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STUDY

2025.2.7

【色彩の魔術師】マルク・シャガールの魅力!愛の画家が描く幻想世界

幻想的な色彩と夢のような世界観で知られる画家、マルク・シャガール。彼の作品は「愛」と「希望」に満ち、多くの人々の心を魅了し続けています。

シャガールの作品は、空を舞う恋人たちや鮮やかな色彩が特徴的です。本記事では、シャガールの生涯と作品の魅力に迫り、彼がどのようにして独自の画風を確立したのかを探ります。シャガールの絵が生まれた背景を知ることで、より深い感動が得られるでしょう。

最後まで読むことで、彼の人生とそれがどのように作品に反映していったのかがわかり、深く絵を楽しめるようになります。

ぜひ、最後まで読んでみてくださいね!!

シャガールが「愛の画家」「色彩の魔術師」と呼ばれる理由

マルクシャガール(ウィキメディア・コモンズ)Marc Chagall 1941 , Public domain, via Wikimedia Commons.

シャガールには、次の二つの別名があります。

①愛の画家

シャガールは、若き日に出会ったベラ・ローゼンフェルトを一途に愛しました。彼女への想いは一方的ではありません。相思相愛の二人だったのです。

彼の作品にはベラへの愛や「結婚」をテーマとした作品が数多く描かれています。これが、シャガールが「愛の画家」と言われる所以です。

②色彩の魔術師

彼は「色彩の魔術師」と言われるほど、色を巧みに使う画家でした。彼の作品は、師匠から「色彩が歌っている」と賞賛されるほど、豊かな色で描かれているのです。

シャガールはさまざまな「青」を使って、故郷や愛する人への想い、希望・夢などを表現してきました。彼の使う青は、「シャガール・ブルー」と呼ばれています。

マルク・シャガールの97年:戦争と革命の時代に「愛」を独自に表現

ベラルーシにあるシャガールの家(ウィキメディア・コモンズ)Marc Chagall House - Vitebsk - Belarus (27430073700), Public domain, via Wikimedia Commons.

幼少期:ロシア

1887年、シャガールは帝政ロシア領ヴィテブスク(現在のベラルーシ共和国)で、ユダヤ人の夫婦の間に生まれます。彼は「モイシェ・ハツケレフ」と名付けられました。9人兄弟の長男で、ニシン倉庫で働く父と、食料品店を営む母を両親に持ちます。家庭は貧しかったそうです。

シャガールの名の「モイシェ」とは、旧約聖書の預言者である「モーセ」を意味しています。

シャガールの祖父はユダヤ教会堂の説教師・詠唱者、父は毎日欠かさず教会堂に通う、熱心なユダヤ教徒でした。

当時のユダヤ教は、いかなる像もつくることを禁じていました。このような環境の中で、シャガールが画家を目指すのは厳しいものだったと言えます。

少年時代は、地元のユダヤ人学校に通っていたシャガール。画家になろうと背中を押してくれたのは、母の存在です。シャガールの母は、画家と交友があった母の兄に相談し、彼の「画家になろう」という決心を認めたのです。

19歳ごろ、シャガールは地元ヴィテブスクの画家イェフダ・ペンのスタジオで学ぶことになりました。

修行時代

ペンのスタジオで知り合った友人の提案により、シャガールは絵画の勉強を深めるため、1907年から1909年(20歳から22歳)まで、サンクトペテルブルクに滞在します。

彼はいくつかの芸術学校で学んだのち、当時のロシア美術界の指導的人物である、ユダヤ人画家レオン・バクストに師事しました。バクストからは、現代的な芸術表現の手法や色を使うことを教え込まれ、現代フランス絵画も学んでいます。

サンクトペテルブルク滞在中、シャガールは、さまざまな美術館に足を運んでいます。ビザンティン・ロシアの伝統作品との出会いは、彼の作品づくりに重要な影響を与えました。

最愛の人との出会い


シャガールは、故郷ヴィテブスクに帰省した際に、のちの妻となるベラ・ローゼンフェルトと出会います。ベラの家は、宝石店を営む裕福なユダヤ人家庭でした。当時のベラは14歳です。

ベラの両親は、貧しい家に生まれたシャガールとの交際に反対します。

憧れのパリへ

1911年(24歳)弁護士マックス・ヴィナヴェルからの援助を受けて、シャガールはパリに出ます。この頃、フランス語らしい発音の「マルク・シャガール」に名前を変えました。

パリでは、多くの仲間と知り合います。制作に励む一方、若ものたちが住むラ・リュッシュ(ハチの巣)でアポリネール、サンドラールら詩人たちとも交流しました。

シャガールは、キュビスムやフォーヴィスムを中心とする最新の美術に影響を受けるものの、独自の表現にこだわり続けました。「恋人」や「花束」といった題材が絵の中に浮遊するなど、作風には物語性があります。

1914年(27歳)、ドイツのベルリンで個展を開催。シャガールの作品はドイツ表現主義の若い画家たちに衝撃を与えます。初の個展の成功は、彼の芸術家としての評価を高めることとなりました。

キュビスム・フォーヴィスムについてはこちらの記事も合わせてご覧ください。

最愛の人との結婚


ベルリンでの個展が成功した後、シャガールは一時的に故郷に帰ります。

画家として自立をしたシャガール。ベラの両親は彼とベラの交際を認めました。

「私は彼女こそ、私の妻になるのだと感じた」
「この人が何かいうたびに、私はドキッとしてしまう」

互いに惹かれあっていた二人は、出会ってから7年後の1915年にめでたく結婚。翌1916年には、娘イダが生まれました。

シャガールがロシア滞在中に、第一次世界大戦(1914年)が勃発。シャガールはパリに戻ることができなくなりました。その後、彼はサンクトペテルブルクに移ります。

当初、彼のロシア滞在は短期間の予定でした。しかし、第一次世界大戦のほか、ロシア革命(1917年)、内乱といった国内の混乱の影響を受け、8年間もの間ロシアに留まることとなります。

ロシア滞在中、シャガールは美術学校や美術館の創設などに精力的に貢献しましたが、他の講師陣と芸術の方向性で意見が対立。任命されていた役職を退任します。

彼の革命への想いは、当時のロシアには受け入れられなかったのでしょう。

第一次世界大戦後、再びパリへ

シャガールはロシアを離れベルリンでしばらく暮らしたのち、1923年(36歳)の時、やっとパリに戻れました。

悲しいことに、彼がパリで借りていたアトリエには違う人が住んでいたのです。彼の作品はすべて処分されていました。彼はこのことに、とてもショックを受けました。

さらに、ベルリンでの初個展に出展していた作品も、すべて売られていたのです。ドイツが戦争で負けて、お金の価値が暴落していたこともあり、彼の作品はとても安い値段で売られていました。

この頃から、画商のヴォラールから挿絵の注文を受けます。いくつかの作品で成功を収めたのち、シャガールはヴォラールから旧約聖書の挿絵を頼まれました。

旧約聖書は、ユダヤ人民族についての文書を集めたもの。ユダヤ人であるシャガールにとって、大切な書物に関する挿絵を頼まれたのは、とても喜ばしいことでした。

この仕事(挿絵集『聖書』を手掛けること)のために、シャガールは旧約聖書内の中心的な舞台パレスチナへ旅立ちます。パレスチナへの旅行は、その後の彼の芸術にとって重要な意味をもたらしました。

パレスチナ以外にも、彼はヨーロッパ各地を旅し、多くの作品から学び作品『聖書』に活かしています。当時シャガールが影響を受けた画家は、レンブラント、ベラスケス、ゴヤ、グレコなどです。

ナチスのユダヤ人への圧力。南フランスへ


1933年ドイツではヒトラーが政権を取得し首相となります。1937年(50歳)の時、ナチス政権の命令により、ドイツ国内の美術館からシャガールの全作品が撤去されてしまいました。さらに同年、彼の最初の師匠であったイェフダ・ペンが国家秘密警察に殺害されてしまいます。

シャガールの画家としての名声は高まっていきました。しかし、当時の世界は再び戦争が起こりそうな不安な状況だったのです。

1938年(51歳)の時、シャガールはフランス国籍を取得、第二次世界大戦勃発直後に、彼は家族と共にフランス南部の比較的安全なところへ移動しました。

アメリカへ亡命

1940年(53歳)、シャガールの元へアメリカニューヨーク近代美術館から招待されます。フランスに残ることに危機を感じていなかったシャガールでしたが、翌年にフランスでユダヤ人問題局が設立され、自身のフランス国籍が剥奪されそうだとわかってしまいます。

彼は、フランスに侵攻したナチスの手から逃れるため、アメリカへ亡命しました。同年11月、シャガールはアメリカで最初の展覧会を開催します。

妻ベラ突然の死

戦争や改革で作品を失い、人権侵害を受けてきたシャガールに、さらなる悲劇が訪れます。1944(57歳)、アメリカ亡命中、突然ベラが病気で亡くなったのです。

あまりにも急なベラの死を、シャガールは受け入れられませんでした。何ヶ月も筆を取れなくなります。

しかし、娘のイダをはじめとする周囲の支えや新しいパートナーとの出会いで、シャガールは立ち直り、制作を再開。「色彩の魔術師」と呼ばれるほどの、鮮やかな色彩表現を深めていきました。

パリに戻ってから

生きる希望を取り戻したシャガールは、1948年(61歳)パリに戻ります。

1950年(63歳)からは南仏のヴァンスに家を購入。この頃、彼の家の近くにアトリエを持っていたマティスとピカソに断続的に会っていたようです。

1952年(65歳)の時、ヴァレンティーナ・ブロッキーと再婚。この頃から、装飾芸術に夢中になっていきます。彼には、ステンドグラスや大きな絵画制作の依頼が殺到しました。

シャガールは80歳を超えてもなお、精力的にステンドグラスや絵の制作を行っています。息を引き取ったその日も、アトリエで絵を描いていたそうです。

1985年、シャガールは惜しまれつつこの世を去りました。享年97歳でした。

シャガールの代表作品5選

マルク・シャガール通(ウィキメディア・コモンズ)Plaque Allée Marc Chagall - Boulogne-Billancourt (FR92), Public domain, via Wikimedia Commons.

97歳の生涯にわたって作品を創り続けたシャガール。彼の代表的な作品を紹介します。

なお、シャガールは没後70年を経過していないため、著作権の関係上、記事に画像を添付していません。参考リンクで作品を見られるものもあるので、ぜひリンク先で絵を楽しんでくださいね。

7本指の自画像(1913年)


故郷ロシアの風景の向こうに、都会の象徴エッフェル塔が描かれています。伝統的なユダヤ文化と近代的な世界の間で揺れる心を表しているのでしょう。

作品は、アムステルダム市立美術館に収蔵されています。

私と村(1911年)


故郷の村をおとぎ話のように描きました。パリで学んだキュビズムを使い、ヤギや人を通じてユダヤ文化を表現。男性が持つ木は「生命の樹」を象徴しています。

現在、作品はニューヨーク近代美術館に収蔵されています。

誕生日(1915年)


シャガールの誕生日、ベラがプレゼントを持って彼の元へ来ました。喜びのあまり、飛び上がってベラにキスをする自分の姿を描いた作品です。「空中に舞い上がる」というユダヤの慣用句からイメージして描いたのでしょうか。

「誕生日」は、同じタイトルで1923年にも描かれています。当時、安く買い取られた1915年作の作品を買主から借りて、模写したものです。

作品は、ニューヨーク近代美術館に収蔵されています。

イカルスの堕落(1974/1977年)

シャガールは87歳のとき、自分の幼少期の町を思わせる村の広場に、彼の絵に登場してきた人々を集めた作品を描きました。鮮やかな色と流れるような描き方で、夢のような世界と神話の普遍性を表現しています。

作品は、ポンピドゥー・センターに収蔵されています。

参考) イカルスの堕落

青いサーカス(1950年)


サーカス好きの画商ヴォラールより連作を依頼されて描いたものです。38点もの挿絵は、卓越した版画技法が使われています。

作品は、テート・モダン(ロンドンの国立美術館)、ポーラ美術館、群馬県立近代美術館に収蔵されています。

シャガールの絵を所蔵する日本の美術館

Yury Penによるマルク・シャガールの肖像(ウィキメディア・コモンズ)Yury Pen - Portrait of Marc Chagall , Public domain, via Wikimedia Commons.

ポーラ美術館(神奈川県)

主な作品:村のパン(イズバ)(1910年)、町の上で、ヴィテブスク(1915年)、私と村(1923-1924)、ポエム(1968年)、サーカス(1967年)など多数
ポーラ美術館公式ホームページ

高知県立美術館(高知県)

主な作品:空を駆けるロバ(1910年)、花嫁の花束(1934-46年)、村の祭り(1908年)、オルジュヴァルの夜(1949年)など多数。
高知県立美術館公式ホームページ

群馬県立近代美術館(群馬県)

主な作品:くつろぎ(1984年)、花咲く画架(1984年)、サーカス(1967年)
群馬県立近代美術館公式ホームページ

まとめ

マルク・シャガールは、幻想的な色彩と独創的な表現で美術史に名を刻んだ画家です。彼の作品には、愛や希望、故郷への郷愁が込められており、時代を超えて多くの人々を魅了し続けています。

彼の世界観を知ることで、芸術の新たな魅力を発見できるでしょう。彼の絵に込められた物語や感情を感じながら、ぜひ一度実物を鑑賞してみてください。シャガールの魔法のような作品が、あなたの心を豊かにしてくれるはずです。

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加藤 瞳

加藤 瞳

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本の執筆をメインに活動中。イロハニアートでは「難しい言葉をわかりやすく。アートの入り口を広げたい」と奮闘する。幼い頃から作品を作るのも見るのも好き。40代の現在も、自然にある素材や家庭から出る廃材を使って作品を作ることも。美術館から小規模のギャラリーまで足を運んで、アート空間を堪能している。

本の執筆をメインに活動中。イロハニアートでは「難しい言葉をわかりやすく。アートの入り口を広げたい」と奮闘する。幼い頃から作品を作るのも見るのも好き。40代の現在も、自然にある素材や家庭から出る廃材を使って作品を作ることも。美術館から小規模のギャラリーまで足を運んで、アート空間を堪能している。

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