STUDY
2024.10.22
日本美術の「狩野派」とは?狩野永徳や狩野正信など重要絵師を学ぶ
日本美術に親しむようになると、「狩野○○」という名前の絵師が大勢いることに気づくのではないでしょうか?
彼らは「狩野派(かのうは)」の絵師。室町時代後期から江戸時代末期にかけての約400年にわたり、日本美術の中心的な流派でした。
天下人や幕府の仕事を請け負ってきた「狩野派」は、日本美術の重要なキーワード。特徴や代表的な絵師を少しでも知っていると、美術館で目の前の作品と知識がつながって楽しく鑑賞できるので、一緒に学んでいきませんか?
目次
狩野永徳《唐獅子図屏風》, Public domain, via Wikimedia Commons.
狩野派とは?
狩野正信《山水図》2幅のうち1幅, Public domain, via Wikimedia Commons.
狩野派とは、親子(血縁)関係でつながる狩野家の絵師を中心とした、絵師の集団です。
室町時代から戦国時代にかけては、美術を含む日本の文化にも大きな変化がありました。足利将軍の権威が失墜する一方、戦国大名などが文化に親しむようになり、美術の受け手は大きく変わり、広がることになったのです。
狩野元信《四季花鳥図》8幅のうち1幅, Public domain, via Wikimedia Commons.
そんな変化に上手に対応したのが、狩野派です。不安定な世の中にあっても、将軍や天下人の「お抱え」というブランドを世襲制によって維持。そのときどきの権力者の仕事を請け負い、日本美術の中心的な存在であり続けました。
約400年、変わらぬ味?
狩野山楽《紅梅図襖》, Public domain, via Wikimedia Commons.
約400年もの歴史があるため、狩野派の絵の特徴を一言で表すのは難しい…のは事実ですが、狩野派イズムが流れているというか、狩野派の絵画には共通点が感じられます。彼らが「粉本(ふんぽん)」というお手本を通し、狩野派らしさを継承したからです。
粉本は絵の参考資料とされたり、弟子の教育に使用されたりしました。同じ資料に基づくためか、狩野派の絵は違う絵師が描いたものでもモチーフの描き方などがよく似ています。
狩野永徳《聚光院方丈障壁画》「花鳥図」, Public domain, via Wikimedia Commons.
現代の「美術は自由なもの」「0から1を生むのが芸術」といった感覚からすると、狩野派が行ったことは「既存の絵の再生産や再現」に感じられるかもしれません。
ですが、粉本があったからこそ、当時の注文主が求めるものを迅速かつ高い品質で提供できた、とも言えます。大勢の顧客のニーズに素早く対応できたことも、狩野派の特徴のひとつです。
(一方、狩野派の流れを汲みつつも他の流派や画法も取り入れ、独自路線で活躍した河鍋暁斎のような絵師もいます。一口に狩野派といっても、多様な作家がいることを補足させてください)
狩野派の重要な絵師たち
狩野派の絵師は星の数ほどいますが、ここでは特に重要な絵師を5人紹介していきます。
狩野正信(かのう・まさのぶ、1434-1530)
狩野正信《周茂叔愛蓮図》, Public domain, via Wikimedia Commons.
狩野派の祖となる人物が、狩野正信です。室町幕府の御用絵師として、足利義政に仕えました。出自や誰に絵を学んだのかなど、正信のプロフィールは今もわかっていないことが多いです。
御用絵師について以降、正信は障壁画や仏画、肖像画など、さまざまな作品を水墨で仕上げました。狩野派というと、まばゆく輝く金屏風を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、始まりは東山文化らしい水墨画だったのです。
狩野元信(かのう・もとのぶ、1476-1559)
狩野元信《四季花鳥図》8幅のうち1幅, Public domain, via Wikimedia Commons.
正信を継いだのが、長男の元信です。中国由来の水墨画(漢画)を父から受け継ぐだけでなく、日本で育まれたやまと絵の分野にも進出し、ふたつの融合を図りました。
狩野派の画風の基礎を築いたのみならず、幅広い顧客層を開拓した点でも重要な人物です。その後およそ400年続く狩野派の基礎を固めたのが元信と言えるでしょう。
狩野永徳(かのう・えいとく、1543-1590)
狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.
狩野派の絵師のなかで最重要の人物です。ここまで記事を読み、「こんないっぱい覚えられないよ!」と思った方は、どうか永徳だけ知っていただければ…!
永徳は狩野派どころか桃山美術を代表する画家です。織田信長や豊臣秀吉に重用され、安土城や大阪城、聚楽第の障壁画などを請け負いました。
関連記事:狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~
狩野永徳《檜図屏風》, Public domain, via Wikimedia Commons.
大きな画面を活かした力強い表現や、金箔を画面全体に貼った豪華な装飾は、狩野派のみならず当時の画壇に影響を与えるほど。残念ながら建築の焼失とともに永徳の作品は多くが失われたのですが、現存する作品の希少さに拍車をかけているように思います。
狩野探幽(かのう・たんゆう、1602-1674)
狩野探幽《雪中梅竹鳥図》, Public domain, via Wikimedia Commons.
永徳の孫である探幽は、永徳の再来とされるほど絵の才覚があり、16歳で江戸幕府の御用絵師となりました。京都から江戸へ出た探幽を中心とする一派は「江戸狩野(えどかのう)」と呼ばれています。
江戸城、二条城、名古屋城の障壁画などを手がけた探幽の作風は、余白を大きく取るなど落ち着いた印象があります。それまでの狩野派の桃山美術らしい作風よりも江戸時代の空気にマッチしたのか、詩情の豊かな探幽の作風は大いに支持されました。
以降、江戸狩野は探幽を規範として栄えていきます。その影響は琳派など狩野派以外の絵師にも見ることができます。
狩野山楽(かのう・さんらく、1559-1635)
狩野山楽《龍虎図屏風》, Public domain, via Wikimedia Commons.
江戸に出た一派がいる一方、京都に残った人々も。彼らのことを「京狩野(きょうかのう)」と呼びます。京狩野の初代となったのが、山楽です。
山楽は狩野の血筋ではない部門の生まれですが、秀吉に才能を認められて永徳の弟子となり、その画風を受け継ぎました。東福寺法堂天井画の制作中に倒れた永徳のあとを継ぎ、絵を完成させたのも山楽です。
狩野派は日本美術における最大の絵師集団
狩野山楽《牡丹図襖》, Public domain, via Wikimedia Commons.
日本美術を見慣れてくると、理由はわからずとも「狩野派っぽいなあ」と感じる作品に出会うことが多々あります。たいてい、絵師の名前は初見なのですが、感覚で狩野派らしさをキャッチしているようです。
そんな「狩野派イズム」は確かにあれど、一人一人の絵師の個性が作品に表れるのも、また事実。時代の影響を受け、ときに時代に影響を与えながら、狩野派は展開していきました。
約400年という長い期間、ひとつの絵師グループが繁栄したのは、世界的にも珍しいことです。狩野派の作品に出会ったら、「狩野派」という大きな枠組みと同時に、絵師たち個人の想いも想像しながら鑑賞したい…! と、この記事を書きながら美術館に行きたくてたまらない気分になりました。
関連記事:狩野派?琳派?日本美術史の「流派」を押さえて楽しく鑑賞しよう
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美術ブロガー/ライター。美術ブログ「アートの定理」をはじめ、各種メディアで美術館巡りの楽しさを発信している。西洋美術、日本美術、現代アート、建築や装飾など、多岐にわたるジャンルを紹介。人よりも猫やスズメなど動物に好かれる体質のため、可愛い動物の写真や動画もSNSで発信している。
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