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2022.12.14

始皇帝はなぜ等身大の兵馬俑を造らせたのか?その謎を解く展覧会が上野の森美術館にて開催中!

1974年、西安郊外にある秦始皇帝の陵墓付近で発見された兵馬俑(へいばよう)。地下5メートルの巨大な地下空間には、一体一体が異なる顔つきや体、それに服装をしたおびただしい数の兵士や馬の等身大の像が埋まっていて、今も調査が続き、その数はおおよそ8000体と推定されています。

『日中国交正常化50周年記念 兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~』展示風景

上野の森美術館にて開催中の『日中国交正常化50周年記念 兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~』では、始皇帝陵の兵馬俑をはじめ、戦国、漢時代を含めた計36体の兵馬俑を公開。あわせて、秦と漢両王朝の中心地域である現在の陝西省(せんせいしょう)一帯より出土した約200点 (兵馬俑を含む)もの貴重な文物が展示されています。「兵馬俑の大きさは時代によって異なっていた?」。その謎に迫ります。

春秋戦国から統一秦、そして漢の時代へ。俑の大きさは時代によって異なっていた?

『彩色男子立人俑』 漢(前202〜後220年) 渭南市博物館

まず「俑(よう)」の意味を押さえておきましょう。俑とは人や動物の姿を写しとった像で、故人の死後の生活のために地下世界に収められたものを指します。一方で生身の人間が殉死し、墓室に埋葬されることを殉葬と言いました。

一級文物『戦服将軍俑』 統一秦(前221〜前206年) 秦始皇帝陵博物院

あまりにも有名な兵馬俑ですが、実は等身大で作られたのは、前221年に秦始皇帝が中国をはじめて統一し、その後わずか15年で崩壊した秦の統一王朝の時代のみのことでした。

一級文物『跪座俑』 統一秦(前221〜前206年) 秦始皇帝陵博物院

この兵馬俑の大きさに着目して古代中国の歴史を振り返ると、兵馬俑が極めて小さいすがたで誕生した春秋戦国時代(前770年〜前221年)、そして等身大の兵馬俑が登場した秦時代(前221〜前206年)、また再び兵馬俑が小さなサイズとなった漢時代(前202年〜後220年)の3つに分けることができます。

小さかった戦国秦と漢の時代の俑。デフォルメしたような俑にも注目

一級文物『騎馬俑』 戦国秦(前403〜前221年) 咸陽市文物考古研究所

統一王朝以前の戦国秦(前403〜前221年)の『騎馬俑』に着目して下さい。北方民族である胡の服を身につけた騎兵が、風よけの帽子を被って馬に乗りながら、左手で手綱を持つすがたをかたどっています。高さは22センチと小ぶり。もちろん等身大ではなく、必ずしも人をリアルに表していません。中国の西の端にあった秦は、こうした素朴な兵馬俑に見られるような独自の文化を築いていました。

『彩色歩兵俑』 前漢(前202〜後8年) 咸陽博物院

それでは秦の滅亡後に繁栄した漢の時代の兵馬俑を見てみましょう。前漢(前202年〜後8年)の『彩色歩兵俑』では、左手に盾を構え、右手で長柄の戟(げき)を持つ兵士がかたどられています。鎧とズボンのすがたは始皇帝の兵馬俑と似ていますが、高さは50センチ余りと等身大ではありません。

『騎馬俑』 前漢(前202〜後8年) 漢景帝陽陵博物院

同じく前漢の『騎馬俑』も男女が馬にまたがる姿をかたどっていますが、スリムな体つきや長い両脚などは始皇帝の兵馬俑とは大きく異なります。この俑は騎馬と騎兵を別につくり、馬上に乗せたとされていますが、デフォルメされていると言って良いかもしれません。

始皇帝の時代だけ造られた等身大の俑。その謎を解く3つの理由とは?

一級文物『立射武士俑』 統一秦(前221〜前206年) 秦始皇帝陵博物院

それではなぜ始皇帝の兵馬俑だけがリアルでかつ等身大に作られたのでしょうか。理由は3つ考えられています。

一級文物『戦車馬』 統一秦(前221〜前206年) 秦始皇帝陵博物院

まず1つ目です。馬を操り、鹿や虎の狩をしていた秦の人だった始皇帝は、本物の馬や鹿を埋葬すると、そこに等身大より一回り小さなサイズの飼育人の陶俑を作って添えました。そして後に本物の馬から同じサイズの馬の俑を埋めるようになり、それに合わせた等身大の人間の俑が作られるようになります。そもそも始皇帝の兵馬俑坑において、はじめて等身大の馬と兵士の陶の俑が埋められましたが、そこには馬を尊び、人を組み合わせるという秦の文化が反映されていました。

一級文物『鎧甲武士俑』 統一秦(前221〜前206年) 秦始皇帝陵博物院

2つ目は西方の文化の影響です。始皇帝の曽祖父の時代、マケドニアのアレキサンダー大王が西北インドへ進軍すると、人間を等身大でリアルに彫刻するギリシア文化が東方へと伝えられます。それが中国まで伝わったという直接の資料こそないものの、戦国時代の秦の墓からギリシア神話のディオニソスを描いた装飾板が見つかったり、始皇帝陵の陪葬墓から金銀のラクダ俑が出土するなど、西方文化の影響があったこと明らかになりつつあります。

一級文物『鎧甲軍吏俑』 統一秦(前221〜前206年) 秦始皇帝陵博物院

最後は始皇帝本人の強い遺志です。中国の歴史書『史記』には、始皇帝が13歳で秦王に即位した翌年から自らの陵墓を造りはじめたと記されていますが、その記述に反して、秦王が29歳になってから陵墓を築いたという史料が出ています。このことから秦王は戦乱の中で陵墓を造営しはじめ、39歳で皇帝となり、50歳で亡くなる晩年に、人間をリアルに表現した兵馬俑を埋めることを命じたと推測されます。

一級文物『鎧甲武士俑』 統一秦(前221〜前206年) 秦始皇帝陵博物院

始皇帝の時代、中国では個性を写した像には生きた人間の魂が乗り移るとして、モデルに似せて作ることは避けられていました。しかし始皇帝はあえてタブーを犯し、人をリアルに写した俑を埋めます。そこには万里の長城を築き、度量衡も定めた始皇帝が、死後の世界も新たに規定しようとした意図が見え隠れしているとも考えられるのです。

全国巡回の最後の開催地!過去最大スケールの兵馬俑展で読み解く始皇帝の意図

一級文物『鎏金青銅馬』 前漢(前202〜後8年) 茂陵博物館

この後の時代、漢を樹立した劉邦は楚の地方の出身で、楚の文化を愛していました。そして楚では小さな木の俑に絹の服を着せて墓に収める習慣があったため、漢の時代では小さな兵馬俑が造られるようになったと言われています。

一級文物『2号銅車馬(複製品)』 統一秦(前221〜前206年) 秦始皇帝陵博物院

すでに展示は京都、静岡、名古屋にて開かれ、ここ東京の上野の森美術館が最後の開催地です。『日中国交正常化50周年記念 兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~』にて、古代中国の兵馬俑をめぐる謎から始皇帝の秘められた意図を読み解いてください。

展覧会情報

『日中国交正常化50周年記念 兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~』 上野の森美術館

開催期間:2022年11月22日(火)〜 2023年2月5日(日)
所在地:東京都台東区上野公園1-2
アクセス:JR線上野駅公園口より徒歩3分。東京メトロ・京成電鉄上野駅より徒歩5分
開館時間:9:30~18:00
 ※入場は閉館の30分前まで
休館日:2022年12月31日(土)、2023年1月1日(日)
観覧料:一般2100円、高校・専門・大学生1300円、小・中学生900円
https://www.ueno-mori.org/
https://heibayou2022-23.jp/

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千葉県在住。美術ブログ「はろるど」管理人。主に都内の美術館や博物館に出かけては、日々、展覧会の感想をブログに書いています。過去に「いまトピ」や「楽活」などへ寄稿。雑誌「pen」オンラインのアートニュースの一部を担当しています。

千葉県在住。美術ブログ「はろるど」管理人。主に都内の美術館や博物館に出かけては、日々、展覧会の感想をブログに書いています。過去に「いまトピ」や「楽活」などへ寄稿。雑誌「pen」オンラインのアートニュースの一部を担当しています。

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