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2024.6.27
オフィーリア・コンプレックスに取り憑かれた画家たち:水と女と死のラルゴ
水に浮かぶ白い肌、花々に囲まれながら、永遠の眠りにつく女―。それは、シェイクスピアの戯曲「ハムレット」に登場する悲劇のヒロイン、オフィーリアの姿です。
愛するハムレットに翻弄され、狂気を纏いながら川に身を投じる彼女の最期は、多くの芸術家の心を掴み、筆を執らせる、抗いがたい誘惑となりました。
彼らは、オフィーリアの物語に何を見たのでしょうか?
目次
「オフィーリア・コンプレックス」とは
フランスの哲学者ガストン・バシュラールは、著書『水と夢―物質の想像力についての試論』の中で、水に付与されてきたイマージュ群のひとつとしてオフィーリアを指摘し、そこに潜む水と死、女性性に対する潜在的な欲望を「オフィーリア・コンプレックス」と名付けました。
水は、生命の源であると同時に、死の象徴でもあります。
また、女性は、その両義性を持つ「水」と、古くから密接に結びついてきました。涙は、女性の悲しみや喜びを象徴し、海は、母なる大地のように、生命を包み込む存在として崇められてきました。
バシュラールは、オフィーリアの物語に、こうした「水と女と死」の原型的イメージを見出したのです。そして、彼の説は、多くの芸術家たちの創作意欲をかき立て、オフィーリアは、時代を超えて描き続けられるモチーフとなりました。
ここでは、オフィーリアの姿を通して、「オフィーリア・コンプレックス」に取り憑かれた画家たちの軌跡を追いかけ、そこに描かれた「水と女と死」のモチーフの深淵を覗いてみましょう。
1. ラファエル前派時代:写実と象徴が織りなす、新たなオフィーリア像
19世紀半ばのイギリスで、当時のアカデミズムに反旗を翻し、新たな芸術の地平を切り開いたのが、ラファエル前派です。彼らは、ルネサンス期の巨匠ラファエロ以前の、自然への忠実な描写と、中世の宗教画に見られるような象徴性を重視した芸術を追求しました。
そして、オフィーリアの物語は、ラファエル前派やその時代の画家たちにとって、格好の題材となりました。ジョン・エヴァレット・ミレイやアーサー・ヒューズらの画家がオフィーリアをモチーフにした作品を描いています。
1.1 ジョン・エヴァレット・ミレイ「オフィーリア」(1851-1852年): 水に溶け込むように消えゆく命
John Everett Millais - Ophelia -Public domain, via Wikimedia Commons.
ミレイの「オフィーリア」は、ラファエル前派の美学を最もよく表している作品の一つと言えるでしょう。
作品は、水面に浮かぶオフィーリアの姿を描いています。その顔は青白く、唇はわずかに開き、まるで夢を見ているかのようです。彼女の周りには、色とりどりの花々が咲き乱れ、その美しさは、彼女の死の悲劇をより一層際立たせています。
ミレイは、この作品のために、実際に郊外の川でモデルに衣装を着せてポーズを取らせ、何週間もかけて制作したと言われています。水面のきらめきや、草花の細部に至るまで、徹底的に写実性を追求したその姿勢は、ラファエル前派の理念を色濃く反映しています。
しかし、ミレイの「オフィーリア」の魅力は、単なる写実性だけにとどまりません。水面に浮かぶオフィーリアの姿は、生と死の境界があいまいな、幻想的な雰囲気を醸し出しています。
水中に没していくオフィーリアの姿は、死への誘いと、魂の解放、そして、母なる水への回帰という、「オフィーリア・コンプレックス」のイメージを同時に喚起させます。
ミレーはこの作品で、オフィーリアをただの悲劇のヒロインとして描くのではなく、死と再生、美と哀しみ、現実と幻想が交錯する、複雑で多層的なイメージを表現しようと試みているように感じられます。
1.2. アーサー・ヒューズ「オフィーリア」(1852年): 狂気と悲しみの狭間で揺れ動く心
Arthur Hughes - OpheliaPublic domain, via Wikimedia Commons.
アーサー・ヒューズは、ミレイと同じくラファエル前派時代の画家ですが、繊細なタッチでオフィーリアの心の内面を描写しています。
ヒューズの「オフィーリア」は、ミレイの作品と同じ年に制作され、同じロイヤルアカデミーの展覧会に出品されました。ミレイの作品が、オフィーリアの死の瞬間を描いているのに対し、ヒューズの作品は、オフィーリアが狂気に陥り、川辺をさまよう姿を捉えています。
うつろな目で遠くを見つめるオフィーリアの姿は、ハムレットへの愛と、裏切りによる絶望、そして、狂気へと堕ちていく自身の運命に翻弄される、彼女の心の葛藤を雄弁に物語っているようです。
1.3. トマス・フランシス・ディクシー「オフィーリア」(1873年): ラファエル前派の系譜を受け継ぐ美意識
Ophelia - oil paintingPublic domain, via Wikimedia Commons.
トマス・フランシス・ディクシーは、ラファエル前派の画家たちから直接の影響を受けた画家です。彼の「オフィーリア」は、ラファエル前派の美意識を受け継ぎながら、より装飾的でドラマティックな表現で描かれています。
水辺に座り込み、花を手にしたオフィーリアの姿は、美しく、そして、どこか妖艶な雰囲気さえ漂わせます。しかし、彼女の思い詰めたようなような表情は、彼女の心の奥底に潜む、狂気と死の影を暗示しているかのようです。
2. フランス絵画におけるオフィーリア:ロマン主義から象徴主義へ
19世紀のフランスでは、ロマン主義から象徴主義へと移り変わる中で、オフィーリアの物語は、画家たちの想像力を刺激し続けました。彼らは、それぞれの表現方法で、オフィーリアの悲劇を描き出すことで、「水と女と死」という普遍的なテーマと向き合っていったのです。
2.1 ウジェーヌ・ドラクロワ「オフィーリア」(1838年): ロマン主義の巨匠が描いた、劇的な生の輝き
Eugène Delacroix. The Death of OpheliaPublic domain, via Wikimedia Commons.
ロマン主義を代表する画家、ウジェーヌ・ドラクロワは、オフィーリアの死の直前、川に落ちそうになりながら、必死に枝にしがみつく姿を、躍動感あふれる筆致で描いています。
激しく波打つ水面、今にも折れそうな枝、そして、恐怖に満ちたオフィーリアの表情は、彼女の置かれた絶望的な状況を物語ると同時に、それでも生きようとする、彼女の生のエネルギーを感じさせます。
2.2. アレクサンドル・カバネル「オフィーリア」(1883年): アカデミズムの巨匠が描いた、理想化された美
Alexandre Cabanel, OpheliaPublic domain, via Wikimedia Commons.
アレクサンドル・カバネルは、当時のフランス画壇の主流であったアカデミズムを代表する画家です。彼の「オフィーリア」は、古典的な美の規範に基づいて描かれた、理想化されたオフィーリア像と言えるでしょう。
水面に浮かぶオフィーリアの姿は、まるでギリシャ彫刻のように美しく、死の苦しみや恐怖を感じさせません。むしろ、彼女は、永遠の眠りについた女神のように、穏やかで神々しいオーラを放っています。
2.3. オディロン・ルドン「オフィーリア」(1901年): 象徴主義の旗手が描いた、幻想と現実の境界
Odilon Redon, Ophelia among the FlowersPublic domain, via Wikimedia Commons.
象徴主義の画家、オディロン・ルドンは、夢や幻想の世界を、独特の色彩感覚で表現したことで知られています。彼の「オフィーリア」は、水面に浮かぶオフィーリアの姿が、幻想的な雰囲気で描かれています。
ルドンは、オフィーリアの物語を、現実の出来事として捉えるのではなく、むしろ、人間の深層心理に潜む、死への憧憬や、永遠の美への希求を象徴的に表現しようと試みたのです。
3. 時代を超えて受け継がれるオフィーリアのイメージ
オフィーリアの物語は、19世紀以降も、多くの芸術家たちに影響を与え続け、映画や写真、演劇、オペラなど、様々なジャンルで表現されてきました。日本でも夏目漱石が『草枕』の中で言及しています。
こうした頻出は、オフィーリアの物語が、私たち一人ひとりの内面に潜む「オフィーリア・コンプレックス」と向き合うことを迫っているのかもしれません。
水と女と死―。それは、永遠に解き明かすことのできない、人間の根源的なテーマです。そして、オフィーリアは、その象徴として、永遠に水底を漂い続けるのでしょう。
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tom
東京在住ライターで専門分野は文芸批評、アート、テクノロジーなど。007シリーズとセロニアス・モンクを愛する38歳。読書とハイキングが趣味。
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