STUDY
2022.3.3
西洋美術史を流れで学ぶ(第19回)~ロマン主義編~
「これから美術に興味を持ちたい」と考えている方に向けて、フランクに楽しく西洋美術史をお伝えするこの企画。前回は「教科書通りの絵を描こうね」という、なんかやたらとかっちりした新古典主義について紹介しました。
▼前回記事はこちら
西洋美術史を流れで学ぶ(第18回)~新古典主義編~
https://irohani.art/study/6753/
今回はそんな新古典主義から抜け出して「自分の表現」を一心不乱に追いかける「ロマン主義」について紹介。新古典主義と同時代のブームです。新古典主義とロマン主義は西洋美術史最大といってもいいライバル関係でした。
そんな1700年代後半から1800年代前半の世界について見ていきましょう。
目次
新古典主義を支持していたナポレオンが失脚
ジャック=ルイ=ダヴィッド『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』, Public domain, via Wikimedia Commons
まず、前回の記事でご紹介した通り、1700年代の後半は新古典主義が絵画での主流となりました。まずはざっくり新古典主義を振り返ってみましょう。新古典主義とは「理性をもってきっちりした絵を描きましょう」という考えのもと発達したブームです。
その前にロココ美術という「とにかくド派手で豪華絢爛な作品」がもてはやされた時代があって、その反動で「ちょっといったん落ち着け」となったんですね。
また新古典主義ってのは「ナポレオンのプロパガンダに利用されていた」という背景もあります。だから戦場の軍人を描く絵もすごく多いんですね。きっちりと重厚なタッチで描かれる戦争画は、めっちゃかっこいいんですよ。
ただ、ナポレオンは1814年にボロ負けします。いよいよ絶望した彼は、最終的にフォンテーヌ宮殿で自ら毒をあおって死んだとされています。この時のフランスってのはけっこう残酷。ナポレオンが死ぬとともに、新古典主義の画家たちも国を追われるんですね。中心人物だったダヴィッドも亡命しました。
新古典主義が失速するとともにはじまるロマン主義
それでフランスは軍人による統治から、王政に戻るんですね。すると「戦争画とかもう古くね?」と手のひらを返されちゃうんです。だんだんと新古典主義の勢いがなくなるなか、出てきたのが「ロマン主義」です。
ロマン主義の語源は「ロマンス」です。ロマンスが生まれた背景をざっくり説明しましょう。このころローマ帝国では「書き言葉」と「話し言葉」に分かれていました。このうち話し言葉のほうを「ロマンス語」と呼んでいたんですね。それで、だんだんとロマンス語で書かれる文学・ロマンスが増えていくわけです。その解釈が文学以外にも広がって「古典(書き言葉)に対する文化」として「ロマン主義」といわれるようになります。
日本でいうと、平成の時代に流行った携帯小説とか、SNS上の連載小説とかが、まさしく「ロマンス」的な位置づけですね。昔の価値観に縛られない、あたらしい文化が誕生するわけです。このロマン主義がナポレオン失脚後に、もうとんでもなくめっちゃ人気になります。
ロマン主義とは新古典主義の対義語として出てきた言葉なんですね。新古典主義が「理性的」「合理的」といった面を重視していたのに対して、ロマン主義は「自分自身の感性を信じて描くぜ」というストロングスタイル。その結果「現実的にはあり得ない」とか「超見にくい」みたいな絵が完成したとしてもOKです。だって、それは自分の感受性だから。自分にしか分からない世界を描いているわけですからね。
新古典主義VSロマン主義が勃発
ナポレオン失脚後に「新古典主義」は完全に消えたわけではありませんでした。だいぶ
ダメージは受けていましたが「『正確な線』を重視した合理的で理性的な絵画こそが優れているのだ」と信じていたんですね。
そこに「自分の感性を信じるぜ」というロマン主義が出てきたわけで、お互いのやりたいことが真っ向から衝突するんです。ここから「新古典主義VSロマン主義」が勃発します。
テオドール・ジェリコーの現実を重視した作品によってロマン主義絵画がスタートする
まずロマン主義の萌芽を描いた画家がテオドール・ジェリコーです。ジェリコーは元来、新古典主義の画家で、初期には兵隊の絵もたくさん描いています。
ただ、他の新古典主義の画家が神話とか宗教を描くのに対して、彼は現実世界の事件や風景のほうが好きだったんですね。「もうええわ。もう古代ギリシャの神々とか、なんにも心に響かんわ」と。「それより実際に起きた事件を描きたいんだけれども」と。神話画・宗教画全盛の当時としてはかなり尖った考えを持っていたんです。
で、彼は28歳のときに「メデューズ号の筏(いかだ)」という作品を出します。これが当時の展覧会(サロン・ド・パリ)では、もう信じられないくらい話題になるんです。賛否両論の嵐でした。
テオドール・ジェリコー『メデューズ号の筏』, Public domain, via Wikimedia Commons
この絵の主題は「メデューズ号の難破事件」という、当時のフランスで実際にあった事件です。フランス海軍のフリゲート艦メデューズ号が難破し、約150人の乗組員が急ごしらえの筏で漂流するんですね。救助されたのは漂流から13日後で生存者は15人だけだった。調べると漂流中には殺人、食人までなされていた、という惨い事件です。
ジェリコーは乗組員に実際に取材をして、この作品を描きました。凄惨っぷりがもう全面に出ていて、観た人によっては「なんてひどい作品だ」と思ったそうです。ただ「人間の苦しみがここまで伝わってくる作品はなかなかないぞ」と高い評価も受けました。
念のため、強調しておくとこの作品は誰かの依頼で描いたものではなく、彼自身が自発的に描きました。ここにこそ「ロマン主義」の思想が見えます。
ロマン主義を完全に確立したウジェーヌ・ドラクロワ
ウジェーヌ・ドラクロワの肖像写真, Public domain, via Wikimedia Commons
そんなジェリコーの弟子だったのが、ドラクロワです。彼はジェリコーの「自分自身の感覚を大事にして作品を作る」という思考に惚れ切っており、ロマン主義を受け継ぎます。ジェリコーは35歳と若くして亡くなるんですが、その際には「メデューズ号の筏」へのリスペクトも込めて「キオス島の虐殺」を描きました。
ウジェーヌ・ドラクロワ『キオス島の虐殺』, Public domain, via Wikimedia Commons
これも実際にあった事件の光景です。トルコ軍兵士がギリシアのキオス島一般住民を含めて虐殺した事件の様子を描きました。これも師匠とおそろいでサロンでは賛否両論の嵐だった。「ギリシャの人々に加護を」と涙する人もいれば、「絵まで虐殺されとるがなこれ」と酷評する批評家もいました。
その後、ドラクロワは鮮やかな色彩感覚でロマン主義的な作品を発表し続けます。
「アングルVSドラクロワ」という西洋絵画史きってのライバル関係
そんなドラクロワの活躍を快く思っていなかったのが、新古典主義のリーダー的存在まで上り詰めていた「ドミニク・アングル」でした。アングルについては前回の記事でご紹介していますので、参考にしてみてください。
アングルはドラクロワより18歳くらい年上で、ドラクロワがデビューするころには、既にサロンのスター選手だった人です。彼は新古典主義の指導者的な立ち位置で、王立アカデミーの院長まで務めた人です。ざっくりいうと「しっかりした人」ですね。絵の構図も教科書通りです。
ただアングルは「新古典主義はこのままでいいのだろうか」と悩んでいました。「昔ながらの画風を踏襲して、それで成長できるのだろうか」と。そんなアングルはドラクロワが出てくる前に「よし、殻を破ってみよう」と冒険するんですね。
ドミニク・アングル『グランド・オダリスク』, Public domain, via Wikimedia Commons
そこで描いたのが「グランド・オダリスク」でした。前回お伝えしたように、彼はルネサンスの巨匠・ラファエロの熱狂的フォロワーだったので、中央に「円形」の空白が空いているのがわかるでしょう。ただし、明らかに身体が長いですよね。
ダックスフントくらい長い。これは正確さを求める新古典主義では考えられないんですよね。この表現にアングルの「どうだ。これが新しい表現だ。俺は主観的に美しいものを描いたんだ」というガッツポーズが詰まってます。
ただ、この作品はサロンでボロクソに言われるわけです。「背骨3本くらい多いだろコレ」とか言われちゃいます。この時のアングルは悔しかったでしょう。「いや分かってるわ!そのうえで表現してるからなこっちは!」と思ったでしょう。しかし世間はアングルに対して「新古典主義を極めてほしい」と思っていたので、彼の新しい表現を受け入れられなかったんです。
その後、アングルはもとの昔ながらの正確なデッサンに戻っちゃいます。そして新古典主義のリーダーとして、世間的にはエリート街道を突っ走ることになりました。
そんなグランド・オベリスク事件から3年後の1822年、まだ24歳のドラクロワがはじめてサロンに出てくるんですね。そこで先ほどの「キオス島の虐殺」を出品。賛否両論ありましたが、新聞の見出しを飾るくらいもてはやされました。
ここでアングルの「ロマン主義」という新しいムーブメントに対する嫉妬が大爆発。「俺がやりたかったやつ!」って感じだったでしょう。この時に2人の風刺画が描かれるほど、対立関係とされていました。
そしてこのアングルの悔しさが最高潮に高まったのは1831年。ドラクロワが「民衆を導く自由の女神」をサロンで発表します。名作絵画の1つですね。
ウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』, Public domain, via Wikimedia Commons
もちろん戦場に半裸の女がいるはずないです。また線ははっきりしていない曖昧なものになっています。新古典主義的な観点ではアウトなんですが、ロマン主義は自分の内面を反映した表現なのでOK。反対に色彩は非常に鮮やかかつ、繊細に描かれています。
この絵画は政府買い込みとなって、国民たちからも大絶賛の嵐だった。この絵によって、ついにロマン主義が世間的に大きく認められるんですね。
そんななかアングルはマジでかわいい。とにかく面白くなく「あいつは絵が分かっちゃいない」と言った。本当であればアートに革命を起こすのは自分の「グランド・オベリスク」のはずだったのに。こんな急に出てきた17歳年下の若造が新しい表現を確立させたことに、ジェラってたんです。
ドラクロワはその3年後、1834年に「アルジェの女たち」をサロンに出品。後年、パブロ・ピカソに大きな影響を与えた名画です。これも政府が買い上げます。
ウジェーヌ・ドラクロワ『アルジェの女たち』, Public domain, via Wikimedia Commons
もはやドラクロワの国内人気は高まってきて、普通はここまでくると「美術アカデミー」に入会を許されるんですね。アカデミーに入ることは「一流の画家として認められること」。機能的なメリットでいうと、国からの依頼が増えるほか、フランスの芸術の審査などを任されることになるんです。
ただドラクロワは許されなかった。なぜなら、審査委員にアングルがいたからです。アングルだけがなんと20年間もドラクロワの入会を拒み続けます。嫉妬の嵐ですよもう。
「表現」の枠を広げたロマン主義
この後、ロマン主義によって、絵画は「自分の内なる表現」に向かっていきます。そして
印象派や後期印象派と進んでいくわけです。それまでは「線」を大事にする。つまり対象物の形をきっちりと書くという描き方がだったのが、ここで「色」、つまり表現を大事にするようになるんです。まさにロマン主義は「表現」の枠を広げたわけだ。
そんなロマン主義を契機として「印象派」「後期印象派」といった人が出てくるんですね。次回はそんな印象派について紹介する前に、ちょうど同じ時期に「新古典主義vsロマン主義」とはほぼ関係なく、フランスのバルビゾン村で発生した「自然主義」についてご紹介します。
▼次回記事はこちら!西洋美術史を流れで学ぶ(20回) ~バルビゾン派編~
https://irohani.art/study/6885/
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アート・カルチャーライター。サブカル系・アート系Webメディアの運営、美術館の専属ライターなどを経験。堅苦しく書かれがちなアートを「深くたのしく」伝えていきます。週刊女性PRIMEでも執筆中です。noteではマンガ、アニメ、文学、音楽なども紹介しています。
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