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2023.9.19
長谷川等伯72年の軌跡!狩野永徳がもっとも恐れた男
日本史上、もっともエネルギーに溢れていた安土桃山時代。天下人たる信長、秀吉に仕え、当時の画壇のトップに立っていた狩野永徳に真っ向からの戦いを挑んだ人物がいました。
彼の名は、長谷川等伯。
故郷である能登国で仏画を主に手掛ける絵師としてスタートした彼にとって、京の絵師の名門に生まれ育った永徳は、本来なら、雲の上の存在だったでしょう。
長谷川等伯、『松林図屛風(右隻)』(国宝)、16世紀、東京国立博物館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
が、等伯は長い時間をかけて腕を磨き、力を蓄え、ついには永徳と彼が率いる狩野派に下克上を挑み、彼らの地位を大きく揺るがします。
しかし、いざこれから、という時に思わぬ悲劇が彼を襲います。「天下一の絵師」永徳が、もっとも恐れた男の71年の軌跡をご覧ください。
北陸のローカル絵師
長谷川等伯は、1539年、能登国七尾で奥村氏の子として生まれました。奥村氏は能登の大名・畠山氏の家臣でしたが、等伯は幼い頃に、染物業を営む長谷川家に養子に出されます。
生家や養家の影響を受け、日蓮宗の熱心な信徒として育った彼は、「信春」と号し、仏画や僧の肖像画などを手掛ける絵仏師として活動するようになります。
当時の代表作として挙げられるのが、『善女龍王図』です。
長谷川信春(等伯)、『善女龍王図』、16世紀、七尾美術館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
朱色や金、緑などの華やかな色彩と、巧みな線描によって細部まで緻密に描きこまれたこの像は、若き等伯の才能を感じさせます。北陸には、この絵以外にも十数点の作品が残っており、彼が同地で高く評価されていたことがわかります。
しかし、彼はこのまま北陸地方の一絵師として、終わるつもりはありませんでした。
もっと上を目指したい。もっと大きな舞台で勝負したい。
そして、長谷川家の養父母が亡くなった後、1571年頃に彼は伝手をたどり、妻子と共に京へと向かったのです。
「打倒・狩野派!」 20年かけての下克上
等伯が上京した当時、画壇は狩野永徳率いる狩野派が幅を利かせていました。大きな仕事も、狩野派の独占状態で、そこに割り込むことは至難の業です。普通なら、そこで気力が萎えたとしてもおかしくはないでしょう。
しかし、等伯は諦めませんでした。「打倒・狩野派」に向け、約20年もの月日をかけて、準備をすすめます。その戦略は、「自身のレベルアップ」「門人の育成」「実績と人脈作り」の三つの方法から成ります。
まず、彼自身の技量のレベルアップ。京と堺を行き来しながら、13世紀の中国の画家牧谿や日本の雪舟、曾我蛇足ら先人たちの作品を研究、吸収し、その成果を『竹林猿猴図』などの作品に活かしていきます。
長谷川等伯、『竹林猿猴図;猿猴図』(重要文化財)、16世紀、相国寺(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
永徳の父である松栄の門下にも短期間ではありますが弟子入りして、最先端の流行や技術にも触れていました。
自身のスキルアップと並行して力を入れたのが、門人の育成です。どれほど優れた技術を持ち、素晴らしい作品を生み出せるとしても、一人の人間ができる仕事量には、限界があります。
狩野派が、安土城や大阪城の内部装飾など、大規模な仕事を手掛けられたのは、トップである永徳の手足となる多くの門人がいたからこそです。永徳、いや狩野派に対抗するには、等伯もまた「集団制作」の体制を整える必要がありました。
等伯は早速子供たちや弟子を集め、技を伝授します。息子・久蔵もその一人で、等伯は、自分の後継として大きな期待を寄せていきました。
これらの準備がある程度整うと、彼は実績と人脈作りに動き出します。狩野派の手の回りきっていない相手を狙い、自身を売り込んでいったのです。作戦は成功し、新興ブランド「長谷川派」は徐々に知名度をあげていきます。
彼が獲得した顧客の中には、秀吉の茶頭を務める千利休もいました。
長谷川等伯、『千利休像』(重要文化財)、1595年、不審庵(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
こうして長い年月をかけて、狩野派に対抗しうる力を得た等伯は、1590年、満を持して狩野派との直接対決に挑みます。狩野派が全面的に任されるはずだった、後陽成天皇の御所の装飾の仕事に割り込み、一部を長谷川派で請け負おうとしたのです。
当時、彼はすでに50代に入っていました。
チャンスをつかむ―智積院壁画群誕生
狩野派に対する宣戦布告とも言うべき等伯の行動に、永徳は当然激怒しました。彼は人脈を駆使して、長谷川派の割り込みを阻止します。が、日頃の激務から来る過労に、精神的ショックも重なったためか、それから間もなくして、亡くなります。
強力なリーダーを失った狩野派は、混乱に陥りますが、等伯にとって、それは大きなチャンスでした。1591年、秀吉の愛児鶴松の菩提寺として祥雲寺の建設が始まると、内部を飾る障壁画制作を、長谷川派が請け負うこととなったのです。
こうして生まれたのが、『楓図』をはじめとする、智積院の障壁画群です。
長谷川等伯、『楓図』(国宝)、1591~3年、智積院(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
金色の画面の中央に大きく枝を広げる楓の樹が描き出されています。亡き永徳が編み出した、大画面に巨大なモチーフを配する「大画様式」に拠っていますが、2人の作品を比較してみると、雰囲気は大きく異なります。
狩野永徳、『檜図屛風』(国宝)、1590年、東京国立博物館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
永徳の『檜図』は、金地の背景(バック)に、太い木の幹が画面の天地を貫くダイナミックな構図で、曲がりくねりながら伸びる枝振りからも、見る者を威圧するような強い生命力が感じられます。
一方、等伯の『楓図』は、大きな楓の樹を中心にしながらも、その周囲に色とりどりの葉や種々の植物を配することで、全体の雰囲気を和らげ、繊細で優しい雰囲気を生み出しています。
長谷川等伯、『松に草花図』、1591~93年、智積院(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
このように、大樹を中心に美しい草花が咲き乱れる絵に囲まれた空間は、その中に入った者に、仏や菩薩が住む清らかな世界(「浄土」)を想起させたでしょう。
5歳の我が子を失った秀吉もまた、この絵に心を慰められたのではないでしょうか?
権力者であると同時に、一人の父親でもある男の悲しみに寄り添う作品群の中で、現在まで智積院に残っているのはその一部にすぎません。しかし、それらは狩野派とは異なる、長谷川派独自の境地を表すものと言えます。
悲しみを越えて―『松林図屛風』誕生
1593年に祥雲寺の障壁画の仕事は、秀吉を大いに満足させました。このまま行けば、狩野派に代わって御用絵師となることも夢ではなかったでしょう。
しかし、それは同年に起きた思わぬ事件によって砕かれることとなります。長男の久蔵が亡くなったのです。彼は「画の清雅さでは父に勝る」と言われ、祥雲寺の障壁画制作においては、『桜図』を手掛けていました。
長谷川久蔵、『桜図』、1591~93年、智積院(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
次代を担う存在として十分な実力を持つ彼を失ったことは、等伯にとって、父親としても絵師としても大きな打撃でした。
さらに1598年には秀吉も亡くなります。時代は大きく動きつつありました。いつまでも、悲しみに浸っていることは許されません。絵師として、長谷川派の棟梁として、等伯は歩み続けます。
そして彼は、もう一つの代表作『松林図屛風』を生み出したのです。
長谷川等伯、『松林図屛風(右隻)』(国宝)、16世紀、東京国立博物館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
長谷川等伯、『松林図屛風(左隻)』(国宝)、16世紀、東京国立博物館(パブリックドメイン)(出典:wikipedia)
朝靄に覆われた中に何本もの背の高い松の木が連なる様が、白と黒の2色のみによって描き出されています。筆致は大雑把で、構図もシンプルですが、はるか奥へと広がる空間や、そこに満ちる朝方のひんやりと湿った空気すら感じられます。
『楓図』とはあらゆる点で対照的なこの屛風作品は、等伯のもう一つの境地と言えるでしょう。
息子の死と共に、思い描いていたこれからの予想図も失われてしまった。しかし、ここに至るまでに彼が積み重ねてきたものは決して無駄ではない。彼にはまだ、こうして絵を描くことができる自分自身が残っている。
作品制作を通して、そう思えるようになったのではないでしょうか?彼はその後も作品を描き続け、1604年には法橋、さらに翌年には法眼と、絵師として名誉のある地位に叙せられます。
さらに後には、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康に招かれ、江戸へと向かいますが、途中で発病し、到着後間もなく亡くなります。72歳でした。
ローカル絵師としてスタートを切り、野心を抱いて京に出て、長い年月をかけて準備した上で、狩野派に下克上を挑んだ長谷川等伯。
「天下一」の座を手に入れることは叶いませんでしたが、生み出した絵の数々を通し、彼は自分の名と存在を、確かなものとして歴史に刻みました。長谷川派も、等伯の死後は揮いませんでしたが、江戸時代初期まで存続しました。
そのような等伯の生きざまは、ライバルである永徳と同様、安土桃山という時代を体現したものと言えるでしょう。
参考文献
・黒田泰三、『もっと知りたい長谷川等伯 生涯と作品(アート・ビギナーズ・コレクション)』、東京美術、2010年
・『別冊太陽 長谷川等伯 桃山画壇の変革者』、平凡社、2010年
・安村敏信、『すぐわかる画家別近世日本絵画の見かた』、東京美術、2005年
・守屋正彦、『すぐわかる日本の絵画【改訂版】』、2012年、東京美術
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アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。
アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。
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