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STUDY

2024.7.15

【芸術家の詩心に迫る】ムンクと芥川龍之介「不安」を芸術に昇華した二人

ほんとうにこころを揺さぶられるような経験をしたとき、人間の胸には深い嘆息とともに、それを表現したいという衝動が湧き上がります。
芸術家たちは、その衝動を詩や絵画、彫刻など、様々な形へと昇華させてきました。そして私たちは、彼らの作品を通して、時代を超えてその心の奥底に触れることができるのです。

ムンクの傑作『叫び』に描かれた、不安に歪む空間と男。芥川の小説『歯車』から聞こえてくるような、静かに背後に忍び寄るかのような狂気。一見全く異なる表現者である彼らですが、実は「不安」という共通の感情を作品に刻み込んだ芸術家でした。

国籍も表現方法も異なる二人の天才は、なぜ「不安」というテーマに惹きつけられたのでしょうか?
この記事では、ムンクと芥川、二人の芸術家の作品に共通する「不安」という詩心にスポットライトを当て、比較することで彼らの心の奥底に迫ります。

時代を超えて愛される作品を生み出した彼らの「不安」との向き合い方から、私たち自身の心の在り方についても新たな視点を得ることができるかもしれません。

ムンクと芥川龍之介:二人の芸術家のプロフィール

ムンク:不安や孤独など人間の根源的な感情を描いた表現主義の先駆者

Edvard Munch 1933Public domain, via Wikimedia Commons.

エドヴァルド・ムンク (1863-1944) は、ノルウェー出身の画家です。

『叫び』をはじめとする作品群は、人間の根源的な不安や孤独、絶望などを強烈な色彩と大胆な筆致で表現し、20世紀の美術に多大な影響を与えました。
人間の内面世界を表現する「表現主義」の先駆者として知られています。

『「表現主義」って?アートを理解するための基礎を学ぶ【芸術理論②】』を読む

ムンクの芸術を語る上で欠かせないのは、彼自身の波乱に満ちた人生経験です。幼少期の家族の死、自身の病弱さ、恋愛の破綻など、様々な苦悩が彼の創作の源泉となりました。

ムンクの作品は、単なる写実表現を超え、内面世界の投影としての役割を担っています。 歪んだ風景や人物の表情、鮮烈な色彩は、鑑賞者の心に直接訴えかける力強さを持っています。
代表作『叫び』は、血のような夕焼けの下で、頭を抱えて苦悶する人物の姿を描いた、誰もが知る有名な作品です。 この作品は、人間の根源的な不安や恐怖を象徴するものとして、時代を超えて多くの人々の共感を呼んでいます。

【ムンクの代表作】
叫び (1893年)
マドンナ (1894-95年)
病気の子ども (1885-86年)
生命のダンス (1899-1900年)

芥川龍之介:人間の業の深さを描く、近代日本文学の旗手

芥川龍之介Public domain, via Wikimedia Commons.

芥川龍之介 (1892-1927) は、大正時代から昭和時代初期にかけて活躍した、日本の小説家です。
『羅生門』『鼻』『藪の中』などの名作で知られ、鋭い洞察力と洗練された文体で、人間のエゴイズムや道徳、生死といった普遍的なテーマを描き、近代日本文学を代表する作家の一人として、今なお多くの読者を魅了しています。

夏目漱石を師と仰ぎ、漱石門下生の一人として、若くして文壇に認められました。しかし、文豪としての栄光とは裏腹に、芥川は常に孤独と不安を抱えていました。
神経質な感受性の持ち主であった彼は、自身の内面に渦巻く闇や社会との違和感に苦しみ、それが作品にも色濃く反映されています。

代表作『羅生門』は、平安時代末期の荒廃した京都を舞台に、生きるために悪に手を染めていく下人の姿を描き、人間の心の闇を鋭く問いかける作品です。
『歯車』などの晩年の作品では、現実と幻想の境界が曖昧になり、彼の精神状態が反映されていると言われています。
35歳という若さで自殺という道を選んだ芥川龍之介。彼の自死の原因とされる「唯ぼんやりした不安」という言葉はあまりにも有名です。

【芥川龍之介の代表作】
羅生門 (1915年)
鼻 (1916年)
地獄変(1918年)
藪の中 (1922年)
歯車 (1927年)

ムンクと芥川龍之介のタイムライン

芥川龍之介は1892年生まれであり、1863年生まれのムンクとはちょうど30歳ほどの差があります。(ムンクがあの名作『叫び』を制作した年の前年に芥川は誕生しています。)

芥川は35歳という若さで自殺したため、ムンクに比べると活動期間が短いですが、この国を超えた二人の芸術家は19世紀末から20世紀初頭という世界が急速に近代化に進む時代情勢の中で、それぞれがそれぞれの表現で偉大な名作を生み出しました。

ムンクが生きたノルウェーは、19世紀、デンマークからの独立、産業革命による経済成長、民主化運動の高まりなど、大きな変化の波に飲まれていました。
伝統的な価値観が揺らぎ、新しい時代への期待と不安が交錯する中で、ムンクも「時代の不安」を鋭く感じ取っていたのでしょうか。
彼の作品にしばしば登場する、不安定な表情の人物や、歪んだ風景は、そうした時代の空気感も反映しているのかもしれません。

一方、芥川が青春時代を過ごした当時の日本もまた、日露戦争の勝利を経て、列強の仲間入りを果たそうと、富国強兵政策、資本主義経済の導入を推し進めた結果、都市化、貧富の差の拡大、西洋思想の流入など、社会構造や人々の価値観が大きく変化しました。

特に西洋の合理的思想の流入によって生まれた今までの伝統的な日本的思考とのギャップは、「近代的自我」の問題として当時の若いインテリ層を苦悩させました。
芥川もまた、そうした苦悩を抱えた一人でした。

彼の作品に見られる、人間のエゴイズムや道徳の崩壊、精神の不安定さといったテーマは、まさにそうした時代背景と無縁ではいられなかったのでしょう。

二人を取り巻く時代背景には、現代にも通ずる大きな変革の潮流がありました。

「不安」の表現〜ムンクの『叫び』と芥川の『歯車』の色彩感覚〜

ムンクと芥川は、国も表現のジャンルも異なりますが、ともに「不安」という感情を重要なテーマとして作品に織り込んでいます。
ここでは、ムンクの代表作『叫び』と、芥川の晩年の傑作『歯車』を比較しながら、二人の芸術家がどのように「不安」を表現しているのか、特に色彩感覚に注目して探っていきます。

ムンクの『叫び』の色彩:血のような夕焼けと歪んだ世界

Edvard Munch - The ScreamPublic domain, via Wikimedia Commons.

『叫び』の最も印象的な要素の一つが、燃えるような夕焼けの空です。 赤、オレンジ、黄色といった色が、空を覆い尽くし、まるで血が流れ出しているかのような不気味さを醸し出しています。

『ムンクの『叫び』はどんな絵?作品の特徴や見どころをわかりやすく解説!』を読む

この強烈な色彩は、この絵に描かれた主人公の体験する不安や恐怖を視覚的に増幅させています。
また、背景の風景は、波打つような線で描かれ、現実とは思えないほど歪んでいます。
これは、主人公の精神状態が不安定になっていることを暗示しており、鑑賞者に不安感や不穏な気持ちを抱かせます。

ムンクは色彩を感情表現の手段として用い、特にこうした強烈な赤色の空は1894年制作の『不安』などにも描かれており、繰り返し登場するモチーフとなっています。

芥川の『歯車』の色彩:神経症的に描かれる色の対比

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一方、芥川の『歯車』では、精神状態の悪化した主人公は目に映るものの色に鋭敏に反応します。彼にとって、緑や青は精神の安寧を示す「幸運の色」として、対して黄や赤、茶、黒は「地獄」「死」「狂気」を暗示する「不幸の色」として対比されています。

『歯車』における幸運と不幸の色対比の説明表『歯車』の作中における色対比表現について

こうした色の対比は、師である漱石の『それから』などの影響も見られますが、色彩語を豊富に用いた表現は、主人公の神経症的な一面や、精神状態の悪化、狂気への傾倒を暗示する重要な役割を担っています。

このように、ムンクと芥川は、自らの内奥にある「不安」や「恐怖」というマイナスな感情を表現するために、色彩を効果的に利用しています。

「不安」がもたらす症状

「不安」は表現における色彩だけではなく、彼ら二人を悩ます症状にも現れています。これは、精神医学的には幻覚とよばれる症状です。
芥川龍之介の『歯車』で主人公は視界の隅に現れる歯車の幻視を発狂の予兆として恐れていました。これは芥川の体験であるとも前衛的な文学手法とも呼ばれていますが、それは奇妙にもムンクの『叫び』で自然のつんざく声(=幻聴)に耳を塞ぐ男を私たちに思い出させはしないでしょうか?

二人は、こういった幻覚世界を作品に投影することで、より彼らの作品とそのテーマである「不安」の感情を鑑賞者に思い出させることに成功しました。

ムンクと芥川に共通していた精神的苦悩と創造性について

彼らは、ともに精神的に不安定な側面を抱えていましたが、その苦悩を創作のエネルギーへと昇華させ、『叫び』や『歯車』のような傑作を生み出しました。彼らの作品は、単なる個人的な苦悩の吐露ではなく、時代を超えて多くの人々の共感を呼ぶ普遍的なテーマを含んでいます。

ムンクは、幼い頃から、死と隣り合わせの環境にありました。彼は5歳のときに母を、14歳のときに姉を結核で亡くしています。こうした経験が、彼に死生観や人間存在の脆さといったテーマを意識させ、それが作品に色濃く反映されているように感じます。

特に、彼が繰り返し描いた『病気の子ども』というモチーフは、そうした喪失体験と深く結びついていると言えるでしょう。

エドヴァルド・ムンク - 病気の子供 - MM.M.00051 - ムンク美術館Public domain, via Wikimedia Commons.

一方、芥川が生涯にわたって抱え続けた不安の根底には、不安定な精神状態であった母親の存在が影を落としていると言われています。「自分も精神病を患うかもしれない」という不安は、芥川の文学的創造の源泉の一つとなり、『地獄変』『蜘蛛の糸』など、人間の心の奥底にある狂気や恐怖を鋭く描く原動力となったのです。

ムンクは、不安や孤独を表現するために、色彩や構図を工夫し、独自の絵画様式を確立しました。彼の作品は、鑑賞者に不安感や不穏な気持ちを抱かせますが、同時に人間の心の奥底にある感情を揺さぶる力強さも持っています。

芥川は、鋭い観察眼と洗練された文体で、人間のエゴイズムや道徳、生死といった普遍的なテーマを描き、近代日本文学の金字塔を打ち立てました。彼の作品は、読者に人間の心の闇を突きつけますが、同時に人生の真実を問いかける深遠さも兼ね備えています。

二人の芸術家は、自身の苦悩を作品に昇華させることで、芸術の持つ力を証明したと言えるでしょう。

まとめ

ムンクと芥川は、時代も文化も異なる芸術家ですが、「不安」という感情を重要なテーマとして作品に表現している点で共通しています。彼らの作品は、時代を超えて多くの人々の共感を呼び、芸術が人間の心の奥底に訴えかける力を持っていることを証明しています。

ムンクと芥川、二人の天才が表現した「不安」は、100年以上経った今でも、私たちの心を強く揺さぶります。それは、私たち自身もまた、時代の変化や社会の矛盾の中で、様々な「不安」を抱えながら生きているからではないでしょうか。

二人の作品に触れることで、私たちは、自身の内面にも潜む「不安」という感情と向き合い、人間の心の複雑さを改めて認識することができるように思います。


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tom

東京在住ライターで専門分野は文芸批評、アート、テクノロジーなど。007シリーズとセロニアス・モンクを愛する38歳。読書とハイキングが趣味。

東京在住ライターで専門分野は文芸批評、アート、テクノロジーなど。007シリーズとセロニアス・モンクを愛する38歳。読書とハイキングが趣味。

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