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2024.11.22
ゴッホの耳切り事件とは?耳を切り落とした理由・経緯を解説
フィンセント・ファン・ゴッホは、世界的に有名なオランダの画家です。彼の名はその情熱的な絵画と波乱に満ちた生涯によって強く結びつけられています。
彼の作品は、今や美術史の中で欠かせない位置を占めていますが、作品よりも「人生」に興味がある方も多いことでしょう。その象徴的な場面が、ゴーギャンとの生活の末に発生した「耳切り事件」です。
なぜゴッホは耳を切ったのか。今回はゴッホの「ヤバい人生」とも言える激動の生涯を、彼の画家としての道のりを通じて振り返りつつ、彼が耳を切った理由に迫ります。
幼少期から癇癪持ちだったゴッホ
VanGogh 1887 Selbstbildnis, Public domain, via Wikimedia Commons.
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年、オランダのズンデルトで生まれました。少年時代から、彼は変わり者で、しばしば癇癪を起こし、家族や学校に馴染めなかったといいます。
早々に高校を中退し、ニートとなった16歳の彼は、伯父のコネで画商の会社に就職し、約6年間のサラリーマン生活を送りました。今後の彼の人生を思うと、サラリーマン時代があっただけでも意外だと思います。
ただ、ゴッホはサラリーマン時代、ずーっと人間関係がうまくいっていませんでした。最終的にはクリスマスの休暇申請を却下されたにも関わらず無視して実家に帰省します。その結果、解雇されました。
en:Vincent van Gogh age eighteen, Public domain, via Wikimedia Commons.
退職後はキリスト教の伝道師を目指して受験勉強をはじめるも、難しすぎてサボるようになってしまいます。父から指摘されても響かず、むしろやる気をなくしてしまうような青年期を送りました。
結局、受験はしなかったものの、25歳で伝道師になります。しかし、キリスト教を理解することなく自分の教えを押し付けるような伝道師だったため、最終的には解雇されてしまいました。
この結果、ゴッホはうつ状態で放浪生活をするようになります。ズタボロの状態で実家に帰ってきた彼を見て、父親は精神科病院を勧めるも、病人扱いされたことにゴッホは激怒して、家出をしてしまいました。
このエピソードを見て、ゴッホの精神状態が尖り切っていることに気づくでしょう。彼はもともと情熱が強すぎるため、あまり周りの意見を聞かず、突き進むタイプです。一方でメンタルが強いわけではなく、叱られたり、否定されたりすると落ち込んでしまいます。
画家のキャリアをスタートするも周りに馴染めなかった
『泥炭湿原で働く女たち』1883年10月、ニーウ・アムステルダム。油彩、キャンバス、27.8 × 36.5 cm。ゴッホ美術館[95]F 19, JH 409。, Public domain, via Wikimedia Commons.
仕事も親の援助もないゴッホは、弟のテオドルス(以下、テオ)からの援助を受けて、26歳から画家のキャリアをスタートします。
しかし、なかなか人間関係を構築できませんでした。恋愛もうまくいかず、28歳のとき、歳上のシングルマザーに恋をして求婚するもあっさり断られます。
しかし、諦めないのがゴッホです。テオの仕送りで相手の実家に押しかけるも、相手の家族から断られ、意気消沈します。
その後、ゴッホは先輩の画家、アントン・モーヴに気に入られ、資金の援助を受けはじめました。しかしゴッホはなんと、絵のモデルである女性と付き合い、モーヴのお金で彼女の家賃を援助していたのです。これでモーヴとの縁も切れてしまいました。
当時のゴッホは当時知り合ったほかの画家ともうまくなじめなかったそうです。例えば自分の絵を指摘されると怒り始めるのが常だったそうで、周りも関わりを断つようになりました。
ゴッホは三十路に突入してからも、周りの画家たちとケンカし、求婚しては振られ、パリで同居を始めたテオからの金で生活をしていた状況でした。そのうえ絵が売れないので、イライラを弟にぶつけるような毎日を送っていたといいます。
ゴーギャンとの共同生活の末に起きた「耳切り事件」
『ひまわり』1888年8月、アルル。油彩、キャンバス、92.0 × 73.0 cm。ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)[166]F 456, JH 1561。, Public domain, via Wikimedia Commons.
そんなゴッホは35歳にして南フランスのアルルに移住。先輩画家、ポール・ゴーギャンに同居を打診し、有名な共同生活が始まるわけです。
ゴッホはゴーギャンが到着する前に、テオにお金を催促してたくさんの作品を描いています。合流の前にどうしても自信作を仕上げたかったのでしょう。ゴッホのプライドを感じますね。あの『ひまわり』シリーズの一部も、この時期に描いた作品です。
同居生活が始まり、最初のころゴッホとゴーギャンは良好な関係を保っていました。一緒に散歩して絵を描いたり、ぶどう畑を見に行ったりと楽しく過ごしていたそうです。
ゴーギャンによる、ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像(1888年11月)。, Public domain, via Wikimedia Commons.
しかし2人の芸術観はまったく合いませんでした。ゴッホは色彩感覚こそ鋭いが、基本的に見たものを写実的に描く画家です。一方、ゴーギャンは感覚を重要視する画家だといえます。目に映った光景を、自分の内面のフィルターを通してキャンバスに落とし込む作風です。
ゴッホはゴーギャンの技法を指摘し、逆もしかりでした。しかし思想が違っているので、なかなか馬が合いませんでした。ゴッホの「画家としての信念をどうしても曲げたくない」という思いの強さがよく分かるエピソードです。
案の定、ゴーギャンとゴッホは大ゲンカします。さまざまな説がありますが、一説によるとゴーギャンは去り際にゴッホの自画像について「耳が変だ」と指摘し、さっさとアルルの家を出てしまったそうです。
これが「耳切事件」に発展します。諸説ありますが、ゴッホは剃刀で自分の耳を切り、共通の知り合いである女性に「大事にとっておいてね」と言って渡し、警察に保護されて入院しました。当時の新聞にも載る騒ぎだったといいます。
耳の無い自画像の制作
Van Gogh - Selbstbildnis mit verbundenem Ohr, Public domain, via Wikimedia Commons.
耳を切ったこともそうだが、ゴッホの「情熱」を感じるのはここからです。彼は入院後、わずか2週間ほどで一時帰宅してアルルの家に戻り、鏡を見ながら『耳のない自画像』を2枚描くわけです。画家として「今の感情を残しておかねば」と思ったのかもしれません。
当時、自分が一定間隔でてんかんの発作に襲われることをわかっていた彼は、安定した状態のうちに猛スピードで絵を描いていたといいます。
精神的、肉体的にボロボロで疲れきった状態にもかかわらず、一心不乱にキャンバスに向かい、少しでも作品を描こうとする狂気。これが、ゴッホたるゆえんだといえるでしょう。
まとめ
ここまでを振り返ると、「耳切り事件」はもともと気性が激しく、自尊心が強かったゴッホが取るべくして取った行動だともいえます。耳を切った背景には、「絵に対する情熱」だけでなく、生きづらさを抱えた「自分」に対しての情熱も感じられます。
ゴッホは絵に対する情熱が強すぎて、プライベートはボロボロでした。しかし、だからこそ彼の作品にはエネルギーがあります。ぜひ彼のプライベートを知ったうえであらためて作品を鑑賞してみてください。
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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