikimedia Commons.
人生のすべてを肯定するというニーチェの思想は、決して簡単なものではありません。それでもクリムトは、すぐに過ぎ去ってしまうキスの一瞬を金で包んでみせました。
完璧な記憶でなくても構いません。たった一つでも「この瞬間があってよかった」と思える時間があるなら、そこから始めればいいのです。
高校の文化祭前夜、誰もいない教室で友達と笑いながら、夜遅くまで準備をした時間。部活の帰り道、コンビニの前で仲間とアイスを食べながら、とりとめのない話をしていた夏の夕方。
あのときは「特別な瞬間だ」とは思っていなかったはずです。けれど何年経ってもふとした拍子に、その光景や匂い、会話までもが蘇ってくる。
そして思い出すたびに「あの時間があってよかった」「もう一度あったら嬉しい」と感じることがあります。
だとしたら、今日のどこかで過ごした何でもない時間も、何年か経って「あのときは良かったな」と思い返す日が来るかもしれません。そのように考えると目の前にある「今」を、もう少し丁寧に過ごしてみたくなります。
そうした小さな肯定を、クリムトは金色の光で包んだのではないでしょうか。
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大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。西洋哲学史の書籍『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』(ナツメ社)の執筆も担当した。立場や考え方の違いを越えて、芸術には人と人をつなぐ力があると信じている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。
大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。西洋哲学史の書籍『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』(ナツメ社)の執筆も担当した。立場や考え方の違いを越えて、芸術には人と人をつなぐ力があると信じている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。
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