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STUDY

2023.2.22

仏教到来で日本の美術が超進化!日本美術史を流れで学ぶ(第3回)~飛鳥・奈良時代の美術編その1~

おしゃべり感覚で日本美術を楽しく学んでいただくこの連載。きっと日本美術の基礎を掴めれば、今後の美術館での体験がもっともっと楽しくなる(はずです)。そして欲を言えば日本人の国民性がなんとなくわかることで、令和の今「日本ってこんな国だよなぁ」と認識できるようになる(はず……)と信じて、バリバリ書いていきます。

第3回は今から1,400年前くらいの「飛鳥・奈良時代」です。日本にとっては本格的に外国との交流がはじまり、それまで原始的だったものが急に文化的なものになる、おもろい時代となっております。

飛鳥時代に仏教が伝来する

日本史ってみんな「縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良~」って習いましたよね。で、この流れの古墳時代と飛鳥時代のギャップってやばいと思います。 

古墳時代以前はいわゆる原始的な人間というか「裸に布一枚で稲を耕す」みたいなイメージだと思いますが、飛鳥時代って突如「大化の改新」が起きたり、急に超立派な服を着た聖徳太子(今は「厩戸王(うまやとおう)」と教えられるらしい)が出てきたりするんですよ。「おい日本人急に進化したな。何があった?」みたいな状態になっちゃいますよね。

そんな進化しまくりな飛鳥時代において、もちろん美術も進化していきます。そんな進化の背景にあったのが、なんといっても中国・朝鮮との交流でした。538年に当時の中国・朝鮮の一部だった百済(くだら)という国の聖明王が当時の天皇・欽明帝に経典と仏像を送っています。

「ほい。これが仏っす。仏マジですごいんすよ。国を守ってくれるんですよ」みたいな感じで紹介したんですね。ここで仏教が伝来したことで、それにまつわる美術作品が大量に生まれました。

飛鳥時代当時の仏像・仏教の衝撃

始めて仏像を見た日本の欽明帝は「仏の相貌(かお)端厳(きらぎら)し」と感想を述べたそうです。「きらきらしい」という言葉は今でもありますが、イメージの通り「輝いている」とか「たいそうイケメンである」みたいな意味。つまりはすごく魅力的に見えたんですね。当時は仏教反対派も生まれましたが、最終的には受け入れる方向で決着しました。

この「日本人と仏との出会い」って、すごいインパクトだったと思うんですよ。それまで日本にも「信仰」の文化はありました。だからこそ古墳を作って弔っていたんですが、「かたち」のないものだったんですね。目に見えないものを長年信じてきた民族だったんです。

これを「アニミズム」といいます。アニミズムでは森羅万象に神様が宿る、みたいな考えなので、今の日本が多神教なのは縄文~古墳時代のアニミズムが関連している、というのが通説なんですね。今でもアレですよね。日本人は自然物に備わる神を信じるところがあると思います。樹齢数百年の屋久杉を抱きしめて「おぉ……パワー感じるわ~……」みたいなね。パワーストーンを財布に入れたらお金貯まるみたいなね。

そんななか、お隣の中国では人間の姿をした金ピカの「仏」という存在がいるわけですよ。この時に日本人は初めて信仰する対象の「かたち」を発見したわけです。だからもう「あ、ありがてぇ~」ってなったんですね。この事件を「仏教公伝」といいます。

だから飛鳥・奈良時代はもう仏にまつわる美術作品が出まくります。では実際にどんな作品が登場したのか。「建築・仏像」「絵画」の2つの軸でみていきましょう。

飛鳥時代の建築

建築といえば、まず思いつくのが601年、聖徳太子によって創建された「法隆寺」でしょう。日本の世界遺産第一号です。柿食ったら鐘が鳴るシステムの寺院です。

法隆寺Nekosuki, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

なかには「日本最古の寺院」と思っている方もいるかもしれませんが、実は違います。「現存する日本最古の寺院・木造建築」は法隆寺ですが、作られた年でいうと583年の「飛鳥寺」が最古となっています。鎌倉時代の落雷による火災で大部分を失ってしまったんですけどね。

名古屋太郎, CC0, via Wikimedia Commons

鞍作止利による人間ぽくない仏像

特に飛鳥寺・法隆寺をはじめ、寺院には仏像を設置するのがお決まりでした。当時は中国・朝鮮からやってきた人や、その技術を受け継ぐ職人によって作られました。なかでもこの時代の仏像づくりの立役者が、日本の仏師第一号「鞍作止利(くらつくりのとり)」さんです。代表作は法隆寺金堂の「釈迦三尊像」でしょう。

法隆寺金堂「釈迦三尊像」Tori Busshi, Public domain, via Wikimedia Commons

彼の作品の特徴としては上下のまぶたが同じ弧を描いている「杏仁形の目」、「やせ型のボディ」「面長の顔」「服や布の皺がシンメトリー」、そして「アルカイック・スマイル」と呼ばれる微笑みです。アルカイック・スマイルは紀元前6世紀ごろの遠く離れたギリシャの彫像にも見られた特徴。ウルトラマンにもアルカイック・スマイルが用いられています。

▼関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第3回) ~ギリシャ美術編~
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上記の特徴をひと言で表すと「抽象的で肉感が少ない表現」といえます。これは中国の「神仙思想」の影響を受けているものです。この様式は「止利様式(とりようしき)」と呼ばれます。

止利様式から初唐様式への変遷

しかしこの後、7世紀から8世紀初頭に進むにつれて、止利様式はだんだんと変化していきます。というのも、当時の日本は中国・朝鮮の変化にかなり引っ張られるんですね。特に618年に中国では隋が滅亡して唐が建国されました。

これを見た留学生が日本に帰ってきて「唐って国ができましたで。これ日本も体制強化せんとやばいっすよ」と言って、できたのが天智天皇と藤原鎌足の「大化の改新(645年)」です。その後、日本は百済と組んで唐・新羅(しらぎ)と「白村江の戦い(663年)」をしますが惨敗。「唐、超強えじゃん」となるわけです。しかしその結果、他国との戦いに供えるため戸籍制度などが整えられ、国としては強化されます。が、その後天智天皇と大海人皇子の古代最大の兄弟喧嘩「壬申の乱(672年)」でまた国は真っ二つになり、勝利した大海人皇子は「天武天皇」になる……みたいな、もう唐をけん制しながら自国にも大忙し、みたいな時期なんですね。

そんななか、日本は「唐の文化を吸収しながら東アジアに通用する国家を作らないと!となるんです。しかし白村江の戦い以降は日唐の交流は経たれていたため、新羅を介して日本は唐の文化を吸収していきました。

その結果、仏像は止利様式を脱却して「初唐様式」に移行します。初頭様式で有名な作品は山田寺の薬師如来(仏頭)でしょう。

山田寺の薬師如来(仏頭)AnonymousUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

止利様式より若々しくなり、頭がデカくなりました。まぶたも上下均等ではなくなり、より人間らしくなった感じですね。西洋美術もそうですが、国家がビジネスライクになると、戦争が起こり、美術作品がリアリズムに近づく傾向があると思います。ルネサンス期も、第二次産業革命期も同じ傾向がありますね。

この後、初唐から盛唐へ、さらに仏像は進化を遂げていきますが、実は超内容が濃く、校長先生が寝るレベルで長くなっちゃうので、その詳細は次回の記事でご紹介しましょう。

飛鳥・奈良時代の絵画

飛鳥・奈良時代は絵画の文化が花開く時期です。古墳時代には抽象的にしか描かれなかった絵画が、仏教のおかげでものすごく具体的に作られるようになります。

というのも当時の絵画は今でいうYouTubeとかTwitterみたいな、情報拡散のメディアとして機能していたんですね。だから日本人になじみがなかった仏教を「仏ってこんな人なんですよ~」と伝える目的で描かれました。

法隆寺金堂壁画の「阿弥陀浄土図」BENRIDO, Public domain, via Wikimedia Commons

法隆寺金堂壁画の「阿弥陀浄土図」です。元ネタはインドのアジャンタ石窟寺院の壁画ともいわれますね。「顔の印影をつけるために隈取りが描かれている点」「同じ太さで描かれている点(鉄線描)」が共通しています。個人的には左右の二人が謎にふてくされてるのがジワジワくる一枚です。

高松塚古墳壁画の「西壁女子群像」See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

こちらは高松塚古墳壁画の「西壁女子群像」です。ガールズトークしてますね。スカートが令和の今でも全然古くないくらいかわいくて、マジで素晴らしい。この服装は当時流行っていたファッションだと見られていて、高句麗の古墳壁画にも同じものが見られます。やはり、ファッションに至るまでむっちゃ影響を受けてたんですね。

Old replica before 1945, Public domain, via Wikimedia Commons

最後に正倉院の「鳥毛立女屏風」です。こちらは唐で流行していた女性画を日本でも真似て描かれたもので「今の唐ではこんな感じの絵が流行ってたんだぞ」というメッセージを持っています。

実際に当時の唐ではこうしたぽっちゃりした女性の絵が流行っていて、それは実は三大美女の一人・楊貴妃がモデルだったともいわれます。楊貴妃って実はそこそこぽっちゃりだったんですよね。
ただそれが「嫌だ!ぶちゃいくじゃん!」というわけではなくて、当時はまゆ毛もボディもふくよかな女性が美人の代名詞だったわけです。美醜の感覚は人と時代によって大きく左右されてきたわけですね。

史上まれに見る国際色豊かな時代

さて、今回は飛鳥・奈良時代の美術の前編をお届けしました。この時代は本格的に他国との交流が始まり、今の日本文化の基礎が築かれた時代といってもよいでしょう。

次回は今回でご紹介しきれなかった奈良時代の仏像の後編をお届けします。

▼次回記事はこちら!唐の影響を受けた名作仏像がズラリ!日本美術史を流れで学ぶ(第4回)~飛鳥・奈良時代の美術編その2~
https://irohani.art/study/12452/

【写真7枚】仏教到来で日本の美術が超進化!日本美術史を流れで学ぶ(第3回)~飛鳥・奈良時代の美術編その1~ を詳しく見る
ジュウ・ショ

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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。

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