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2022.2.25
「生きることは、私には絵を描くことでしかない。」戦争とシベリア抑留の壮絶な体験を描いた画家、香月泰男の人生のあゆみ
画家、香月泰男(かづき やすお 1911〜74年)を知っていますか? 太平洋戦争により招集を受けて満州へと渡り、シベリアで約2年間もの抑留生活を送った香月は、帰国後に兵役と抑留の体験を元にした「シベリア・シリーズ」を描いて、戦後の美術史に大きな足跡を残しました。
目次
『告別』 1958年 京都国立近代美術館 画家、梅原龍三郎の長男の葬儀を描いた作品で、顔を手で覆う母の姿に悲しみが表現されています。
その香月の生誕110年を期した回顧展が、昨年夏に宮城県美術館にてスタート。その後、神奈川県立近代美術館葉山や新潟市美術館を巡回し、現在、東京の練馬区立美術館にて開催されています。激動の時代を生きた香月の人生を追いかけながら、展覧会の内容をご紹介します。
ピカソの影響から独自の表現を模索する。画家、香月泰男の原点とは?
『二人座像』 1936年 下関市立美術館 水着姿の二人の少年をモデルとした作品。同年の文部省美術展覧会鑑査展に出品されました。
1911年に山口県三隅村(現在の長門市)にて生まれた香月泰男は、「紙さえあると描きまくった」とまで語った幼少期を過ごすと、画家を志して東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二の教室に学びます。しかし師の影響はほとんど受けることなく、ゴッホや梅原龍三郎らの画風を試しながら独自の表現を模索しました。
若き香月が深く傾倒したのが、ジョルジュ・ブラックとともにキュビスムの創始者として知られるパブロ・ピカソでした。卒業制作として描かれた『二人座像』(1936年)は、少年の交差する足に三角形の構図を見出せるなど、幾何学的な構成をとっていて、ピカソの初期作品との類似が指摘されています。
右:『少女』 左:『棚と壺』 ともに1939年、香月泰男美術館
大学を卒業した香月は、美術教師として北海道、ついで下関にて赴任すると、教鞭をとりながら制作を行い、『兎』(1939年)で文部省美術展覧会で特選となるなど頭角を現しました。
「逆光の中のファンタジー」。そして旧満州への従軍、過酷なシベリア抑留生活へ。
『水鏡』 1942年 東京国立近代美術館 「中学生の頃、私にも死の誘惑はあった」と回想する香月。水中に引き込まれそうな少年の姿が印象に残ります。
1940年代に入ると、直線や曲線を用いた画面構成と硬質で透明な光が空間を満たしはじめ、同時に少年や少女の姿がしばしば描かれるようになります。こうした叙情的な作品は後に「逆光の中のファンタジー」と呼ばれました。
『水鏡』(1942年)は少年が浴槽を静かに覗き込む様子を描いた作品で、画面左には枯れた花が青黒い水に浸かっています。また『釣り床』(1941年)も同じような坊主頭の少年をモチーフとしていて、疲れているのか釣り床にて眠っているような仕草を見せています。そして支柱には『水鏡』を思わせる枯れた植物が絡まっていました。
『釣り床』 1941年 東京国立近代美術館 少年のモチーフは戦争をはさんで1950年代まで登場していて、枯れた植物もこの頃、頻繁に描かれました。
ともに少年の表情は伺えず、一体何をしているのか分からないような作品ですが、ここには後に「友達と遊ぶよりひとりで裏山に登って絵を描く方が楽しかった」と回想する、香月の孤独だった少年時代が投影されていると指摘されています。何も語らない人物の姿には不穏な気配が漂っているとともに、ノスタルジックな雰囲気が感じられるかもしれません。
『ホロンバイル』 1944年 山口県立美術館 モンゴル北方の大草原の地名を意味するホロンバイル。この草原を香月は軍事演習で度々訪れていました。
この香月に人生を左右する大きな転機がやって来ます。戦争です。1942年12月、召集令状を受けて妻と3人の子どもを残して入隊すると、当時の満洲国に動員され、主に物資の補給を担う貨物廠(かもつしょう)に配属されました。戦時中は上官の理解もあって油彩画を描き、現地で制作した『ホロンバイル』(1944年)を文部省戦時特別美術展覧会へ出品したものの、戦局の悪化により状況が逼迫し、1945年8月に朝鮮半島へ南下する途中で敗戦を知りました。
シベリアへと連行された香月は1945年11月から収容所で強制労働を課されます。結果として香月の帰国が決まったのは1947年4月のことで、同中旬にシベリアを発つと5月下旬には舞鶴に着き、そこから山口の生家に帰りました。香月が抑留されたセーヤ収容所では収容者の1割が亡くなったことからしても、過酷な環境に置かれていたことが想像できるのではないでしょうか。
香月が帰国後に描いたものとは?「台所の画家」と技法の探求
右:『散歩』 1952年 愛知県美術館 左:『ハムとトマト』 1953年 香月泰男美術館
帰国後に教師に復職した香月は、1950年頃より草花や台所の食材、また飼い犬など、日常で身近なものを好んで描くようになります。中でも野菜や魚介類を多く描いたため「台所の画家」と称されるようになりました。香月家ではアトリエと母家の間に台所があり、香月は絵になりそうな食材を見つけてはアトリエに持ち込んだとも言われています。
『山羊』 1955年 香月泰男美術館 ぼんやりと前を見つめる山羊が座り、背景には両腕にもたれかかる青年の上半身が見えます。
また絵具に岩絵具や金泥といった日本画の画材や木炭を混ぜるなど、技法の研究にも取り組み、やがて半透明白色の天然岩絵具である方解末を絵具に混ぜてマットな面を作り、薄く溶いた黒い絵具で描く方法にたどり着きました。そして色数も限定され、『山羊』(1955年)や『路傍』(1956年)のように白や黒、茶色のみが画面を支配するようになります。
右:『バルセロナ』 左:『モンマルトル』 ともに1957年 香月泰男美術館 渡欧作には建物や道を構成する石への強い関心が見られ、帰国後には「黒についての確信がついたことと石を発見したこと」が収穫だと語りました。
1956年に初めてヨーロッパを訪ねると、フランスやスペイン、そしてイタリアなどを周って西洋美術の古典に触れ、とりわけレオナルド・ダ・ヴィンチのほとんどモノクロームの作品にシンパシーを受けました。そして帰国すると再び技法の研究に邁進し、黄土色の下地に木炭粉をすり付けていく独自の技法を生み出しました。その渋みのある土色とマットな黒を基調とする「香月カラー」を用いて、いよいよ「シベリア・シリーズ」の制作へと乗り出すのです。
死と隣り合わせの壮絶な体験を表現する。代表作「シベリア・シリーズ」への展開
『北へ西へ』 1959年 山口県立美術館 「シベリア・シリーズ」において「顔」が確立した作品として知られていて、帰国の望みが絶たれた人々が鉄格子越しで不安げに外を見ている様子が描かれています。
1959年の『北へ西へ』(1959年)や『ダモイ』(1959年)などから制作が本格化した「シベリア・シリーズ」ですが、いずれも戦争と抑留の体験を主題にしつつも、当初から明確なコンセプトがあって計画的に描かれたわけではありませんでした。
『ダモイ』 1959年 山口県立美術館 「ダモイ」とは「家へ」や「故郷へ」を意味するロシア語。所持品検査の際の情景をモチーフとしています。
そもそも現在57点に及ぶ「シベリア・シリーズ」は、当初「敗戦シリーズ」や「ソ連もの」などと呼ばれていて、1959年に発表された3点の作品も、シベリアへの輸送や敗戦後の大陸で見た光景といった、時間や場所の異なる主題が選ばれていました。
『復員(タラップ)』 1967年 山口県立美術館 シベリアの収容所から解放された抑留者が舞鶴港に到着し、船に降りる場面を描いた作品。右端の眼帯をした人物は自画像とされています。
しかし「シベリアを描きながら、もう一度シベリアを体験している。」と語った香月は、おおよそ抑留生活から10年以上経った当時、自らの頭の奥底へ氷のように固まっていた記憶を削り取るようにして、同シリーズを描き続けていきます。それらは現実の体験に基づきながらも、時にして心象風景が純化されるように、抽象化されたイメージとして立ち上がることも少なくありませんでした。
「シベリア・シリーズ」から色彩をともなう新たな世界へ
『青の太陽』 1969年 山口県立美術館 ホロンバイルでの匍匐前進の演習中に見た地面の蟻の巣より着想した作品で、地中から空を見上げるという大胆な構図が用いられています。
1967年に刊行された画集「シベリア」と出版記念展を契機にして、「シベリア・シリーズ」は1つの連作として体系的な構成が意識されるようになります。また1970年頃になると、それまでのモノクロームの世界から、『青の太陽』(1969年)や『業火』(1969年)といった青や赤の色彩が取り込まれていきました。
左『モロッコ羊飼』 右:『ラスパルマス闘牛(スペイン)』 ともに1973年、香月泰男美術館
「シベリア・シリーズ」で高い評価を得た香月は、一躍、画壇の寵児となると、今度はヨーロッパだけでなく、タヒチやインド洋の島へと取材旅行に出かけます。そして各地の風景などをモチーフに、明るい色彩も加えた『ラスパルマス 闘牛(スペイン)』(1973年)や『ニース』(1973年)といった作品を制作しました。
『渚(ナホトカ)』 1974年 山口県立美術館 帰還兵が一晩砂浜で過ごした情景を舞台としていて、黒い帯には目を閉じて身を寄せ合う人々の小さな顔が無数に描かれています。
1974年、初の南米への旅行を企画していた香月でしたが、残念ながら叶わぬ夢となります。この年の3月、心筋梗塞のために自宅で亡くなるのです。この時、香月は62歳。アトリエにはまだ描き続けてきた「シベリア・シリーズ」の最新作である『渚(ナホトカ)』(1974年)がイーゼルに掛けられたままでした。
「生きることは、私には絵を描くことでしかない」絵のために生きた香月の人生
これまでにも度々、回顧展が開催されてきた香月ですが、今回の展覧会で特徴的なのは、「シベリア・シリーズ」を応召から復員までといった時系列にならべて紹介するのではなく、他の作品とあわせて制作順に展示していることです。そうすることで「シベリア・シリーズ」の物語の枠組を超えて、一つ一つの作品の誕生や創作の原点を確認できるような構成となっています。
『埋葬』 1948年 帰国から1年後に描かれた「シベリア・シリーズ」の最初期の作品で、セーヤ収容所にて亡くなった仲間を埋葬する光景を主題としています。
そして「シベリア・シリーズ」の一部作品には、作品の制作背景とともに、香月本人の言葉が紹介されています。それによって作家の心の奥へと立ち入るかのように作品へと接することができるのではないでしょうか。
『絵具箱』 1972年 山口県立美術館 16歳の時に母から贈られ、抑留中も手放さなかった絵具箱を枕にして眠る自らの姿を描いた作品。絵のアイデアを文字に置き換えた12の漢字が書き込まれています。
技法の研究に熱心だった香月の絵画の質感は、まるで荒涼たる大地の表層を想像させるほどに強い個性と魅力をたたえています。作品によって表情が異なるために一様には括れませんが、その深い味わいを写真で伝えるのはもはや困難と思えるほどです。
「生きることは、私には絵を描くことでしかない。それしか自分に納得できる生き方はいない。今日は今日の絵を描き、絵具を塗る」香月泰男 ※展覧会会場より
『業火』 1970年 山口県立美術館 シベリアへ移送される貨車から見た旧日本軍施設の火災に着想を得た作品で、香月は「炎の勢いが、悪業の終末を告げる業火のごとく見えた」と語りました。
「銃を握ってではなく、絵筆を握って死ぬ」とまで覚悟していた香月は、召集時に家から持って出た絵具箱を、従軍や抑留時も決して手放すことはありませんでした。『生誕110年 香月泰男展』にて、戦争の時代に翻弄され、苦難な人生を歩みながらも、絵のために生きた画家の魂が乗り移ったような作品とじっくり向き合ってみてください。
『生誕110年 香月泰男展』 練馬区立美術館
開催期間:2022年2月6日(日)~ 3月27日(日)
※前期:2月6日(日)~3月6日(日)、後期:3月8日(火)~3月27日(日)
所在地:東京都練馬区貫井1-36-16
アクセス:西武池袋線中村橋駅下車徒歩3分。
開館時間:10:00~18:00 ※入館は17:30まで
休館日:月曜日。ただし3月21日(月・祝)は開館し、3月22日(火)は休館。
料金:一般1000円、大学生・高校生及び65歳〜74歳800円、中学生以下および75歳以上無料。
※ぐるっとパスを利用すると500円
※※リピーター割引:展示替えがあるため、前期を観覧すると展示替後の観覧料を300円割引。
https://www.neribun.or.jp/museum.html

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千葉県在住。美術ブログ「はろるど」管理人。主に都内の美術館や博物館に出かけては、日々、展覧会の感想をブログに書いています。過去に「いまトピ」や「楽活」などへ寄稿。雑誌「pen」オンラインのアートニュースの一部を担当しています。
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