Facebook X Instagram Youtube

STUDY

2026.9.9

国宝《桃鳩図》を描いた北宋皇帝・徽宗とは?──「芸術の天才」が国を失うまで

Googleで優先するソースとして追加

桃の枝に、一羽の鳩がとまっています。

ふっくらとした胸のまわりには、細い羽が一枚ずつ描き込まれ、枝先では桃の花がほころびかけています。

縦28センチほどの小さな画面ですが、鳩はいまにも枝を蹴り、飛び立ちそうに見えます。

とくに目を引くのが、鳩の目です。黒い瞳はわずかに盛り上がり、濡れたような光を帯びています。絵の具で描いたのではなく、漆を盛り、生きた鳥の目の潤いまで写そうとしたものです。

ここまで細部を見つめながら描いた人物は、名高い宮廷画家ではありません。北宋の第8代皇帝、徽宗(きそう)です。

《桃鳩図》が描かれたのは1107年。徽宗が26歳のころでした。画面の端には「天下一人」と読める署名が残っています。天下にただ一人の存在。皇帝だからこそ名乗れる言葉です。

ところが、それからおよそ20年後、徽宗は国を失います。「天下一人」と署名した皇帝は異民族に捕らえられ、故郷から遠く離れた北の地で生涯を終えました。

一羽の鳩をこれほど見事に描いた皇帝は、なぜ自分の国を守れなかったのでしょうか。

徽宗《桃鳩図》(1107年)。細かな羽毛から濡れたように光る目まで、精緻に描かれている。 徽宗《桃鳩図》(1107年)。細かな羽毛から濡れたように光る目まで、精緻に描かれている。絹本着色、個人蔵(国宝)。, Public domain, via Wikimedia Commons.

絵のうますぎる皇帝

宋徽宗坐像 《宋徽宗坐像》。台北・国立故宮博物院蔵。, Public domain, via Wikimedia Commons.

徽宗ははじめから皇帝になると決まっていた皇子ではありません。1100年、兄の哲宗が後継者を残さずに亡くなったため、思いがけず帝位が回ってきました。

この即位に反対したのが、宰相の章惇(しょうとん)です。徽宗の性格は軽佻で、君主にはふさわしくない。章惇はこう訴えたと伝えられています。それでも反対は退けられ、徽宗は18歳で皇帝になりました。

章惇の懸念はのちの北宋滅亡を思えば、的中したようにも見えます。ただし徽宗には、ほかの皇帝にはない才能がありました。政治ではなく、書画の才能です。

中国史上、徽宗は屈指の芸術家皇帝として知られています。書では細い線が鋭く折れ曲がる「痩金体(そうきんたい)」を生み出しました。その字は針金を張ったように引き締まり、現在も徽宗を象徴する書体として受け継がれています。

徽宗《詩帖》。細く鋭い線を特徴とする「痩金体」で書かれている 徽宗《詩帖》。細く鋭い線を特徴とする「痩金体」で書かれている。台北・国立故宮博物院蔵。, Public domain, via Wikimedia Commons.

絵を見る目も確かで、宮廷の画家たちに高い水準を求めました。そのなかでも徽宗が力を注いだのが、宮廷の画家を養成する画院です。画家を選ぶ試験では、詩の一句を題に絵を描かせたとも伝わります。

その試験にまつわる逸話の一つが「深山に古寺を蔵す」という題です。「深い山の中に、古い寺が隠れている」という意味ですが、ここで難しいのは「隠れている寺」をどう描くかでした。

寺の屋根や門を描けば、そこに寺があることはすぐ伝わります。しかし、それでは寺が見えているため、「深山に蔵す」という言葉を十分に表現したことにはなりません。

高く評価されたと伝わる絵には、寺が描かれていません。描かれていたのは、山道を歩く一人の僧です。僧は水を汲み、山の奥へ運んでいます。近くに人家もない深山で僧が水を運んでいるなら、その行く先には寺があるはずです。画面には見えなくても、見る人の頭の中には、木々の奥に隠れた古寺が浮かんできます。

題にある「寺」と「隠れている」の両方を、寺を描かずに伝える。求められたのは、目に見えるものを正確に写す技術だけではなく、あえて何を描かず、見る人に想像させるかという工夫でした。

徽宗のこだわりは、動物の描写にも及びました。あるとき画家たちが孔雀を描くと、徽宗は足の運びが違うと指摘したそうです。孔雀が高い場所へ上がるときは、まず左足を出す。それなのに、絵では右足を踏み出しているというのです。

真偽には注意が必要ですが、どちらの逸話からも徽宗が芸術に高いレベルを求めていたことが見えてきます。

鳩を見抜いた目は、国のほころびを見抜けなかった

しかし政治に目を転じると、徽宗は国が抱える問題に十分対処できませんでした。もちろん徽宗が国を失った原因を、芸術への熱中だけに求めることはできません。北宋はもともと財政難と軍事力の弱さを抱え、宮廷では政争が長く続いていました。

ただし徽宗が国の立て直しより、書画や庭園に力を注いでいたことも確かです。政治の実務は宰相の蔡京(さいけい)が握り、徽宗は都の開封に「艮岳(ごんがく)」という巨大な庭園を築きます。各地から珍しい花木や奇岩を集め、江南から船で運ばせ、運搬のために橋や城門を壊すことさえありました。そのため多くの人手と費用がかかり、民衆への負担が増すなか、各地で不満が高まっていきました。

徽宗《祥龍石図》。龍のような形をした太湖石を、徽宗みずから描いた。 徽宗《祥龍石図》。龍のような形をした太湖石を、徽宗みずから描いた。北京・故宮博物院蔵。, Public domain, via Wikimedia Commons.

外交でも徽宗の政権は危険な賭けに出ます。長く対立してきた遼を倒すため、中国東北部で勢力を伸ばしていた金と同盟を結び、南北から挟み撃ちにしようとしたのです。

ところが宋軍は遼の都市を落とせません。攻めあぐねている間に金軍が進撃し、実質的に遼を滅ぼしたのは金でした。この戦いを通じて金は、宋の軍事力が想像以上に弱いことを知ります。このあと約束していた領土の引き渡しをめぐって関係が悪化したため、金にとって宋はもはや同盟国ではなく、攻めれば領土を奪える相手となりました。そして金は、宋へ軍を派遣します。

1125年、金軍が首都・開封へ迫ると徽宗は責任から逃れるように、息子の欽宗(きんそう)へ帝位を譲ります。翌年、首都は再び包囲され、1127年に陥落しました。徽宗は欽宗や皇族とともに捕らえられ、北方へ連行されます。この「靖康の変」によって、北宋は滅びました。

開封が陥落すると徽宗が集め、宮廷の画家たちに描かせた膨大な書画も金軍に奪われ、戦乱のなかで各地へ散らばっていきます。捕虜となった徽宗に、金は「昏徳公(こんとくこう)」という称号を与えました。「徳の昏(くら)い男」という侮辱的な名です。そのあと中国東北部にあたる五国城へ送られたとされ、1135年に54歳で亡くなりました。

海を渡った一羽の鳩

そのあと《桃鳩図》がどのような経路をたどったのか、すべて明らかになっているわけではありません。それでも絵は海を渡り、日本へ伝わりました。

室町時代、宋や元の絵画をはじめとする中国の品々は、貿易船や海を渡る禅僧によって日本にもたらされ「唐物(からもの)」として珍重されていました。なかでも唐物を熱心に集めたのが、室町幕府の3代将軍・足利義満です。《桃鳩図》には義満の鑑蔵印が残り、現在は国宝に指定されています。

足利義満像。《桃鳩図》には義満の鑑蔵印が残る 足利義満像。《桃鳩図》には義満の鑑蔵印が残る。, Public domain, via Wikimedia Commons.

北宋が滅亡するまでの歴史をたどったあと、《桃鳩図》へ目を戻すと、画面の静けさがいっそう際立って見えてきます。国を失い、異国で生涯を終える徽宗の暗い運命を予感させるものは何もありません。《桃鳩図》が描かれてから20年後、北宋は滅び、「天下一人」と名乗った皇帝は、故郷へ戻れないまま生涯を終えました。

それでも枝の上の鳩は、胸の羽をふくらませ、漆の瞳を潤ませたまま、今にも枝を蹴って飛び立とうとしています。

【写真5枚】国宝《桃鳩図》を描いた北宋皇帝・徽宗とは?──「芸術の天才」が国を失うまで を詳しく見る イロハニアートSTORE 50種類以上のマットプリント入荷! 詳しく見る
Sea The Stars

Sea The Stars

  • homepage

大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。西洋哲学史の書籍『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』(ナツメ社)の執筆も担当した。立場や考え方の違いを越えて、芸術には人と人をつなぐ力があると信じている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。

大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。西洋哲学史の書籍『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』(ナツメ社)の執筆も担当した。立場や考え方の違いを越えて、芸術には人と人をつなぐ力があると信じている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。

Sea The Starsさんの記事一覧はこちら