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2024.8.26

狩野派?琳派?日本美術史の「流派」を押さえて楽しく鑑賞しよう

「美術の鑑賞には知識が必要」と言うと、ハードルが高く感じられます。が、ある意味、正論でもあるんですよね…。

作品が生まれた背景を少しでも知っていると、美術品を見て「おもしろい!」と感じるポイントが増えるのです。私自身、歴史の勉強は苦手ですが、知れば知るほど美術鑑賞が楽しくなることに気づきました。

尾形光琳《燕子花図屏風》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

とは言っても、いきなり難しく考えなくてOKです。まずは、ちょっとした雑学レベルから日本美術史に触れてみましょう!

この記事では日本美術史の主要な流派として、以下の6つを簡単に紹介していきます。

・狩野派
・長谷川派
・琳派
・円山四条派
・奇想の画家
・歌川派

絶対押さえておくべし!日本美術の最大手ブランド「狩野派」

狩野永徳《檜図屏風》, Public domain, via Wikimedia Commons.

狩野派(かのうは)は室町時代から江戸時代までの約400年にわたって活躍した、日本美術における最大手の流派です。幕府や天下人など、いわゆる「お上」からの仕事を主に請け負いました。

狩野派は体系的な手本を弟子に写させ、誰でも「狩野派っぽい絵」が描けるよう教育を行いました。そのためでしょうか、狩野派の作品には何となく似たところがあります。

狩野永徳《唐獅子図屏風》, Public domain, via Wikimedia Commons.

狩野派で最も有名な画家といえば、狩野永徳(かのう・えいとく、1543-1590)です。織田信長や豊臣秀吉に仕え、安土城、大坂城、聚楽第などの襖絵を弟子たちと共に制作しました。現存する作品は数少ないのですが、《唐獅子図屏風》のような力強い大作で知られています。

永徳のように、個性と狩野派らしさを両立して名品を生んだ画家もいますが、「狩野派っぽさ」が強く受け継がれるため、似たり寄ったりの作品が多いとも感じられます。見る人にも飽きがあったのでしょうか、新しい流派の勢いに押された時代もありました。

関連記事:狩野永徳 47年の軌跡~絵筆を武器に乱世を駆ける~

狩野派に挑む?「長谷川派」の誕生で日本美術史が動く

長谷川等伯《松林図屏風》(左隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

永徳が亡くなる頃に頭角を現したのが、長谷川等伯(はせがわ・とうはく、1539-1610)です。等伯に連なる一派は江戸時代中期にかけて活躍し、「長谷川派」と呼ばれています。

等伯が生きた時代、日本美術では狩野派が絶大なブランド力を誇っていました。狩野派に入門して絵を学ぶのが画家になる近道…と考えられそうなところ、能登の七尾から京都へ出てきた等伯は、なんと自分の流派(長谷川派)を組織します。

※短期間ではありますが、等伯は狩野派に弟子入りしていたことがあります。敵情視察という感じでしょうか…?

等伯自身の高い画力に加え、弟子を取って人手を増やしたことにより、長谷川派は狩野派に対抗できる派閥になりました。御所の仕事を受注するなど、狩野派の独占状態だった領域にも踏み込み、狩野派ブランドを脅かす存在に成長します。

長谷川等伯《楓図》, Public domain, via Wikimedia Commons.

名声を高めた長谷川派は、智積院の障壁画群など大きな仕事を請け負いました。桃山時代の文化を映す、豪華絢爛な作品です。

一方で、等伯は《松林図屏風》のような豪華とは真逆の作品も残しています。息子を失った悲しみや、移りゆく時代に思う所があったのではないか…と、一代で名声を築いた等伯の感情を想像せずにはいられません。

関連記事:長谷川等伯72年の軌跡!狩野永徳がもっとも恐れた男

弟子を取らずに流派が誕生?私淑によって生まれた「琳派」

俵屋宗達《風神雷神図屏風》, Public domain, via Wikimedia Commons.

狩野派や長谷川派は、師匠から弟子へと画風を受け継いでいくことにより、1つの流派を築きました。日本美術における「○○派」は、こうして生まれるのが一般的です。

ところが江戸時代に入り、「師匠も弟子も取らない流派」が誕生しました。それが「琳派(りんぱ)」です。

琳派が生まれるきっかけとなった人物が、尾形光琳(おがた・こうりん、1658-1716)です。狩野派に学んだ光琳は俵屋宗達(1570-1643)の絵に感銘を受け、「私淑」という形でその画風を継承しました。これが琳派の始まりです。

生没年からもわかるとおり、宗達と光琳の生きた時代は重なりません。光琳は宗達から直接指導を受けることはできませんでした。宗達の作品を通して、自主的に絵を学んだのです。

尾形光琳《風神雷神図屏風》, Public domain, via Wikimedia Commons.

光琳が宗達に私淑したように、次は酒井抱一(さかい・ほういつ、1761-1828)が光琳に私淑します。時代を超えて絵で繋がることによって、琳派という流派が形成されました。

琳派の系譜を示す面白い作品が《風神雷神図屏風》です。宗達が描いたのと同じ構図で光琳も描き、抱一も同じように描きました。

酒井抱一《風神雷神図屏風》, Public domain, via Wikimedia Commons.

左右に風神と雷神を大きく配置した構図が共通する作品たち。よく見ると風神雷神の顔が違ったり、雲の描き方が異なったりしています。

尊敬する師の作品からエッセンスを受け継ぎつつ、個人の美意識を自由に表現するのが琳派の特徴のように思います。(師匠が亡くなっていて忖度する必要が無かったのでしょうか?)

よく観察し、写生するべし「円山四条派」

円山応挙《雪松図屏風》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

江戸時代の京都では、円山応挙(まるやま・おうきょ、1733-95)が台頭しました。狩野派が伸び悩んでいた時代、「写生」を重視する作風で一気に人気画家になりました。

狩野派には手本すなわち「絵の描き方マニュアル」があり、弟子はそれを写すことで絵を学びました。師匠の絵柄を受け継ぐスタイルですが、新しいものが生まれにくかったのかもしれません。

一方、応挙が重視したのは「写生」。本物の動物や植物などをよく観察し、制作に活かしました。応挙の描く生き生きとした動物や、みずみずしい植物はリアリティがあり、狩野派と異なる画風を生んで人気を博したのです。

呉春《白梅図屏風》(右隻), Public domain, via Wikimedia Commons.

同じ頃、与謝蕪村のもとで絵と俳諧を学んだ呉春(ごしゅん、1758-1811)も、京都で活躍しました。蕪村と応挙の画風を融合させた作風が特徴です。

呉春は応挙への弟子入りを求めたものの、呉春に既に弟子がおり、応挙と呉春は友人の関係だったようです。応挙に連なる「円山派」と呉春に連なる「四条派」を合わせて、「円山四条派」と呼びます。

個性が爆発!いま注目が高まる「奇想の画家」

伊藤若冲《動植綵絵》「群鶏図」, Public domain, via Wikimedia Commons.

同じく江戸時代には、特定の流派に所属することなく、個性を爆発させた画家たちも生まれました。近年、「奇想の画家」として注目を浴びている画家たちです。

「奇想の画家」は狩野派や琳派などと異なり、師弟関係のある流派やグループではありませんが、日本美術史における重要なキーワードです。

真っ先に名前を挙げたいのが、伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう、1716-1800)です。思い切った構図と色彩が特徴の動物画は、一度見たら目に焼き付くほど鮮烈な印象を残します。鶏を気に入って繰り返し描いており、トサカの赤の印象が強い画家です。

曽我蕭白《蝦蟇・鉄拐仙人図》, Public domain, via Wikimedia Commons.

曽我蕭白(そが・しょうはく、1730-1781)も奇想の画家のひとりです。高い水墨画の技術を持つ画家ですが、描く人物の顔が不気味…いえ、とてもユニークですよね…!

江戸時代には、彼らのように個性的な画家の作品も受け入れられる土壌ができていました。その作風は現代人にも新鮮に見えるのか、奇想の画家を紹介する展覧会は軒並み人気となっております。

庶民に人気の浮世絵で最大流派「歌川派」

歌川広重《東海道五十三次》「江尻」, Public domain, via Wikimedia Commons.

江戸時代には「浮世絵」という絵のジャンルが確立し、葛飾北斎や歌川広重など日本が世界に誇る画家が数多く誕生しました。浮世絵の世界でも流派が形成され、最大となったのが「歌川派」です。

一時期には浮世絵師の大半が歌川派だったと言われるほどの大きな流派。風景画、役者絵、武者絵など、さまざまなジャンルをカバーしていました。

歌川広重《名所江戸百景》「八ツ見のはし」, Public domain, via Wikimedia Commons.

特に有名なのは、歌川広重と歌川国芳でしょうか。

歌川広重(うたがわ・ひろしげ、1797-1858)は、《東海道五十三次》や《名所江戸百景》など、主に風景画で活躍しました。旅情に溢れる広重の名所絵を見ていると、江戸時代に行ってみたくなります。

歌川国芳《宮本武蔵の鯨退治》, Public domain, via Wikimedia Commons.

歌川国芳(うたがわ・くによし、1798-1861)は武者絵を中心に活躍した幕末の浮世絵師です。中国の長編小説「奇譚水滸伝」を描いたシリーズで人気を博しました。

大の猫好きで猫の絵も人気のある国芳は、面倒見の良い親分気質。100人以上の弟子を抱えていたこともありました。

流派に所属しない画家たちも

葛飾北斎《芍藥 カナアリ》, Public domain, via Wikimedia Commons.

いくつかの流派を渡り歩いて独自の画風を確立した画家もいます。例えば葛飾北斎は勝川春章に入門したため勝川派出身ではありますが、他の流派の画家の作風も取り入れて自身の絵を磨きました。

また、上で説明した長谷川等伯や円山応挙は、狩野派に学んだことがあります。狩野派以外の画家でも、狩野派に学んだ経験のある人は少なくありません。

1つの流派に入門したら一生その流派から出られない、というわけではないので、日本美術の画家たちは多様な経歴を持っています。むしろ優れた画家ほど、いろいろな流派から絵を吸収しています。

関連記事:葛飾北斎を10倍楽しむ!「絵に魂を売りすぎた男」のぶっ飛びエピソード

日本美術の主な流派まとめ

日本美術の主な流派について解説してきました。ものすごく簡単にまとめると、

・最大の流派(メジャー)は狩野派
・狩野派との違いに着目すると、他の流派がわかりやすい

といったところでしょうか。

実物の作品をたくさん見ていくうちに、「狩野派の影響が濃いな〜」など、作品の母体を意識できるようになってきます。画家がある画風を身につけようと練習していたり、身についた画風を脱しようともがいていたり、そんな風景さえも見えてくるようになるのです。

「日本美術史を勉強しよう」というと難しそうに感じられますが、少しの知識があるだけで、鑑賞の楽しさは倍増します。この記事を、美術の歴史を学ぶきっかけにしていただけたら嬉しいです。

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明菜

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美術ブロガー/ライター。美術ブログ「アートの定理」をはじめ、各種メディアで美術館巡りの楽しさを発信している。西洋美術、日本美術、現代アート、建築や装飾など、多岐にわたるジャンルを紹介。人よりも猫やスズメなど動物に好かれる体質のため、可愛い動物の写真や動画もSNSで発信している。

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