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STUDY

2021.10.29

『種まく人』はミレーだけじゃない!ミレーがゴッホに与え続けた影響とは?

ミレーの『種まく人』は、恐らく日本でもっとも知られている絵画の一つでしょう。
大地を踏みしめ、大きく手を振って、種をまく男の姿を画面いっぱいに取り上げた一枚。
そのイメージが強ければ強いからこそ、ゴッホの描いた『種まく人』を前にした時、誰もが息を呑むことでしょう。

フィンセント・ファン・ゴッホ 『種まく人』フィンセント・ファン・ゴッホ 『種まく人』 1888年6月17‐28日頃 油彩、カンヴァス 64.2×80.3cm クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands

ゴッホもミレーと同じ主題を描いていた、という事実もそうですが、モチーフの捉え方、そして何より絵全体の雰囲気が正反対であることに驚かされます。
そこにあったのは、偉大な先輩画家に対する、ゴッホの敬意。
実は、ミレーはゴッホが尊敬し、画家としての歩んだ約十年間において、終始「特別な存在」であり、影響を与え続けた人物でした。

今回は、現在開催中の『ゴッホ展――響きあう魂 ヘレーネとフィンセント』に展示されている『種まく人』を中心に、ミレーが与えた影響という観点から、ゴッホの画業に切り込んでみましょう。

1.ミレーに憧れ、導かれての絵の道

「画家になろう」
ゴッホがそう決意したのは、27歳の時でした。
それまで、書店員や画商、伝道師など、様々な職を志しては挫折してきた彼にとって、それは最後の道でした。
もうこれまでのように失敗はできない。
そのような思いのもと、彼は色彩理論やデッサンの技法書を読み、その挿図や、過去の巨匠たちの複製画を自分なりに模写して、絵のいろはを習得していきます。
その中で、ゴッホにとって「心の師」とも言うべき存在にまでなったのが、ミレーでした。

(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『種まく人(ミレーに倣って)』(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『種まく人(ミレーに倣って)』、1881年4月、ファン・ゴッホ美術館所蔵(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

模写を通して人物描写について学び、さらに伝記を読んで、そこに書かれた「敬虔で、勤勉で、清貧に生きた農民画家」という、いくぶん誇張と脚色のほどこされたミレー像に惚れ込んでいきます。
「ミレーのようになりたい」
そう願うようになったのも無理はないでしょう。
1881年、彼はハーグに移住。地元の農民たちをモデルにデッサンを重ね、水彩や油彩の習作にも挑戦していきます。
そして1885年には、初の本格的な油彩画、『ジャガイモを食べる人々』を手掛けるのです。

(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『ジャガイモを食べる人々』(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『ジャガイモを食べる人々』、1885年4月、ファン・ゴッホ美術館(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

これは、彼にとっては「完成」を目的とした初めての作品(タブロー)であり、複数の人物をテーブルの周りに配置するという複雑な構図をとっています。そのため、準備として何枚もの素描や油彩による習作を重ねました。
弟や友人からの評価は決して芳しいものではありませんでしたが、課題を設定し、それに向けて努力を重ね、達成する、という「成功」体験と、ちゃんと「達成できた」という実感こそが、当時の彼には必要なものだったのでしょう。
しかし、後に人物描写にはまだまだ補うべき点があることを認め、同年夏、人物の素描に改めて集中的に取り組んでいます。

2.『種まく人』への挑戦

1886年、ゴッホはパリに出ます。そこで彼は当時最先端だった「印象派」、そして日本の浮世絵と出会い、色彩に目覚めます。
茶色や灰色を基調としていた彼の画面は一転、赤や青、ピンク、そして黄色など明るい色彩に溢れるようになりました。
そして、1888年2月に移り住んだ南フランスのアルルにおいて、「色彩画家」としての彼の才は本格的に開花するのです。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《黄色い家(通り)》フィンセント・ファン・ゴッホ 《黄色い家(通り)》 1888年9月 油彩、カンヴァス 72×91.5cmファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵 ©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

モチーフを探してアルルを歩き回りながら、ゴッホは、かねてからの念願を実行に移そうとしていました。
それは、ミレーの〈種まく人〉を、自分なりのやり方で―――色彩でもって描くこと。
ミレーの『種まく人』は、オランダで修練に励んでいた頃に模写した作品の一つでした。
生きたモデルを前にしての素描習作においても、何度か「種まく人」のテーマを取り上げています。

(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『種まく人』(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『種まく人』、1881年9月、クレラー・ミュラー美術館(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『バスケットを持った種まく人』(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『バスケットを持った種まく人』、1881年9月、クレラー=ミュラー美術館(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

積み重ねの中で、いつか自分なりのやり方で取り組みたい、と思うようになったのも、自然な流れだったでしょう。
ですが、なぜ、ゴッホはこの「種まく人」のテーマにこだわったのでしょうか?
その答えは彼の過去にありました。
絵の道に進む前、ゴッホは、聖職者を目指していた時期がありました。ゴッホの父も牧師であり、身近な職業だったこともあるでしょう。
「神の言葉を種まく人」になりたい。
その思いにゴッホは燃えていました。
しかし、熱意もむなしく、彼はまたもや失敗。くすぶる思いを抱えたまま、「最後の道」、画家を目指します。

(参考図版)ジャン=フランソワ・ミレー、『種まく人』(参考図版)ジャン=フランソワ・ミレー、『種まく人』、1850年、ボストン美術館(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

ミレーの『種まく人』を見た時、そして彼の伝記を読んだ時、ゴッホは、叶えられなかった夢や、聖書のたとえ話に出てくる「種まく人(農夫)」のイメージが連想的に浮かんだのでしょう。それゆえに、彼の中に「種まく人」というテーマは、強く焼きつきました。
尊敬するミレー。彼と同じテーマを、自分はどう描くか。
フランスに来て、彼はその答えのヒントを得ます。
一つは、明るい色彩。パリで出会い、アルルで使いこなす術を磨いた、ゴッホの「新しい武器」です。
二つめは、アルルの「太陽」。明るく辺りを照らし、生命を育み、そして色彩をより鮮やかに輝かせる―――まさに「神」にも近い存在。ゴッホは、太陽に「信仰」にも似た思いを抱くまでになります。
これら二つの要素を盛り込み、ついに6月、ゴッホは『種まく人』に取り組みます。

フィンセント・ファン・ゴッホ 『種まく人』フィンセント・ファン・ゴッホ 『種まく人』 1888年6月17‐28日頃 油彩、カンヴァス 64.2×80.3cm クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands

農夫をクローズアップして、画面いっぱいに取り上げていたミレーに対し、ゴッホは正反対の方法を取っています。右手を後ろに挙げるポーズはよく似ていますが、服の色は変えてあります。
何より、ゴッホの作品における主役は、タイトルにもなっている、種をまく農夫ではなく、麦畑の後ろに見える丸い太陽です。
そこから放たれる光は、空を黄に染め上げるのみならず、画面の枠を越え、絵を見る私たちの側にまで届くようにも思えます。しかも、空をよく見ると、黄一色ではなく、緑やオレンジなどの細かい絵の具の筆致が、粒のように散りばめられていることがわかります。それは、メインの黄色をより輝かせ、太陽から放たれる光に動きと力を与えています。絵の前に立てば、色彩が洪水となって、押し寄せてくるかのようです。

「こんな恐ろしい絵を描いていいものかと思ったりするが、それでもやはり描いてみたい。しかし、描き上げるだけの力が自分にあるだろうか」
(圀府寺司『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家』(角川ソフィア文庫)、角川書店、2019 年、p.100)

このように迷いながらも、最終的に描くこと、前に進むことに踏み切ったゴッホ。その胸中には、尊敬する先輩への敬意と同時に、フランスに来て新たに身につけた「技」で、今の自分の全てでもって、挑んでみたい、という思いだったのではないでしょうか?
ただ先人の作品を真似るのみならず、自分なりの工夫を加味することで挑み、越えていく。そして、新しい道を切り開く。それは、ゴッホがゴッホになるために必要なステップでもあったかもしれません。

3.原点回帰―――心の安定を求めて

ゴッホの絶頂期ともいえるアルル時代は、しかし、約一年で終わりを迎えます。
12月、共同生活を送っていたゴーガンとの関係が破綻し、ショックを受けたゴッホは自らの耳を切り落とす事件を起こしてしまいます。
この事件でアルルに居づらくなったゴッホは、1889年、自らサン=レミの療養院に入院します。
病の発作が断続的に襲ってくる日々の中で、彼にとっての支えとなったのが絵を描くことでした。
しかし、以前に比べると、自由な外出もできなくなり、モチーフも病院の庭や窓から見える風景など、限定されていました。
そこで、ゴッホは弟のテオに頼んで、有名な画家の複製や版画を送ってもらい、それらを模写するようになります。
その中には、ミレーの版画作品もありました。

(参考図版)ジャン=フランソワ・ミレー(に拠る)、『正午:昼寝』(参考図版)ジャン=フランソワ・ミレー(に拠る)、『正午:昼寝』(木口木版)、1873年、ファン・ゴッホ美術館(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『正午;昼寝』(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『正午;昼寝』、1889年11月~90年1月、オルセー美術館(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

「模写」とは言っても、以前、オランダで修練を積んでいた頃のように、原画をできる限り忠実に写しとることとは、趣きが違いました。
上に挙げたように、ゴッホはモノクロームの原画を、青や黄の色彩で描いています。
彼は、彼独自の色彩表現という「表現言語」でもって、ミレー作品を「翻訳」しているのです。

それは、自らの原点に今一度立ち返り、向き合うと同時に、最初期から現在に至るまでの自分の画業と向き合うことでもありました。
また、原画と向き合いながら、どの色(単語)をあてはめていくか、などと考えていくには、かなりの集中力を要したはずです。
そのように、夢中になれるもの、集中して取り組むことのできる具体的な目標があることは、病と戦い続けるゴッホが心の安定を取り戻すため、1日1日を生きていくために必要だったのでしょう。

これらの「模写」以外にも、〈星月夜〉や〈プロヴァンスの夜の田舎道〉など、ゴッホは、サン=レミにいる間に有名な作品をいくつも生み出しています。

ゴッホにとってのミレー。
最初期は、絵という道への導き手、師匠。
尊敬し、それ故に越えるべき存在ともなり、心身共に傷ついた時には、立ち返り向き合う相手となりました。
そして、畑や、そこで働く農民のモチーフは、オランダを離れた後、画風が大きく変化した後も、ゴッホにとっての主要モチーフの一角を占めています。

1890年、療養院を退院したゴッホは、北フランスのオーヴェールに向かいます。
そこに来てからも制作は続けていましたが、7月、彼は命を絶ちます。
亡くなる月に描いた作品のひとつは、『鴉の群れ飛ぶ麦畑』。

(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『鴉の群れ飛ぶ麦畑』(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『鴉の群れ飛ぶ麦畑』、ファン・ゴッホ美術館(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

また、サン=レミを出る前の1月には、ベルギーの二十人展に出されたゴッホの作品の一つが、売れています。

(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『赤いブドウ畑』(参考図版)フィンセント・ファン・ゴッホ、『赤いブドウ畑』、1888年、プーシキン美術館(パブリックドメイン)*展覧会には出品されていません

そのタイトルは、『赤いブドウ畑』。アルル時代に描かれた、農作業に従事する農民たちの姿を捉えた絵で、後景には『種まく人』での真の主人公とも言うべき太陽も描かれています。

ゴッホの画業の根の一本は、ミレーにあり、その影響は、最後の瞬間まで続いていた、と言えるのではないでしょうか?

【展覧会概要】
ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント
会場:東京都美術館
会期:2021年9月18日(土)~12月12日(日)
休室日:月曜日 ※ただし、11月8日(月)、11月22日(月)、11月29日(月)は開室
開室時間:9:30~17:30 ※金曜日は9:30~20:00(入室は閉室の30分前まで)
観覧料:一般 2,000円 / 大学生・専門学校生 1,300円 / 65歳以上 1,200円
※日時指定予約制。詳細は展覧会公式サイトをご確認ください。
※高校生以下は無料(日時指定予約必要)。
問い合わせ先:050-5541-8600(ハローダイヤル)
展覧会公式サイト:https://gogh-2021.jp

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ヴェルデ

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アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。

アート・ライター。大学ではイタリア美術を専攻し、学部3年の時に、交換留学制度を利用し、ヴェネツィア大学へ1年間留学。作品を見る楽しみだけではなく、作者の内面や作品にこめられた物語を紐解き、「生きた物語」として蘇らせる記事を目標として、『Web版美術手帖』など複数のWebメディアに、コラム記事を執筆。

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