STUDY
2022.3.28
西洋美術史を流れで学ぶ(第21回)~印象派編~
なぜか高尚な趣味として難しく語られてしまう西洋美術を面白おかしく解説するこの連載。前回はバルビゾン村、フォンテーヌブローの森で繰り広げられた「自然主義」の集団・バルビゾン派について紹介しました。
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第21回は日本人ならみんな大好き・印象派です。モネ、ドガ、ルノワールなど、この時代になると聞いたことのある画家が大量に出てくるのではないでしょうか。
こう、なんというか「優雅な貴婦人の家の玄関に飾ってありそうな美しい風景画」で知られる印象派。しかし実はブルーハーツくらいパンク魂を持っていた集団で、彼らが「絵画の常識」を大きく変えました。今回はそんなパンク野郎たち・印象派について「なぜ生まれたのか」「何を変えたのか」をじっくり楽しく見ていきましょう。
目次
バルビゾンの森に出現していた印象派
Mussklprozz, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
前回の記事でお伝えした通り、19世紀の前半にフォンテーヌブローの森には100人くらいの画家が出現しました。「天気のいい日にお外で風景とか市民の姿を描くぞい」という運動が起こるんですね。
バルビゾンはなぜ戸外活動をしていたのか。それはお外の木々や河川、農民たちの姿を光景を可能な限り、そのままキャンバスに落とし込みたかったからです。それまでの絵画は見たままの光景をあるがまま描くようなことはしません。あえていうと「ちょっとカッコつける」んですね。
例えばインスタで「今日のランチは無添加サラダでーす♪」とか投稿するときって、たとえ食べかけでもちょっと整えると思います。あれがそれまでの手法だとすると、バルビゾン派は食べかけのシーザーサラダでドレッシングとか卵黄とかごちゃまぜになってても、そのまま投稿するような思考です。
そんなバルビゾンの森には「クロード・モネ」や「オーギュスト・ルノワール」といった画家もいました。そんなモネやルノワールといった画家たちが、1860年代あたりから始めるのが「印象派」なんです。
印象派は古典主義より「実際の風景」を重視した
そんな印象派の画家たちには、先ほどのモネやルノワールのほか、シスレー、ドガ、ピサロ、セザール、セザンヌなどがいました。
彼らはもちろん、古典主義的な絵は描きません。古典主義は「歴史画」「肖像画」「風俗画」「風景画」「静物画」というランク付けのもと、実際に見える世界よりも文学性の高い神話の世界を描こうとする考え方です。以前の記事でも紹介していますので、そちらも参考にしてみてください。
ただ印象派の面々は「いやいや、そんな空想上の話より、三次元のことを正確に描くほうがリアルで大事なことだろ」と思っていたんですね。前回の記事でも軽くお伝えしましたが、1859年にダーウィンの「種の起源」が発表となり「人は神が作った」という考えから「普通に猿から進化した」というのが分かってきます。リアルなことが重視されはじめた時期だったんですね。
そんな「リアリティが大事!」という考えを大事にしたうえで、印象派は外の光、また空気の流れまでを再現しようとするんです。
ピエール=オーギュスト・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』, Public domain, via Wikimedia Commons
印象派が確立した「筆触分割」
そんな印象派の特徴的な表現の1つである「筆触分割」について触れておきます。
それまでは色をつくるときってパレットの上で混ぜてつくるしかありませんでした。例えば紫を作りたいときって青と赤を混ぜますよね。ほとんどの小学校の美術の時間では、そう習ったはずです。
ただこの手法だと「混ぜているうちにどんどん黒に近づいていっちゃう」というデメリットがあります。これは外の光をそのまま描こうとする印象派的に、完全にアウトなんですね。
そこで印象派は「筆触分割」という手法を多用するんですね。ちなみに、この手法自体は1800年代の前半からあり、ロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワが使っていることでも知られています。
ざっくり概要を伝えると「隣同士に異なる色を配置することで、人間の網膜を錯視させる手法」です。緑と黄色をペタっ、ペタって感じで塗るというより「置く」。すると、引きで見たときに人の網膜は勝手に黄緑に見せるんですね。
ピエール=オーギュスト・ルノワール『陽光の中の裸婦』, Public domain, via Wikimedia Commons
だから印象派の絵って、それまでの絵画に比べると絵のタッチがはっきり分かるんです。
サロンで評価されなかった印象派画家たち
そんな斬新な手法を生み出した印象派ですが、サロン・ド・パリ(通称・サロン)ではまったく評価を受けませんでした。サロンというのは古典主義に没入していた国立美大が運営していたんです。つまり、まず風景画ってだけでちょっと不利。しかも、この筆触がはっきり残っている手法ってそれまで観たことないわけです。
だから「え? なにこれ、下書きなん?」と、もうボロクソに叩かれまくります。それに印象派の画家たちは「保守派過ぎるやろ。新しい表現も認めろや」と完全にキレかかっていたわけです。
そんな怒りが頂点に達したのが1863年、印象派のリーダー的存在だったエドゥアール・マネの「草上の昼食」が落とされたときです。マネは当時の貴族の中でブームだった「裸の娼婦を連れてピクニックにいく」という遊びをそのまま描いたんですね。
エドゥアール・マネ『草上の昼食』, Public domain, via Wikimedia Commons
ことわっておくと、マネは印象派のリーダー的指導者ですが、目指していたことは印象派とは違います。印象派は「黒使うの禁止な!」と仲間内で約束していましたが、マネは「いやいや、黒いるやろ」と使い続けています。
この1963年のサロンでは「草上の昼食」をはじめ、印象派の絵がかなり多く落とされた年であり、落選数の多さに、当時のフランス皇帝・ナポレオンが「落選者展」を開催したほどです。そこで「草上の昼食」はめちゃめちゃスキャンダルを起こします。なぜなら、とうじ裸婦像は宗教画でしか許されなかったものだったんですね。「現実世界の女を裸で描くとは何事か!」ってなるんです。
「もう自分たちで展覧会開こう!」と考えた印象派のパンク魂
クロード・モネ『印象・日の出』, Public domain, via Wikimedia Commons
そんな印象派たちは「もうサロンが評価してくれないんやったら、自分たちで展覧会開催しようや」と思い立ち、1973年に「第一回印象派展」を開催します。
その展覧会には保守的な批評家がやってきて「実像がない印象みたいな絵ですな(笑)」「その通りですな(笑)」と酷評されるんですね。ちなみに「印象派」という名前はこの批評家のセリフから付けられた名前です。古き良きサロンとしては、この新しい表現を認めるわけにはいかなかったんです。
しかし印象派は市民たちには支持されるんです。この背景には先ほどの進化論をはじめ、産業革命によって「フランスの国全体がリアリストっぽい考えになっていたこと」があります。また、1841年にはフランスのストラスブール~バーゼル間にヨーロッパ初の国際路線が開通していました。これによって「風景」の需要が高まっていたこともあります。
実は画壇ばっかりが「絵画はしっかりしたデッサンで宗教画(神話画)を描けよ」と言い続けていたわけで、市民は「風景がいいじゃん。印象派の絵って、家に飾っておきたい感じするよね~」と肯定的だったんですね。
結局、印象派展に参加しなかった指導者・マネ
エドゥアール・マネ『ル・ボン・ボック』, Public domain, via Wikimedia Commons
「指導者だが印象派でない」という微妙過ぎるポジションだった画家・マネについて触れておきましょう。印象派展は第8回まで開催されますが、マネは1度も参加していません。
というのも、彼は「サロンの古い考えを新しい展示会で改革しようや」という印象派たちの考えには賛同していないんですね。それより「あくまでサロンで勝負すべき」と考えていた。印象派の面々よりも保守的だったんですね。言い方を変えると「あえてアウェーでサロンの古い考えを変える」ために挑んだ人です。
だから印象派とは距離を置いているわけです。ただモチーフはサロン好みの宗教画や神話画ではない。都市部の人の生活を、あくまで「あるがまま」に描きました。ちなみに彼自身が上流階級だったので、上流階級の人の生活を良く描いています。酒を飲んで女性といちゃついている人の生活をそのまま描いていた。
だから当時の批評家たちはマネを「印象派」と勝手に括っちゃったわけです。今でもマネは印象派の一員と紹介されがちですが、実は微妙に違います。
実は人によって個性がある「印象派」の面々
そんな印象派ですが、実は画家によって「やりたいこと」は微妙に違います。「あるがままの光景を描こう」という姿勢は一緒なんですが、目指すべき表現やモチーフは微妙に違いました。前回の「バルビゾンの七星」でも、個性があることをお伝えしましたが、印象派も同じです。
例えばモネは、純粋に「あるがままの田舎の風景」を描こうとしました。最もベーシックな例だといえるでしょう。なかでもキャリア後期から描いた「睡蓮」シリーズが有名です。彼は1883年に偶然、列車で通りがかったフランス・ジヴェルニーの風景に惚れ切って、同年には転居しています。そこに池を作って睡蓮を植え、1895年ごろから亡くなるまで約30年、200枚近い睡蓮の絵を描いたんですね。
クロード・モネ『睡蓮』, Public domain, via Wikimedia Commons
ただ印象派グループのみんなが風景画ばかり描いたわけではないです。オーギュスト・ルノワールは田舎でなく都市の風景を描きました。風景画も描いていますし、後期には印象派から離れていきますが、キャリア最盛期には人物画のほうが得意だったシティボーイです。特に女性を描くことに喜びを感じていました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール『舟遊びをする人々の昼食』, Public domain, via Wikimedia Commons
またエドガー・ドガも都市の様子を描いています。また屋外でなく、室内の絵をよく描いているのが大きな特徴ですね。特にバレエが大好きで、バレエのレッスンの様子などを描いています。
エドガー・ドガ『バレエのレッスン』, Public domain, via Wikimedia Commons
カミーユ・ピサロは田舎派で、農村の風景・人物をよく描いています。
カミーユ・ピサロ『ジャレの丘』, Public domain, via Wikimedia Commons
このように「あるがままの光景をそのままキャンバスに落とし込む」という思想は共通していますが、実は画家によってやりたいことが微妙に違う。印象派は「モネのあの感じ!」と思われがちですが、そのほかの画家に目を向けてみるとそれぞれで特徴が違うのが面白いポイントです。
印象派から「新印象派」「後期印象派」に
さて今回は印象派についてご紹介しました。彼らの表現は「新印象派」とか「後期印象派」に引き継がれていきます。印象派の手法をヒントにして、スーラ、ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホといった面々が多様化させていくんですね。
次回は多様化をはじめる「新印象派」「後期印象派」の絵についてご紹介しましょう。
▼次回記事はこちら!西洋美術史を流れで学ぶ(第22回)~新印象派・後期印象派編~
https://irohani.art/study/7160/
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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